新生喜劇~LA RENASCITA COMMEDIA~
@cocomocacinamon
第1話
久しぶりに彼女の夢を見た――十年前、大学で初めて出逢った頃の。離婚して三年以上経つが、こんなことは初めてだ。卒業後、二年の交際を経て結婚した私たちの結婚生活は一年というあまりにも短いものだった。別れた当時は身を切られるほどの思いだったが、やがてその傷も癒え、いつしか彼女のことは忘れていたはずなのに……。
仙台市の中心街よりやや北側にある国見と呼ばれる高台に私たちの大学はあった――丘陵地帯を切り拓いて作られた住宅街に取り囲まれたキャンパスの周りには、アップダウンの激しい坂道がいくつもあり、どこへ行くにも上ったり下ったりを繰り返さなくてはならなかった。
私たちの住むアパートは――といっても同棲はしていない。(彼女が住んでいるのを知り、追いかけるように引っ越したのだ)大学の裏門から坂を上り、住宅街を抜け、けもの道を進み、さらに急勾配の坂を上りきったところにあった。裏手には仙台の街を一望できる、見晴らしのいい丘もあった。私は彼女とそこにいた――つまり、夢の中で夢だという自覚があるということだ。
季節は初夏の装いで、みずみずしい若葉たちの深呼吸が吐き出す、さわやかな息のような大気に満ち、暑さと寒さの天秤がやや暑さに傾きかけていた。
しばらくの間、私たちは言葉もなく、ただ街を眺めていたが、二人の頭上を、トカゲの形をした不思議な雲が、時の流れをなぞるようにゆっくりと通り過ぎていった。
「人を愛するって、どういうこと? わからない。私には……」
遠い目をした彼女の口からぼそっと、色を無くした言葉が零れ落ちた。(これは別れの場面だ。大学時代ではなく、二人が最後に交わした言葉だ。覚えている)しかし、私はあの日と同じように、返す言葉が見つけられず、不安の色を読み取られまいと、俯いて自分の足元を見下ろした――すると、突然地面がぐらつき始め、二人を取り囲む世界がまるで卵の殻が割れてゆくようにパラパラと崩れ出した。驚きのあまり、声も出せずにおろおろとしていた私たちは崩れてゆく地面の隙間から、世界の外側に広がる暗闇へと吸い込まれるようにして落ちていった。
目を開けると、一目でその場所がどこかわかった――八木山ベニーランドだ。仙台都心部の西側に隣接する、青葉山の丘陵地にある大きな遊園地だ。東北初の総合遊園地で、一九六八年に開園した。すぐそばには八木山動物公園もあり、仙台市民にとってはおなじみのプレイスポットだ。
施設内には三十近いアトラクションのある、大型遊園地だが、二人は今、巨大な観覧車の真下にある野外ステージの前にいるらしい。どこかで屋台でも出ているのか、焼きトウモロコシの香ばしい匂いが漂っている。ステージの上ではバンドがジャズを演奏している。季節はやはり夏頃で、夕暮れ時だ。流れている曲はオーバー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)で、やさしいピアノと落ち着いた感じのベースと色気のあるテナーサックスの奏でる、聴き慣れた美しいメロディは夕映えの空にきらきらと踊りながら、私たちの上に降り注いできた。
隣に座っている彼女の表情はとても穏やかだ。
「今、この瞬間のすべてを切り取って、全部そう本当に全部のもの、この景色も音楽も、それからこの空間を包み込んでいる空気も光も匂いもすべてのものを永遠の中に閉じ込めてしまいたいわ」
彼女はそう言うと、やわらかな視線を私に向けた。
「せめてビデオカメラがあればね」
私は外人のように両の掌を上に向け、肩をすくめるポーズでおどけてみせた。
「そういうことじゃないのよね」彼女は私から目を逸らし、目の前の観覧車を見上げた。「ビデオに匂いや、まして体感したこの感覚なんかは残しておけないでしょ。本当にそれが大切な瞬間なら、記憶にも残しておけるけど。でも、ほらよく鮮明な記憶とかいうじゃない? あれってどうなのかな? 写真やビデオの映像のように再生できるってこと? そんなわけないよね。大切な思い出って言っても、すべてのことを覚えてはいられないでしょう?」
「すべてを残しておく必要はないんじゃないかな?」
「え?」
「いや、別に悪い意味じゃなくてさ。人の記憶っていうのは確かに時が経てばいろいろと薄れていってしまうものだけれど、それが本当に大切なものなら、その思いだけはずっと残っていくじゃない。ならそれでいいんじゃないのかな」
「そうね……記憶は記録じゃないものね。人の記憶は、ていうか思い出って脳細胞じゃなく、心に刻み込むって感じだものね」
と、ここで突然電波障害の起こったテレビ画面のように、ザーっと砂嵐のようなものが目の前に広がると、またしても私たちは違う場所へと移動した。
目を開けると、イーストリバーが、向こう岸にはブルックリンの街並みが見える――この場所にも見覚えがあった。ブルックリン橋のそばにある、サウス・ストリート・シーポートのショッピングモール、ピア17だ。桟橋の上に建てられた巨大な船のような三階建ての商業施設で、私たちが二〇〇〇年に新婚旅行で訪れた場所だ。季節も確か、初夏だったはずだ。私たちはどうやら今、三階にあるフードコートのファーストフードの店で食事をしているところらしい。昼時で、店内はたくさんの客で埋め尽くされていた。
まるで船内のようなその店の窓際の席で、外に面した大きな窓から川沿いに停泊しているたくさんの船や、そのそばに建ち並ぶ摩天楼を眺めながら私たちは食事をした。それからその後、二人で酒を飲みながら、私は訳のわからない話を始めた。
「――君はそれを牽強付会の説だと言うけれどさ、まあ意味は道理に合わない理屈とか、筋の通らないこじつけの理論といったものだけど、さて、この理屈という字にも、道理という字にも使われている「理」という字は、ことわりって読むけれども、不変の法則、宇宙の根本原理、論理的な筋道といった意味で、それは確かに絶対的に正しいものといった印象があり、それゆえにその理から外れた屁理屈は許されるものではないといった感じだけれども、しかし、一方で人間には「理が非になる」「理に勝って非に落ちる」ということもありえるわけで、つまり人は絶対的ではない、神ではないということ。であれば、ここで一つ、最上級の屁理屈を言わせてもらえば、人においては「理(ことわり)」を文字通り(?)断ること、少なくとも心情的にはそれはありえるということなんだよね。まさに「真理」より、「心理」を優先する。人はそういう生き物ものなのさ」
「それは屁理屈じゃなくて、だじゃれでしょう」
彼女があきれたように言う。(当然だ)
その後、会話もなくイーストリバーの川面にたくさんの小さな光の粒が踊るようにきらめくのを眺めながら、ゆったりとした時間を楽しんだ。とてもロマンチックな瞬間だったが、興をそぐように、便意を催した私はそそくさと席を立った。
トイレのドアを開けると、大きな文字でOld World vulture (ハゲワシ)と描かれている赤いTシャツに身を包んだ男とぶつかりそうになり、狭いドアの間で、同じ側へ道を譲りあうというありがちな動きを何度か繰り返したあと、ようやくのこと中へ入ると、突然白い光に包まれ、当然のようにまた移動した。
目を開くと、今度は最もなじみのある場所、というか臭いが待っていた。久しぶりに嗅ぐと、鼻が曲がるような強烈さがある――魚のにおいだ。ここに住んでいた頃は、嗅ぎすぎて鼻がおかしくなっていたのか、まったく気にしていなかったことが信じられない。
私のふるさと石巻は漁港の街で、人口でいえば、仙台市に次ぐ、宮城県第二の大きな街だ。ただ、仙台のような都市ではなく、本当に日本中どこにでもあるような田舎の街だ。彼女と僕は石巻で一番の眺望を持つ、日和山から目の前に広がる海を見下ろしていた。海の色と、風の感じから言って、どうやらこれまでの場所同様、夏が訪れたばかりの季節に思える。
「結婚って、新しい家族を生み出すってことよね」彼女が言った。「でも、離婚したら家族じゃなくなるのよね。血の繋がった親子や兄弟なら、そんなことはないけれど、元は他人のあなたと私ではそれはありえること。それじゃあ、家族には二つの種類があるってこと? 解消が可能な家族と、切り離すことのできない家族。どっちが本当の家族なんだろうね?」
「まあ、どっちってこともないだろうけれど、これだけ人がいれば、世の中にはまったく血の繋がりのない人たちが集まって、家族なんてパターンも、きっとありえるだろうからね。要は大事なのは絆なんじゃないの?」
「絆?」
「そう、たとえば結婚って契約だけど、それは紙きれによって結ばれた繋がりよりも、心の結びつきの方が実体ってことなんじゃないのかなあ」
「それが愛ってこと?」
「そうだね。俺はそう思うけど」
「そうね……」
そう言って彼女が微笑むと、どこかでカメラのシャッター音がした。そして次の瞬間、目の前の彼女が一枚の写真に変わり、同時にまばゆいほどのフラッシュに包まれた。
目を開けると、今度は見たことも訪れたこともない世界に立っていた。私は思わず息をのんだ。そこは巨大な六角形の部屋で壁一面に、大きな本棚が立ち並び、無数の本で埋め尽くされていた。床や天井は透明な何かで、上にも下にも同じような部屋が永遠と思えるほどに続いていた。
私は自分が軽いパニック状態にあることに気が付き、大きく深呼吸して、気を静めた。それから、とりあえず、本棚に向かい本を一冊手にしてみた。どの本も背表紙にはタイトルや作者名などは記されてはいなかったが、開いてみると、そこには見覚えのある文章が並んでいた。前に一度だけ読んだことのあるウンベルト・エーコの『薔薇の名前』だ。ショーン・コネリー主演の映画を観て感動して、すぐに図書館で借りて読んだものだ。懐かしさに思わず、顔がほころんだが、そのとき、背後に人の気配を感じた――振り返ると、そこには金髪碧眼の青年が立っていた。ベージュ色のタータンチェックの三つボタンのブレザーに水色のボタンダウンシャツ、上着と同系色のコットンパンツに茶色のコインローファーといったアイビーリーグの見本のような恰好に身を包み、女性のようなきれいな顔立ちで、彼は私に向かって微笑むと、小さくおじぎした。つられて、こちらも頭を下げた。そこで初めて自分の格好――白の無地のTシャツに色落ちしたブルーのデニム、そして赤のハイカットのスニーカーに気がついた。まるで八十年代のアメリカの青春映画にでも出てきそうな、そのいでたちに急に気恥ずかしくなった。
「初めまして。僕はこのバベルの図書館で司書をしている者です」
青年が言った。
「バ……え? 何? 」
驚き、たじろぐ私など意に介せずといった感じで青年は話を続けた。「驚かれるのは無理もありません。ここに生きている人が自覚的に訪れるのは極めて珍しいことですからね。僕の記憶ではホルヘさん以来ですね」
「ホ、ホルヘ……?」
「ホルヘ・ルイス・ボルヘス。アルゼンチン出身の小説家で、詩人です。彼が書いた、『伝奇集』の中に収められている、『バベルの図書館』はこの場所を描いたものです。その描写は実際のこことはだいぶ違うのですが、それは下界へ戻ると、ここでの記憶はほとんど消えてしまうからです」
「それじゃあ、どうやってその本を書いたんだよ?」
人見知りの私はATフィールド全開だったが、旧知の仲のように、思わず突っ込みを入れていた。
「彼は一九三八年、父親が亡くなった年に頭に大怪我を負い、死の淵を一か月間さ迷います――この時に彼はここへとやってきました。そして意識を取り戻した後、つまり下界へと戻った後、『バベルの図書館』を書き上げたのですが、それはわずかに残された記憶の断片を、朦朧とする意識の中で見た夢だと認識して、それをもとに想像も加えながら書いたものなのです」
年の頃は十代後半のように見えるが、妙に落ち着き払った感じで、淡々と話す彼を見ているうちになんだか私の方も落ち着きを取り戻してきた。そして、これが夢の中だということを思い出した。
「いえ、これは夢ではありませんよ」
私の考えを見透かすように彼が言った。
「いや、それこそ夢だろう。でなけりゃ、なぜ俺の考えていることがわかるんだ」
私は鼻息を荒くした。
「ここが夢の中ではないということをあなたに納得していただけるかどうかはわかりませんが、ここがどういう場所なのかをお話ししましょう」
それはこちらとしても願っても無いことだった。
「まず先ほどから申し上げているように、ここはバベルの図書館と言います。それからこの場所がどこにあるのかと言いますと、かつてあなたの世界の住人だった精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングが言うところの集合的無意識の中にあります。つまり、個人を超え、すべての人に普遍的に存在するといわれる無意識の中ということです。ここにはすべての時間、過去・現在・未来のすべてが存在します。そして、この図書館にある本にはすべての言語のすべての組み合わせの本が存在しています。ホルヘはアルファベット文字の組み合わせにしか触れていませんが、実際にはすでにご覧になったように、漢字、ひらがなはもちろんその他の国の文字もすべて含めての組み合わせということになります。そして、その中には無限とも呼べる未来の出来事のパターンが記された本もすべてあります」
「カオス理論もびっくりだな。未来の予測は不可能じゃなかったのか? いったい何なんだ、この場所は?」
「ここは宇宙開闢のときから、すでに存在する……というかここから宇宙は創造され、生命も生み出されました――この図書館の外側にはあなた方になじみのある楽園が広がっています。いわゆる天国と呼ばれる場所です」
「ちょ、ちょっと待て。俺は死んだのか?」
「いや、あなたは生きたままでこの場所へおいでになったのです。だから、たいへん珍しいことだと最初に申しました」
「そ、そうか」
「はい。で、話を戻しますと――もっと単純にあなた方とこの場所の繋がりとしては、そうですね……例を挙げるとすれば、世にいう天才と呼ばれる人たちは、すべて、ここにアクセスしているのです。つまり、彼らのひらめきやアイデアといったものは無自覚のうちにここから持ち出されたものということです。私たち司書はそれをお手伝いしています。あ、ちなみに私のような司書は各階に一人ずついますので、全体ではそれこそ無数にいます。ですから、逆に言えば私たちは自分の担当する書庫の本のことしか知りません。ただ、この図書館すべての本について知っている方が一人だけいます。その方は司書ではないのですが、ホルヘの本でも紹介されている、いわゆる「本の人」と呼ばれる方です」
「だけど、それじゃ「本の人」以外では本当に求めている答えに導くことができないじゃないか」
「それが人は自分の必要とするジャンルというか、その専門に関する本が集まる階へと自然にリンクしてくるのです。それはここにアクセスできる人たちの条件として、直観力の優れた人ということがあるからです。さらに言えば、生まれる前にあなた方はここへ何度も訪れています。ですから、当然現世での幸せな人生の送り方についても本来は知っているのです。ただ、人は肉体を持つと、その限界的性質からここでの記憶を失ってしまいます」
「それじゃ、意味がない」
「ええ確かに。そのままでは、という意味ですが。確かに現世では人の脳には表層意識というものがありますから、いろいろと雑念が生まれます。これは肉体的限界につられ、知識の運用は限定的となり、そのために誤解や錯覚が生まれるということです。ですが、本来は人間になって数々の素晴らしいことを成し遂げる方法、やり方つまりその為の行動の選択の仕方をすべて知っているのです」
「でも、それをすべて忘れてしまうってことなのだろう。じゃあ、どうしろって話だよ」
「ですから、そこに必要となるのが直観力ということになります。天才と呼ばれる方たちはこの直観力を鍛え上げているのです。一般に天才とは何かの専門家です。でも、そのジャンルについてただたくさんの知識を持っているだけでは本当の専門家とは言えません。そうなる為にはその中から有益な知識だけを選び取る力が必要となります。そこでその分野について、深く理解するための努力、試行錯誤がなされ、その中で、次第に脳は潜在的なミスを取り除くことを学んでいき、さらに五感も駆使して、その世界の視野を広げ、深く理解できるようになります。そうやって直観力が鍛え上げられるのです。そして、彼ら天才は無意識のうちにではありますが、この場所とアクセスが可能になるのです」
「なるほどね。この場所がどういうものなのかは分かったよ。じゃあ、そろそろなぜ俺がここにいるのか? その説明を始めてもらおうか」
「それは私には分かりません。あなたは今お話した、いわゆる天才のアクセスとは明らかに違う形でこちらにいらっしゃいました」
「明らかに違う?」
「はい。天才の方たちは無自覚で、意識のみのアクセスですが、あなたはこのように自覚されていて、ソウル(霊魂)の状態でここへといらっしゃいました」
「そうか……ソウルねえ……待てよ。仮に本当に夢から無意識の世界とやらに移動して来たのだとして、ということは俺の体はまだベッドの中ってことか?」
「そうですね。今はちょうど幽体離脱のような状態にあると言えます」
「幽体離脱って……この俺がまさかの生霊かよ……」
「これは非常に珍しいことです。残念ながら私にはなぜこのようなことが起こるのか、その理由については見当もつきません。それこそあの方なら分かるのでしょうが」
「けど、なぜだ? なぜ俺なんだ? ただ夢見てたってだけなのに……」
「ところで、その夢というのはどんな夢でしたか?」
場所を変えて、話が聞きたいということで、私は青年に連れられ、図書館の外にあるという天国へと移動した――ちなみに隙間なく本棚がぐるりと配置された、階段もドアもない部屋から、どうやって私たちが外へ出たのかといえば、なんのことはない、本棚が可動する仕掛け扉のようなものが施されていたのである。そしてその先には六角形の書庫をぐるりと取り囲むように、円形の通路があり、東西南北に一か所ずつ、ウォータースライダーのような透明なチューブが備え付けてあった。私たちはその中に身を入れると、どういう仕組みなのかは知らないが、いわばテレポートのように一瞬で外へと移動することができた。
私は出てきたばかりの建物を振り返り見上げると、それは円形の塔のようなものだったが、その高さは天を貫き、いやそれ以上にそれすらはるかに越えて、永遠に続いているようだった。そしてその空といえば、やわらかな金色の光に包まれたとてつもなく巨大な空間で、その下には、これまた永遠に続くかと思われるほどの緑の平原が広がっていた。さらに、その真ん中に白い道があり、私たちはそこをひたすらまっすぐに歩き始めた――かなりの距離を歩いて、いい加減に飽き飽きしてきたところで、急に前を行く青年が道を逸れ、草むらの中へとずんずん分け入っていった。背丈ほどの草をかきわけながら、遅れまいと私は必死に後を追った。すると、突然に草の迷宮は途切れ、目の前に開けた場所が現れた。そこにはどでかい樹が聳えていて、巨人が両手を広げたような立派な枝振りと、そこに生茂るまぶしいほどの緑の葉振りに私は圧倒された。
「ここらへんでいいでしょう」と青年が言った。
大樹に目を奪われ、最初は気づかなかったが、目の前にはベンチがちんまりと置かれていた。私たちはそこへ腰を下ろした。
そこから周りの景色を見渡すと、だだっぴろい世界があるだけで、人っこ一人というか私たち以外は存在していなかった。
ここは本当に天国なのだろうか?
「誰かに会いたいのであれば、一瞬でその場所へと移動できますよ。もっと都会っぽいところがいいのであれば、もちろんそういう場所へも移動できますけれど」またしても、心を見透かすように彼は言った。「でも、こういう場所の方がいいかと思いまして」
「ああ、ここでかまわない」私はそう返事しながら(なら、なぜここまで歩いてきた?)と、心の中で突っ込みを入れた。
「……」
今回はその心を読み取られることはなかったようだ。
「――なるほど」私の話を聞き終えると、彼は大きくうなずきながら言った。「これは飽くまでも私見ですが、あなたは奥さんと別れたことを未だに後悔されているのではないですか?」
「何を今さら、彼女と別れたのは三年前のことだよ。だいたい、彼女のことを思い出したのだって、本当に久しぶりのことなんだ」
「先ほど、ここにはすべての時が存在すると言いました。それは同時に、あらゆる可能性も存在するという意味です」
「何? 分からない。どういうこと?」
「シュレーディンガーの猫はご存じですか?」
「ああ、あの動物虐待の実験だろう……って、パラレル・ワールドか? ラプラスの悪魔は完全に否定……というか、何でもありだな」
「バベルの図書館には未来だけではなく、過去においても起こりえたすべてのことについて描かれた書物があります。あなたはその書物に描かれた可能性の一つ一つにアクセスできるのかもしれません」
「つまり、俺はあの別れを……過去を変えようとして、いろいろと夢を見ていたって、そう言いたいのか?」
「可能性はあると思います。少なくとも、心情的にはその通りなのではありませんか?」
「いや、違うね。確かに夢にしては妙にリアルだったし、ほとんどの場面が過去の記憶をなぞってはいたけれど。本当にあれはもう終わったことなんだ。今さら、どうしようとも思わないよ」
「そうですか……しかし、いずれにしても、やはり、あなたはあの方にお会いするべきでしょうね」
「「本の人」だっけ?」
「はい。あの方であればすべての謎に答えを出してくれるはずです。ただ、あの方はまさに神出鬼没で、なかなか所在がつかめません。ですから、これから私と一緒に探すことにしましょう」
「いいの? 仕事は?」
「人をお助けするのが我々の仕事ですから。それに、長い時間持ち場を離れる場合は他の司書の助けが必要になりますが、まあ、ここではどこにいようとも思うだけで一瞬の間に移動が可能ですから、問題ないかと」
「でも、さっき担当以外の書庫の本については、分からないとか言ってなかったか? 他の司書さんで大丈夫なの?」
「まあ、そうなのですが、下界からのアクセスが滅多にない階もたくさんありますので、大丈夫です」
つまり、君の担当がそれなのね。私は心の中で合点した。
私たちは再び『バベルの図書館』に戻ると、手掛かりとして、前に「本の人」に会ったことがあるという他の司書のもとを訪ねた――彼女は青年が欧米人のような風貌をしているのとは対照的に、身近に感じられるアジア人のようだった。背丈は小さく、幼い顔立ちで、クリクリとした丸い瞳が印象的だが、実際には青年よりもかなり年上らしい。ここの制服なのか、彼女もまた青年と同様にアイビー・ルックで紺のブレザーに赤色のベスト、襟元白の水色クレリックシャツに赤色のタータンチェックの巻きスカートに黒のコインローファーという恰好だった。ちなみにここへは――先ほどとは違う階にあるのだが、やはりチューブを使って、移動してきた。入るときに青年が階数のようなものを口にしたような気もするが、まったく仕組みがわからない。
「そうねえ。あの方にはしばらくお会いしてないわねえ……下界時間で言えば、西暦一九〇二年の一月三日午前一時八分二秒以来会っていないのだから、ええと……今が、西暦二〇一五年の五月三十一日の午後三時十九分十五秒だから、四万一千四
百二十一日と十四時間と十一分と十三秒、秒数換算なら、三十五億七千八百八十二万五千四百七十三秒会っていないことになるわねえ」
彼女は本棚の前をたくさんの本を両手で抱え、ちょこまかと移動しながら、とてもユニークな答え方をした。
「最後に会われたのはどこですか?」
青年はそのことには触れずに、さらっとした表情で尋ねる。
「神殿の街、オレイカルコスよ」
彼女は一瞬足を止め、そう答えると再び回遊魚のようにせわしなく動き始めた。
青年と私は彼の担当する書庫へと戻った。
「さっきのあれってジョークなのか?」
「え? 何のことを仰っているのですか?」
突然の私の問いに驚いたように青年が答える。
「いや、だからさっきあの人が言っていた、年数のこととか、秒にすると何十億秒だとか、そういうの」
「ああ、あれですか」
「あれってデタラメな数字、言ったんだろう」
「いえ、それはありません。彼女が口にする数字はいつでも正確です。彼女は数字に強いのです」
「そうなのか? だとしたら、すごいな」
「ええ、確かに。しかし、それよりも一つ困ったことがあります」眉間にしわを寄せ、彼が言った。「先ほどここでは思っただけで一瞬のうちに移動することが、可能だと言いましたが、唯一例外の場所があります。それが、神殿のある街、オレイカルコスです」
「なるほど。それじゃあ、どうする?」
「移動自体はさほど難しいことではありません。汽車を使えばいいのです。ただ、長時間の移動になるので、その間ここを空けることになります。もちろん、他の司書にここの管理もお願いすれば、いいのですが。それだけではダメで、上司の許可が必要になります。ただ、その上司というのが少し、気難しい人で……その……」
「よし、とにかくその上司さんとやらに掛け合おうぜ」
私たちは先ほどとは違うチューブから、図書館を出て、天国へと向かった。今度は自分の世界に戻ってきたのかと思える――例えて言うならば、仙台の駅前、西口方面に広がる街並みのような景色があった。テレポートが可能だと言うが、目の前には大きなバスプールがあり、幾台ものバスやタクシーが列をなして並び、その前にはまっすぐに伸びる道路を挟んでたくさんのビルや商業施設が建ち並び、歩道には人が溢れかえっている。ここでは空も青色をしていた。私はその光景に安心感を覚え、気分が高揚した。青年は目的の場所は近いからテレポートなしで歩いていこうと言った。実は瞬間移動にはある程度のエネルギーが必要で、さほどではないにしろ、無駄に使いたくはないらしく、申し訳なさそうに言った。だが、私にしてもそれ以外の選択支はありえなかった――目の前の街を歩きたかったのだ。ひょっとしたら、軽いホームシックならぬ下界シックなのかもしれない。しかし、予想に反して目的のビルは近くにあり、それほどの距離は歩けなかった。
上司のオフィスは三十階建のビルの最上階にあり、エレベーターでそこへ向かった。外観もそうだが、建物内部もよく見慣れた感じの一般的なオフィスビルで、それこそ本当にここは天国なのだろうか? そんなことを考えているうちにいつのまにか目の前にはその上司がいた。
重役室と思われるそのオフィスはまさにイメージ通りのものだったが――部屋の奥に置かれた大きな高級そうな木製デスクの向こうには、少女マンガから抜け出してきたような、サラサラのブロンドの長髪に、彫りの深い整った顔立ちで、さらに長身でスラっとした体形からはどこか気品さえ感じられる男が待っていた――服装はやはりというべきか、アメリカン・トラッドで、濃紺の三つボタンジャケットに、白いシャツ、ネクタイは薄い紺の無地で、ボトムスはカーキ色のチノパン。いわゆるジャケパンスタイルで、足元は隠れていて見えないが恐らくはコインローファーかウィングチップだろう。彼は私たちを部屋の真ん中に置かれた革張りのソファへと招いた。腰を下ろすと、目の間にはガラスのテーブルがあり、その上に置かれたティーポットとソーサー付きのカップには淹れたばかりのミルクティーの湯気が漂っていた。
「――なるほど。そういうわけですか」デスクの向こうで一面ガラス張りの窓の前に立ち我々に背を向け、紅茶を啜りながらその上司は言った。「それにしても、下界からの来訪者とは……あの方の大いなる意志のなせる業でしょうか……しかし、ここは私の管轄。すべての権限は私に一任されています」
男は振り返り、涼しげな眼で私を品定めするように視線を走らせると、軽く咳払いし、話を続けた。「失礼ですが、あなたのような得体の知れない方をオレイカルコスに入れることに私はいささか抵抗を感じます」
「ですが」青年が立ち上がった。「やはりこれはあの方の大いなる意志の導きによるものなのではないでしょうか?」
「しかしながら、確証があるわけではないのでしょう。確かに、このようなことは過去にもありましたが、そのすべてが、あの方の大いなる意志によるものと断言できるものではありません」
「ですから、あの方に直接お会いしてそれを確かめたいのです」
「はたして、本当にあの方と出会えるでしょうか? それがそもそも私には難しいことに思えるのですが……」
二人の議論は白熱していたが、私は割と冷静だった。決して他人事ではないのだけれど、単純に何を言えばいいのかわからなかったのだ。それでなんとなく部屋を見渡していると、右の壁側にあるスチール製の大型のキャビネットのたくさんの書類の中に紛れて、紅茶に関する本が数冊あることに気が付いた。
「それにしてもおいしい紅茶ですね」私は優雅な手つきで徐にティーカップとソーサーを持ち上げながら、一口啜った。「ほのかにマスカットの香り。いわゆるマスカテルフレーバーですね。ということはダージリンのセカンドフラッシュですね」
虚をつかれたように、上司が目を丸くしてこちらを見ている。
デスクの上に砂時計が置かれているのを目ざとく見つけ出した私はティーポットの中を確認して、さらに話を続ける。「この茶葉の開き具合から言って、しっかりとジャンピングしていますね。つまり、新鮮な汲みたての水を沸騰させているということです。なので、この熱湯はたくさんの空気を含んでいる。ジャンピングに空気は欠かせないですからねえ。ま、おいしい紅茶にジャンピングが必要か否かは意見の分かれるところではありますけれど」
「いや、ジャンピングは絶対に必要です」
上司はデスクの向こうから身を乗り出すようにして鼻息荒く言った。
「そうですよね。茶葉がちゃんと上下に対流することによって、本来の味や香りが引き出されるのですよね」
「そうです。その通りです!」上司は興奮の面持ちで大きく頷いた。「いやあ、あなたは紅茶のことをよくわかっていますね」
突然の展開に青年は呆気にとられたような表情を見せている。
「わかりました。オレイカルコスへの入場を許可します。紅茶好きに悪い人はいません」
冗談みたいな理由で、上司はころっと意見を変えた。
神殿の街までは専用の汽車を使わねばならなかったが、周りが私の住む仙台の街とほぼ変わらない風景だったので、それはかなり異質なものに見えた――まるでパリの北駅、ガール・デュ・ノールを彷彿とさせる大きな屋根に覆われるプラットホームが歴史的建造物の雰囲気を漂わせる洒落たもので、汽車にいたっては、象牙のような白い車体に金の王冠をイメージした飾りに縁どられる、かのルートヴィッヒ二世の宮廷列車を思わせる豪奢な装飾が施されたものだった。
私たちが乗り込んだ車両はいわゆるサロン車と呼ばれるもので、王宮の一室がそのまま再現されたようなバロック装飾にびっしりと埋め尽くされた、とても落ち着かない空間だった。自分たちや他の乗客たちの服装を見ても、それはどれもこの場に似つかわしくないチグハグなものであったが、乗客たちはみんな慣れたようにくつろいでいる。汽車が走り出し、ようやく気分が落ち着いてくると、見方を変えれば、自分たちがテーマパークの客みたいに思えた。
「それにしても、紅茶のお話はお見事でしたね」
と青年が目を丸くして言った。
「ああ、元嫁の受け売りだが、あの上司さんが紅茶好きとはツイていたよ」
窓に流れる景色を眺めながら、私は答えた。
汽車は駅からしばらくは高いビルがまるで生茂る木々みたいに建ち並ぶ都会の森を縫うように走っていたが、やがて車窓には海沿いの町に一面に広がる田んぼだらけの田舎風景が顔を出した。
「あり得ないことが次から次へと起こりすぎて、質問が後先になったけれど、君たちはその……つまり、どういう存在なのかな?」私はふいに頭を過ぎった疑問をそのまま口にした。「その……霊的存在というのか、何というのか……」
「そうですね。わかりやすく人間界の認識で言えば、天使と呼ばれる存在ですね」
好きな色を聞かれて、答えた。とでもいうかのように青年はさらっと言った。
「天使!? そうか……なんとなくそんな感じがしていたような気がしないでもないが。まさか、本物の天使に出会えるなんて。だけど、全然そんな感じに見えないな。だってほら、背中のあれが……」
「翼ですね」青年がすかさず、答えた。「あれは下界に降りるときの為のもので、普段はありません」
「そうか。でも驚きだな。図書館の司書とか言っているものだからさ……あれ? ちょっと待てよ……それじゃ、「本の人」っていうのは、まさか?」
「はい。あなたが思い描いている通りのお方です」
またしても青年は「今何時?」とでも聞かれたかのようにあっさりとそう答えた。
汽車は日本三景の松島を思い起させるような、いわゆる島しょと呼ばれる大小いくつもの島が集まる海岸線に差し掛かっていた。
「でも言われてみれば、確かに「本の人」について、君の説明を受けた時、その人何でもありだなって思ったんだ。そのお方は全能者以外の何者でもないってね。ところで、下界には全能者のパラドックスっていう、哲学上の思考実験があるんだけどさ、それは全能者は自分が持ち上げることのできない石を作ることができるかって問題なんだけどね」
「はあ」
青年改め天使は不敬にあたることを懸念しているのか、とまどいをみせながら、返事した。
「まあ、これにはいろいろな回答があって、どれもこれもが完璧にはこの逆説を解消できていないらしいんだけれど。もちろん俺は学者じゃないし、頭だって良くはないんだけどさ。これは前提条件っていうか、問題自体がありえない感じがするんだよね。だって全能者って言っておいて、そしたらその時点で、その人、いや神様か。とにかくその存在自体が不可能なことなんてありえないってことになるのに、その神が持ち上げることができない石を作るとかメチャクチャ言っているし、だって全能だもの、能力は無限なのだから、石がどんな重さになろうと持ち上げることができないなんて状態が、そもそもありえるはずがないのだから、そんな石なんて存在するわけがないのに。この問題はさ、できないこともできるのが、ありえないものも存在させるのが全能でしょ、でも矛盾が生まれちゃうよねって言っているんだけど――なんかやっぱり、これってさ、牽強付会な気がするんだよね。ま、ある意味、なぞなぞみたいなものだから、誰もが腑に落ちる、上手なだじゃれめいた答えをお望みなのかもしれないけれどさ、「ぜんのう」には同時にもう一つ別の意味があった。それは……「全NO!」とかね」
「難しい話は私にも分かりませんが、あの方に偉大な力があることは確かです」
天使はそう言うと、小さく微笑み、車窓へ目を移すと、それから駅に着くまで一言も話さなかった。こちらとしては、間をつなぐための軽いジョークのつもりだったのだが、思いのほか、彼には重たい話だったのかもしれない。
神殿の街までは専用の汽車を使わねばならなかったが、周りが私の住む仙台の街とほぼ変わらない風景だったので、それはかなり異質なものに見えた――まるでパリの北駅、ガール・デュ・ノールを彷彿とさせる大きな屋根に覆われるプラットホームが歴史的建造物の雰囲気を漂わせる洒落たもので、汽車にいたっては、象牙のような白い車体に金の王冠をイメージした飾りに縁どられる、かのルートヴィッヒ二世の宮廷列車を思わせる豪奢な装飾が施されたものだった。
私たちが乗り込んだ車両はいわゆるサロン車と呼ばれるもので、王宮の一室がそのまま再現されたようなバロック装飾にびっしりと埋め尽くされた、とても落ち着かない空間だった。自分たちや他の乗客たちの服装を見ても、それはどれもこの場に似つかわしくないチグハグなものであったが、乗客たちはみんな慣れたようにくつろいでいる。汽車が走り出し、ようやく気分が落ち着いてくると、見方を変えれば、自分たちがテーマパークの客みたいに思えた。
「それにしても、紅茶のお話はお見事でしたね」
と青年が目を丸くして言った。
「ああ、元嫁の受け売りだが、あの上司さんが紅茶好きとはツイていたよ」
窓に流れる景色を眺めながら、私は答えた。
汽車は駅からしばらくは高いビルがまるで生茂る木々みたいに建ち並ぶ都会の森を縫うように走っていたが、やがて車窓には海沿いの町に一面に広がる田んぼだらけの田舎風景が顔を出した。
「あり得ないことが次から次へと起こりすぎて、質問が後先になったけれど、君たちはその……つまり、どういう存在なのかな?」私はふいに頭を過ぎった疑問をそのまま口にした。「その……霊的存在というのか、何というのか……」
「そうですね。わかりやすく人間界の認識で言えば、天使と呼ばれる存在ですね」
好きな色を聞かれて、答えた。とでもいうかのように青年はさらっと言った。
「天使!? そうか……なんとなくそんな感じがしていたような気がしないでもないが。まさか、本物の天使に出会えるなんて。だけど、全然そんな感じに見えないな。だってほら、背中のあれが……」
「翼ですね」青年がすかさず、答えた。「あれは下界に降りるときの為のもので、普段はありません」
「そうか。でも驚きだな。図書館の司書とか言っているものだからさ……あれ? ちょっと待てよ……それじゃ、「本の人」っていうのは、まさか?」
「はい。あなたが思い描いている通りのお方です」
またしても青年は「今何時?」とでも聞かれたかのようにあっさりとそう答えた。
汽車は日本三景の松島を思い起させるような、いわゆる島しょと呼ばれる大小いくつもの島が集まる海岸線に差し掛かっていた。
「でも言われてみれば、確かに「本の人」について、君の説明を受けた時、その人何でもありだなって思ったんだ。そのお方は全能者以外の何者でもないってね。ところで、下界には全能者のパラドックスっていう、哲学上の思考実験があるんだけどさ、それは全能者は自分が持ち上げることのできない石を作ることができるかって問題なんだけどね」
「はあ」
青年改め天使は不敬にあたることを懸念しているのか、とまどいをみせながら、返事した。
「まあ、これにはいろいろな回答があって、どれもこれもが完璧にはこの逆説を解消できていないらしいんだけれど。もちろん俺は学者じゃないし、頭だって良くはないんだけどさ。これは前提条件っていうか、問題自体がありえない感じがするんだよね。だって全能者って言っておいて、そしたらその時点で、その人、いや神様か。とにかくその存在自体が不可能なことなんてありえないってことになるのに、その神が持ち上げることができない石を作るとかメチャクチャ言っているし、だって全能だもの、能力は無限なのだから、石がどんな重さになろうと持ち上げることができないなんて状態が、そもそもありえるはずがないのだから、そんな石なんて存在するわけがないのに。この問題はさ、できないこともできるのが、ありえないものも存在させるのが全能でしょ、でも矛盾が生まれちゃうよねって言っているんだけど――なんかやっぱり、これってさ、牽強付会な気がするんだよね。ま、ある意味、なぞなぞみたいなものだから、誰もが腑に落ちる、上手なだじゃれめいた答えをお望みなのかもしれないけれどさ、「ぜんのう」には同時にもう一つ別の意味があった。それは……「全NO!」とかね」
「難しい話は私にも分かりませんが、あの方に偉大な力があることは確かです」
天使はそう言うと、小さく微笑み、車窓へ目を移すと、それから駅に着くまで一言も話さなかった。こちらとしては、間をつなぐための軽いジョークのつもりだったのだが、思いのほか、彼には重たい話だったのかもしれない。
駅に着き、改札を抜け、街へ出ると私は少なからず驚いた。最初、神殿の街と聞いて思い浮かべたのは古代ローマのアテナイのようにアクロポリスの上にいくつもの神殿が建ち並ぶ、それっぽいものだった(三陸海岸もどきの景色の中を走ってきたこと自体、違和感があるといえば、あるのだが)が、実際にはニューヨークの街並みを思い出させる都会の風景だった。おまけに雨が降っていた。
マンハッタンのチャイナタウンを彷彿とさせる通りへと私たちは初めてテレポートで移動した。(この街ではテレポートは可能らしい。しかし、よく考えてみれば瞬間移動とはどういうことだ? そもそもこの世界とは魂の世界で、物質の世界ではないということだ。なら、ここは何次元なのだ? この世界における時間と空間とはいったいどういうものなのだろう?)ふっと湧いて出た疑問ではあったが、どうせ答えを聞いても私には理解できないだろとすぐに考えるのを止めた。
目の前にはこれまたマンハッタンを思わせる――一階部分にはデリや雑貨屋などの店舗があり、上階の住居部分には稲妻のような形の非常階段が張り付いた、古びたアパートやマンションが満員電車の乗客のようにぴったりと身を寄せあっていた。
「ここに、オレイカルコスの情報屋がいるんです」天使は言った。「別に怪しい者ではありませんよ。まあ、彼も同僚ですから」
瞬間移動も部屋に直接というのは気が引けたのか、目当てのアパートの少し手前に到着した私たちは、雨に濡れながら、入口目指して走り出した――あらためて気がついたのだが、季節というか、そういうものがここにあるとは思えないが、下界でいえば、やはり夏頃と言えるのか、少し蒸し暑かったので、Tシャツ一枚にブルージーンズといったいでたちの私には心地よいシャワーのように感じられた。
「しかし、本当に神殿の街のイメージじゃないなあ」私は目に入り込む雨を拭いながら言った。
「それはおかしいですね」隣を走る天使が答える。「今、あなたに見えているこの世界の風景や街並み、我々天使の姿などはあなたがイメージしているものを反映しているのです」
「そうなの? だとしたら、この街はもっと古代ローマのような感じじゃなきゃならないはずだけどな」
「ここは本来、あなた方の意識の先に存在する場所で、普通ソウルになってここへ戻ってきた者は思う形そのままにいろいろなことを実現するのですが、あなたはまだ生きているわけですから、表層意識が古代ローマで、深層心理ではこういう世界をイメージしていたということなのかもしれません」
「何だかややこしい話だな」
そう言いながら、私はアパートの入口のドアを開けた。
情報屋の事務所があるのはいわゆるコアプと呼ばれる古びた民間分譲アパートで、部屋は四階にあり、スタジオタイプのワンルームだった――ここへ来たのは「本の人」いわば人探し(実際には神様らしいが)の為にやってきたわけだが、そう考えると米国の文学やハリウッド映画、特にニューヨークを舞台にした刑事ものが大好きな私がイメージする世界観のような気がした。
情報屋と呼ばれる男は、あきらかに白人だが、最近のヒップホップの黒人ミュージシャンのように、Tシャツはアイスクリーム、スカーフはルイヴィトン、ベルトはラルフローレンそれとリーバイスのデニムにナイキのスニーカーといったストリート×モードのファッションに身を固めていた。百平方メートルはある部屋の中央部に二脚置かれた黒の革張りのソファにそれぞれ、情報屋そして向い合せに僕ら二人で腰を下ろした。
「「本の人」ねえ。それはなかなかやっかいだね」背もたれに両手を伸ばし、足を組み、黒人ラッパーのPVにでも出ているかのようにポーズを決める情報屋が勿体付けるように言った。「まあでも、それは並みの情報屋であれば、という話だけれどね。ハハハ」
「彼の安っぽい芝居がかったセリフも俺のイメージが反映したものなのか?」
情報屋のけたたましい高笑いの中、私は隣の天使に(別に向かいの男に聴こえても良かったのだが)、小声で聞いた。
「さあ、どうですかねえ。まあ、いつもはあれほどおおげさな感じではありませんが元々の彼っぽくもあります」
同じように天使が小声で返した。
「そうか」
そう言って、私は大きなため息をついた。
「つまり、それは君ならば「本の人」の居場所を見つけるのはそれほど難しくはないということなのかな?」
天使がまだ続いていた情報屋の笑い声を押しのけるようにして尋ねた。
「いや、俺には無理だね」彼は一瞬、真顔になり、そう答えたが、すぐにおどけた顔に戻って言った。「だが、それをできる女を知っている」
胡散臭いが天使であるという、情報屋の教えてくれたその女性のマンションは彼のアパートから3ブロックほどしか離れていなかった。こちらのマンションは比較的こぎれいで、割と新しめの建物のように感じられた。六階建ての最上階にある彼女の部屋は3ベッドルームのコンドミニアムで、広いリビングダイニングにロフトもあった。白一色のシンプルな内装に家具もそれほど多くはなかったので、余計に解放感があるように感じられた。突然現れた私たちを彼女は何も聞かずにまるで旧知の間柄とでもいったように、親しげに優しく部屋に招き入れてくれた。彼女は気品があり、まるで英国女優のようにきれいな顔立ちで、スタイルも良く、輝くようなブロンドの長い髪とターコイズ色の瞳が、青のギンガムチェックのフレアワンピースに白の厚底ウェッジヒールサンダルという恰好に、とてもよく似合っていた。情報屋によると、彼女は元々は、私と同じく人間として、人生を全うし、今はソウルの状態にあるということらしい。だがそれならば、一つ疑問に思うことがある。この世界においては思うことは何でも実現できる。つまり、彼女は老いることも、傷つくこともない身体で見た目は生前のままの姿を再現している。しかし、そういった場合、それぞれの魂が別々のイメージをしたら、この世界の姿はどうなるのか? これには堪らず疑問を口にすると、「ああ、それはお互いに相手のイメージを共有することができるので、一緒にいるときは自分の意志で相手に合わせることができるのです」天使は言った。「ただし、あなたには難しいと思われます。ちなみにこの部屋や彼女の姿は彼女のイメージ通りのものです。天使は極力、あなたの創造する世界に合わせようとしますが、ソウルのみなさんと触れ合う場合はそちらのイメージに引き寄せられることが多いでしょう」
説明されても私には十分な理解ができず、なんだか名うての詐欺師にでも引っかかったような気分になった。
リビングに置かれた、白のロココ調の三人掛け高級ソファに並んで座ると、左端に座った彼女が、唐突に真ん中に座る私に向かって、
「雲が見える……変わった形だわ。なにかしら? 爬虫類……? とにかく不思議な形。それと…鳥ね。何か大きい鳥だわ」
そう言った。
情報屋の話では彼女は生前、霊能力者だったらしいが、今や彼女は霊そのものになったわけだが、その能力はここでも健在ということなのか?
「あなたも今はソウルの状態だけど、正式に天に召されたわけではないので、私にはまだあなたの未来が見えるわ――」彼女が言った。「魚ね。それと香ばしい匂い。とてもいい香りだわ……いったい何なのかしら? とにかく、あなたは今、迷路にいるのね。しかも、これらのイメージが表す謎……というか、繋がりを解かない限り、あなたは永遠にそこから逃げ出すことはできないわね」
「爬虫類の形をした雲、大きな鳥、魚、香ばしい匂い。四つのイメージの謎」
いつのまにかメモを取っていた、天使が確認するように繰り返して言った。
「そして、その為にはあの方の力がどうしても必要だわね。ちょっと待って、今どこにいるのか探してみるわ。特別な存在だから、何かを感じ取れると思うの」そう言って、彼女は瞑想でもするように目を閉じた。「海が見える……ああ、キャノボール・パークね……そうだわ……プリッツエル……焼きたての……それに鳩……ダメだわ。これ以上は見えない。でも、そこへ行けば、きっと誰かに会えるわ。男なのか女なのか老人なのか、それとも若者なのか、それはわからないけれど、その人は絶対にあの方に出会うために必要な人」
マンハッタンにそっくりなこの街はやはり、島の上にあった。島は西に一本、東に二本の川に挟まれ、両サイドの対岸には本土というのか、陸があり、とにかくそこにはそれぞれに大きな街が見える。彼女が霊視してくれたキャノンボール・パークは島の南端の、マンハッタンでいうところのバッテリー・パークの位置にあり(名前まで似ている)、マンションのあるチャイナタウンもどきからは歩いていける距離にあった。雨は上がっていたので、ゆっくりと歩きながら、あらためて街並みを眺めると、自分がかつて訪れた時のニューヨークのイメージそのものなのだと確信した。しかし、繰り返しになるが、ソウルはそれぞれに違ったイメージを持っていて、それを自分の好きなように形にしているということだが、それではオレイカルコスはどうだ? みんながみんな、私と同じようにマンハッタンのイメージではないはずだ。それこそ、神殿の街というからには、古代ローマの都のようなイメージがあってもいいはずだ。だがしかし、ここは地形的に言って、マンハッタン島に酷似しているし、その一角の地名のネーミングでさえ、もじった感じのものだ。それでは、ここを他の場所にイメージしている人たちとの整合性が取れないと思うのだが、私はまた天使にそのまま疑問をぶつけた。「ああ、それは……似たようなイメージを持つソウルは惹かれあうように同じ場所に集まるものなのです」そよ風のようにさらりと、天使は答えた。「つまり、オレイカルコスという街自体は一つしかないのですが、同時にその姿はイメージの数だけ存在します。そうですね。何層もの生地が重なり合っているミルクレープのようなものですね。私たちは今、オレイカルコスをマンハッタンにイメージするソウルたちが集まる層にいるのです」
ちょっと腑に落ちない気がしたが、なんとなく、それもありえるだろうとも思えた。いや、そもそもここでは何でもありなのだ。気がつくといつの間にか、私はこの世界のことを夢ではなく、真実であると信じていた。というか受け入れていたのだ。
とりあえず、元霊能力者で、今やソウルとなった女性の言葉に従えば、私たちはここで重要な誰かと出会う(しかも、逢えばそれだとわかるらしい)ということなので、その誰ともわからない人物を探すことにした。
キャノンボール・パークは公共公園だが、元は島を守るための砲台があった場所のため、その名残の城がある――というか、これはまんまバッテリー・パークのことであるが、ほんとうにそっくりだ。そのままだ。私たちは公園内の北側に建つ、その砂岩の砦を背に埠頭の方へと歩き出した。
「確か焼きたてのプリッツエルに鳩ということでしたが、いったいどういう意味なのでしょう?」
メモを見ながら、天使が言った。
「それなら、あれだ」
私は目の前の屋台を指差した。それから、そこでプリッツエルを一袋買うと、(ちなみにこの世界ではお金はイメージするだけで、いくらでも生み出せるが、そこには下界のような価値は当然、ありはしない。ソウルには物を売ったり買ったり、食べたり飲んだり、それから電車や車を利用すること、それらのことは実際には必要のないことなのだが、そういう生前に当たり前に行っていた行為を再現することに楽しみというか意味があるらしい)私はそれを鳩に投げ与えた。
「どういうことですか?」
天使が尋ねる。
「さあね。ただ、なんとなく」
天使の方を向いてそう答えながら、プリッツエルを投げると、
「イテッ」
と少女の可愛らしい声がした。
驚き振り返ると、そこにはあきらかに日本人と思える容姿をした少女がおでこをさすりながら、立っていた。しかも、どこかで会ったことがあるような気がした。十歳ぐらいで、黒髪のワンカールしたナチュラルスタイルのボブカットに、丸い顔に大きなくりっとした瞳が印象的な美少女だ。服装は小学生女子らしく、ピンクのトレーナーにデニムのミニスカート、そして白のスニーカーだ。
「痛いよ」
少女が言った。
「ごめんね」
謝ると、彼女はいきなり私の手を取り、走り出した。
「ただ謝ってもダメだよ。もっと誠意を見せてくれないと」
手を握ったまま彼女は私を引きずるようにして走ってゆく。
「ちょ、ちょっと待って」
訳がわからず、それでも彼女についてゆく私。その後を天使も追いかける。
「シシカバブで許してあげる」
彼女はそう言うと、声を立てて笑った。
そこで、思い出した。どこかで会ったのではない。見たことがあったのだ。元嫁の古いアルバムの中で。この年齢の彼女に会ったことはなかったが、面影はある。彼女は私の元嫁の少女時代の姿だ。
「君は……誰なんだ?」
少女に尋ねる私の声は少し震えていた。
「チコだよ」
前を走る少女が振り返り、笑った。
私は驚きのあまり、むせてしまった――チコというのは元嫁の愛称だ。頭の中が真っ白になった。
「あ、着いたよ」
少女の声に我に返り、足を止めた。
公園を離れ、ここがニューヨークなら、ロウアーマンハッタンのウォール・ストリートの位置ぐらいにある通りに来ていた。かなりの距離を走ったと思うが、さすが天国というべきか、運動不足の私が、汗もかかずに、さらには息切れさえしていなかった。まさに奇跡だ――目の前にはシシカバブの屋台があった。
それから私たち三人は食べ歩きしながら、どこへ向かうということもなく、街中をぶらぶらした。そのうちいつの間にか、最初に訪れたチャイナタウンもどきへと戻ってきた。すると、彼女が今度は肉まんを食べたいと言い出した。なりゆきというのもあるが、気になることがある私としては彼女から離れるわけにもいかず、付き合うことにした。
結局そのあと、巨大なマンハッタン市営ビルの代わりに聳え立つ、オレイカルコス神殿――パンテオンというよりは、グラズヘイムといった感じの金色に輝く、豪華な宮殿だった(これじゃ、古代ローマというより、ヴァルハラだろう)を見学したり、公園に戻り、その先にある港からフェリーに乗り、ある島へ行き、自由の女神もどきの像の中を見物したりして、とにかく遊び回った。だがその間、私の頭の中は最悪の考えでいっぱいだった。もし、彼女が想像どおりの存在なら、あるいは彼女が私と同じくここに何かの間違いで迷いこんでしまったのでなければ……認めたくはない考えがぐるぐると巡っていた。
私たちを乗せた船が、港へと戻ってきた。
「とても楽しかった。ありがとう」
公園へ戻ると、微笑みながら、少女が言った。「それじゃ、お礼にそろそろ私の正体を明かしちゃおうかな」
「え?」
彼女の意外な言葉に思わず、私と天使は一緒に驚きの声を上げた。
「最初に言っちゃうと、私は本物のチコちゃんじゃないよ」少女はいたずらっぽい表情で、舌を出した。「おじさんたちが追っている謎にヒントをあげる人だよ」
「それじゃ……」
私は驚きと安心の入り混じった、複雑な気持ちだった。
「私の名前はいろいろとあるのだけれど、中には「本の人」なんていうのもあるかな」少女は微笑みながら言った。「本当はおじさんたちの謎の答えはもうわかっているのだけれど、ただ教えても面白くないから、ヒントをあげることにするね」
「あの……あなたは本当に……いや、それよりなぜ、彼女の姿なのですか?」
「もちろん、おじさんを驚かせるためだよ。私はいたずらやゲームが大好きなの。だって、楽しいじゃない。それから、これ気に入ったからしばらくこのままの姿でいくから、この後も私のことはチコって呼んでね」
「はあ……」
「それじゃ、これからヒントを出すから、二人で頑張って解決してきてね。用意はいい?」
「あ、はい……」
「私はここへ迷い込む前におじさんが見ていた夢を探ってみたの」彼女が私に向かって言った。「そこには四つの場面があったでしょ。初めにおじさんと本物のチコちゃんが住んでいた大学時代のアパート近くの小高い丘の上。二つめは八木山ベニーランド。三つめは新婚旅行先の、ニューヨーク。そして、最後はおじさんの故郷である、石巻の日和山。そうでしょ?」
「はい」
「私ね、この四つの場面それぞれに今回の謎を解く、キーワードを一つずつ見つけたんだ。でも、それは教えないよ。自分たちで見つけてね。そんなに難しくないから。ここに来るまでにおじさんたちはそのキーワードにはもう会っているから。それじゃ、がんばってね。またあとでね、バイバイ」
そう言うと、一瞬で目の前から彼女の姿が消えた。
あまりの急展開に少し、面食らった私は言葉も出せずにいたが、天使に促され、とりあえず、公園から移動することにした。
「まさかあの方にこうも早く会えるとは。しかもあのようなお姿で……さすがに私も驚きました」
隣を歩く天使が言った。
「ああ……確かに」
ようやく落ち着きを取り戻した私が頷いた。
「ところで、私たちはすでに四つのキーワードに出会っているとあの方は仰っていました。何か心当たりはありますか?」
「いや、特に思いつくものはないなあ」
「私もです。それでは、私たちが今まで歩いてきた道を逆から辿って行くというのはどうでしょうか?」
「うん……それにしても、俺の夢の中に出てきた何かをここへ来るまでの間でもう一回見たってことだよな……あったかなあ、そんなもの……」
「とにかく生前、霊能者だったというあの女性のところへ戻ってみましょう。ひょっとしたら、何かわかるかもしれませんよ」
「そうだな。でも、彼女は俺たちが戻るなんてことは一言も言ってなかったぞ。霊視したなら、こうなる展開も見えていたんじゃないのか?」
「いや、そもそも彼女はあの方に直にお会いできるなんて言ってはいませんでしたよ。確かに、重要な人物に出会える場所がキャノンボール・パークであることは見えていたようですが」
「そうだったっけ? なんか霊視って言ったって、何もかもが見えるわけじゃないのかもな」
「けど、他に頼るものもありませんし」
「だな。それじゃ、駄目元でも今度はそのキーワードについて霊視してもらおう」
「ですね」
元霊能者のコンドミアムに戻ると、彼女は天使に向かい、開口一番「メモ帳」と言った。
「ああ、そうですね。うっかりしていました」彼はブレザーの胸ポケットから、メモ帳を取出し、ページをめくった。「ありました。なぜ、こんな大事なことを忘れていたのでしょう」
「いいから、何て書いてある」
私はせかすように言った。
「あ、すいません。ええと、爬虫類の形をした雲、大きな鳥、魚、香ばしい匂い。おそらくあの方が仰っていたキーワードとはこの四つのことだと思われます」
「でも何のことだか、さっぱりだ」
「私がもう一度霊視してみましょう」
私たちの心情を汲み取るように、彼女が言った。
再び三人でソファに並ぶと、彼女は目を閉じ霊視を始めた。
「どこかの小高い丘の上、男の人と女の人がいるわ……何かを話している……」
「それ、最初の夢だ」と私は言った。「その二人は俺と元嫁だな」
「あなた何だかとても悲しげな表情をしているわ」目を閉じたまま、彼女は言った。「何か本当の気持ちが伝えきれていないようなそんな目をしている」
「え?」
私は一瞬のうちに、夢の中であのとき胸に湧き上がったわだかまりのようなものを再び感じたが、なぜかそのことを読み取られないように平静を取り繕い、彼女に話を続けるように促した。
「ええと、そうね。雲だったわね……何? 何なのあの形は? トカゲかしら?」彼女はここでいったん目を開くと、一息つき、天使にトカゲをメモするように指示した。そして、少しの間をおいて、再び目を閉じた。「今度はどこか、大きな遊園地ね……あなたたち二人は観覧車の目の前にいるわ」
「八木山ベニーランド」
と私は言った。
「何か素敵な音楽が流れている。屋台があるわ……いい匂い……香ばしい香り……トウモロコシね」
そう言って目をゆっくりと開けると、彼女は私を黙って見つめた。それから、しばらくそのままの状態が続いた。
「どうしたんですか?」
心配した天使が彼女に声をかけた。
「あなたは過去のことはすっかり忘れたと言っているけれど、本当は何一つ忘れられずにいるのね……だけど、あなたはそれを自分に許さない。だから、苦しんでいるのよ。もっと、気持ちに素直になりなさい」
彼女は私の手を両手で包み込んだ。
私は慌てて、その手を振りほどいた。それから、「ちょっとトイレ」そう言いながら、席を離れた。
トイレの個室で便座に座り、彼女の言葉の意味を考えてみた。彼女が言うほどのはっきりとした自覚は無かったのだが、言われてみると妙に納得のいく話だった。だが、やはりそれを認めてしまうには抵抗があった。
席に戻ると私は今はキーワードを探ることが最優先事項だと言った。
彼女は了解したのか、黙ってうなずき、霊視を再開した。
「今度は……どこか、外国ね」
「ニューヨーク」
私は答える。
「そう……あなたたちが見える。ん? あなたが席を立ったわ。なるほど、トイレに行くのね……目の前に大きな人……あ、彼のTシャツ、赤色……胸に書いてある文字……Old World vulture なるほど、ハゲワシね」三度目を開けた彼女は首を傾げた。「しかし、それにしてもこんなにもはっきりといろいろなことが見えるなんて、何だか不思議だわ」
「もしかしたら、ですが……」
天使が言いかけると、
「なるほど、あの方の力添えがあるってわけね」彼女がすべてを察したように頷いた。それからソファを立ち上がり、軽くストレッチをすると「さて、それじゃ最後ね」そう言って再びソファに身を沈め、静かに目を閉じた。
「港町」
「石巻。俺の故郷」
「この臭い……魚ね。これはそのままって感じね」彼女は最後の霊視を終えた。「さあ、これで全部出揃ったわね」
「トカゲ、トウモロコシ、ハゲワシ、そして魚。この四つが、本当のキーワードなのですね」
メモを取りながら、確認するように天使が言った。
「だけど、はっきり言ってこれじゃ、何もわからないな。「本の人」はキーワードがわかったら、答えはすぐに出るみたいなこと言っていたけれど」
私はため息を漏らした。
「メモ帳貸して!」
突然、彼女が大きな声を出した。天使からメモ帳を受け取ると、何かを黙々と書き始めた。そして、書き終えると、そのページを私たちの目の前に掲げて見せた。そこには15、8、15、8、116、92、1/118と何やら分数のようなものが書いてあった。「突然、頭の中に現れたのよ。オートマティスム(自動筆記)なんて初めてよ!」
彼女は興奮気味に言った。
「でも、これはいったい何だ?」
私は戸惑いの声をあげた。
「それは全部で百十八個あって、分子にあたる部分の数字はそれぞれ、その中での番号ってことみたいね」
彼女が言った。
「何だ、全然わからない」
私は嘆きに似た声をあげた。
「つまり、これは暗号ですね。恐らく、それらの番号は何かの文字に変換できるはずです。15と8の繰り返しがただの順列ではなく、文字っぽい並びのような感じがします」
天使が言った。
「そうなの? でもどうやって、変換するんだ?」
「その……総数が百十八個ある何かがあるのですよ」探偵のように、思案顔で、天使が私に答えた。「それは実際に存在するものです。そして、それには番号が振られているのですよ。ですから、それが何か分かれば、きっと番号に対応する文字も分かるのだと思います」
「百十八個ある……煩悩。違うな、あれは百八個だ……ダメだ、ちっとも思いつかない」
「私もです」
「ごめんなさい。これ以上は私にも見えないみたい」
どうやら、彼女の助けが借りられるのも、ここまでのようだった。とはいえ、おかげで、だいぶ駒を進めることができた。私たち二人は彼女に礼を言い、とりあえず、逆戻りツアーに戻ることにした。
情報屋のアパートへと戻ると、彼は留守だった。
「でも、よく考えたら、四つのキーワードが何かはわかったんだよな」
と私は言った。
「そうですね、そのキーワードたちが何を表しているのかについては依然謎ではありますが」
「今は、それがわかりそうな新たな手掛かりとなるあの数字の謎を解かなければならないわけだ。だったら、そういう数字に強い天使のお仲間とかはいないわけ?」
「そうか! そうですよね。どうも今日はうっかりしてばかりいますね。彼女に聞けばいいのですよ、ガブリエルさんに」
「ガブリエル?」
「そうですよ! さきほどお会いしたじゃないですか? 彼女は数字関係には詳しいのですよ」
「え? あの元霊能者……」
「違いますよ。バベルの図書館で」
「ああ、あの人……いや、天使さんが。ていうか、君たちの名前を聞くのはこれが初めてなんだけれど。そもそも、それ以前に俺ら名乗り合っていないんだけどさ」
「ええ? そうでしたか。いや、それは大変失礼いたしました。ここでは、名前を呼び合うということが、あまりありませんので。申し遅れましたが、私はラファロと申します」
「ええと、俺は……」
「ああ、大丈夫です。存じ上げていますので」
「そうなの?」
「現世からいらした方のお名前やその他の情報はすべての天使が把握しています」
「どうやって?」
「自然と……わかるのです」
「へえ、そうなんだ」
「それでは、行きますか」
「え? ああ、そうだな。帰ろう、『バベルの図書館』へ」
オレイカルコスから図書館がある街までは再び汽車に乗って戻らなければならなかった。駅に降り立つと、下界の時間で言えば、それはせいぜい一日ぶりぐらいのことなのだろうが、何だかかなり久しぶりのような感じがした。
駅からは直接ガブリエルの書庫までテレポートで移動した。彼女は前と同じようにたくさんの本を抱えながら、本棚の前を行ったり来たりしていた。
「百十八ねえ……どうやら、あの方はあなたにゲームをさせたがっているみたいだから、きっとヒントになるその数字も下界のものだと思うのよね」私たちから話を聞いたガブリエルが言った。「これって、確実な数字とは本当は言えないのだけれど、総数が百十八個で、それぞれに番号がついていると言ったら、それは元素記号しかないわ」
「水兵リーベ僕の船って、あの?」
「何ですか、それ?」
ラファロが聞いた。
「そうか。わかるわけないか……水素、ヘリウム、リチウムって……ああ、だからつまり、それら元素のこと」
「確実な数字じゃないというのは?」ラファロが今度は彼女に聞いた。
「現在、人間界では原子番号を人工的なものを含めて、百十八まで振っているけれど、正式に名称が与えられているのは、百十二番のCn、コペルシウムまでよ。もう少しで、百十三番の元素にも名称が決まりそうだけど。いずれにせよ、超重元素や安定の島などまだまだ未踏の分野が残っているわね。でも、とりあえず現時点において、全部で百十八個あって、暗号の番号が文字に変換できるもの。そういう条件に合うと言ったら、それはやはり元素しかないはずよ」
「そういうことでしたか」
「難しい話はさっぱりだけど、それじゃ、もう暗号は解読できるのかな?」
「ええ、そのはずよ」彼女は微笑みながら、話を続けた。「つまり、こういうことね。番号っていうのは原子番号のこと。暗号の分子の部分に並べてある番号、15、8、15、8、116、92、1をこれに照らし合わせていくと、十五番は原子記号のアルファベットがPだから、日本語で言えばリン。そして、八番はO、酸素ね。これが、繰り返しだから、アルファベットはPOPOになるわね。続いて、百十六番のアルファベットはLvでリバモリウム、それから九十二番、これはUでウラン。そして、最後の一番はHで水素。で、これを並べると、POPOLVUHになる」
「ポポル……ブフって、読むのかな? 何これ?」
「その名前聞いたことがあります! 確かそういう名前の本があったと思います」
ラファロが図書館司書らしい台詞を吐いた。
「おお、そうか。で、どこにあるんだ?」
「それが、その……忘れました」
「マジか? 君は司書だろ? 本のことは何でもわかるんじゃないのか?」
「もちろん、自分の担当する書庫の本についてならば、そうなのですが、その本はどこか他の書庫にあったのです。そして、その階の担当者にそのお話を聞かせてもらったのです」
「その、同僚を忘れてしまったと、そういうわけ?」
「同僚と言っても、ガブリエルさんのように親しくなかったので……すみません」
「こんなときこそ、あの方が必要ね」
ガブリエルが言った。
「そうか……「本の人」!」
私がそう叫ぶと、ほぼ同時に背後で本棚の仕掛けドアが開き、一人の男が入ってきた――情報屋だった。
「話はわかっている。『ポポル・ブフ』について知りたいんだろう。詳しい奴のところへ、俺が連れて行ってやるよ」
情報屋に連れられ、私とラファロは前に訪れた、仙台駅前にそっくりな場所にある三十階建ての高層ビルへとやってきた――二度目だというのに、なぜだかもうお馴染みの場所に感じられた。だが今度は上へと昇るのではなく、逆に地下へと足を踏み入れた。そこで私はすぐに自分の間違いに気がついた。そこはお馴染みの場所どころか、同じ場所かと疑いたくなるようなところだったのだ。
塵一つないほどにきれいで、新築のように傷一つない上階の雰囲気とは真逆で、まるで廃墟のような罅割れたコンクリートの薄暗い階段を、へたくそなウィンクみたいに明滅する照明に照らされながら、恐る恐る私たちは情報屋の後に続き、地階へと降りていった。
「本当にこのような場所にその方はいるのかい?」ラファロが訝しむように尋ねた。
「ああ、いるとも。ちょっと変わった奴なのさ。さあ、着いたぞ」
階段はそこで終わり、目の前には事務所の入り口のような古びたドアが一枚だけあった。
「俺の案内はここまでだ。あとは自分たちで行ってくれ」情報屋はそう言うと、ドアの脇へ移動し、せまい通路の道を空けた。「さあ、行ってきな」
促されるようにドアを開けると、同じように薄暗い通路がさらに伸びていた。
「悪いね。全部嘘だよ」
情報屋は私たち二人をまるで通勤ラッシュ時の駅員のように中へと押し込み、すばやくドアを閉じた。すると、目の前の風景が突然、暗い洞窟へと切り替わった。
「え? 何これ?」
驚き振り返ると、ドアは無く、石壁に塞がれて道も消えていた。
「何かがおかしいですよ」ラファロが言った。
「移動することもできないみたいです」
外へのテレポートができないという意味らしい。
「それにしても、何なんだ? 彼も天使で同僚だって言ってなかったっけ?」
「はあ。しかし、どういうことなのか私にもまったくわかりません」
暗いといっても先に明かりがあるのか、完全な闇ではなく、目が慣れてくると、なんとなくは周りが見渡すことができた。
「こんなところで、どうすりゃいいんだよ」
嘆く私の耳元を何かがかすめるように移動していった。
「うわっ! 何だよ!」
天井を見上げると蠢く黒いかたまりが目に飛び込んできた――蝙蝠の群れだ!
「マジかよ!」
思わず叫んでしまった私の声に当然のように反応した彼らは狂ったように洞窟の中を一斉に思い思いの方向に飛び回り始めた。やがて、そのうちの何匹かが私たち二人に向かってきた。そして、私の首元に噛り付いてきた。「イテッ! こいつら、吸血蝙蝠だ!」
私たちは纏わりつく蝙蝠たちを振り払いながら、とにかく全速力で、その場から逃げ出した。五百メートルほど走ったところで、急に明るく開けた場所に出た。そこまで来ると、蝙蝠たちは踵を返すように、洞窟へと戻って行った。
そこは明らかに人工的な空間で白塗りの壁に囲まれたロビーのような場所で、またしても一枚のドアがあった。
「今度はどんなアトラクションが待っているんだ?」
Tシャツだった私の腕は、何匹もの蝙蝠に噛みつかれて、血だらけだった。しかし、私がこうなるのはわかるとして、さすがに流血は見えないものの、天使であるラファロの服もかなりボロボロになっていた。
「あのさ、天使もケガとかするの?」
「ここは恐らく天界ではありません。ですから、その可能性はありますね」
「やっぱり、ここは天国じゃないのか?」
「はい。なので、瞬間移動や破れた衣服の修復もできないのでしょう」
「それじゃ、ここはどこなんだろう?」
「さあ、私にもさっぱり見当がつきません。申し訳ありません」
「いや、君が謝ることないさ。君だって被害者なんだから。悪いのはあの君の同僚だ」
「ええ。でも、きっとあれは本当の彼では無かったと思います。天使は何があっても、このようなことはしないはずですから」
「それじゃ、何者かが彼に化けていたということか?」
「「あるいは操られていたのかもしれません」
「でも、いったい誰がそんなことをするっていうんだ?」
「ここで話していても埒が明きません。とにかく、先に進んでみましょう」
「ああ、そうだな」
ドアを開き一歩踏み出すと、そこに道は無く、私の身体は真下へとそのまま落ちていきそうになったが、すんでのところで、ラファロが私の腕を掴み、助けてくれた。
「びっくりした。ありがとう、助かったよ」
彼に引っ張り上げてもらいながら、下を覗きこむと、それは背筋が凍るほどの恐ろしい光景だった。華道で、花を生ける際に花を倒れさせないために使用する剣山という道具があるが、あれはにせものだと言わざるを得ない。なぜなら、私の目の前には今、何千本もの本物の剣が突き立つ山が広がっているのだから。
「どうする? こんなところ、どうやっても進んでいけないだろう?」私の声は少し震えていた。
「困りましたね。ドアはこの一枚しかありませんからね」
「インディジョーンズのこういう場面ではトリックアートみたいな形で道が隠されていたけどなあ」私はそう言いながら、しゃがみこんで、恐る恐るドアの向こうの宙に手を伸ばしてみたが、触れるものは無かった。あきらめて立ち上がると、いつの間にか私の足元に一匹の白いうさぎがいた。
「あれ、どこから来たんだ?」
うさぎは不意にドアの向こう側へと飛び跳ねて行った。
「あ!」
私たちが驚きの声を上げる目の前で、うさぎは空中に着地した。私はすぐさま、目を凝らして辺りを見回した。そして、それを見つけた――道だ! トリックアートではなく、風景に溶け込むように、透明な板のようものでできた道があった。そしてその先、遠く離れた反対側には小さく一枚のドアが見えた。
「道はあったが、一メートルほど先だ。しかも、よく見えない。あのうさぎを目がけて跳ぶしかない」
「助かりましたね」
ラファロはそう言うと、尻込みする私を横目に何でもないことのように、あっさりとジャンプして、向こう側へと移動した。
「おい、マジかよ」
「おや、どうしました?」
ラファロの天然っぽい表情がこちらを見つめている。
「何でもないよ!」
むかついた私は怒りにまかせて、歯を食いしばり、下を見ないようにしながら、思い切り助走をつけて跳んだ。が、空中でやはり下を見てしまった。その瞬間、身体に緊張が走り、変な力が入ってしまった。すると、着地の際、バランスを崩してまたしても落下しそうになったが、今回もラファロが助けてくれた。
「ありがとう。助かったよ」
「気を付けてください。この道はかなり狭いようです。しかも、向こう側へはかなりの距離があります。気を抜いていると、常に落ちてしまう危険性があります」
「わかった。慎重に行こう」
ラファロの言う通り、道幅はかなり狭かった。アクリル板のような透明な道が透けて、数十メートル下には数えきれないほどの剣の山が獲物を待ち構え、その切っ先を光らせているのが見えた。私は恐怖のあまり、立ちすくんだ。だが、もう引き返せない。私は覚悟を決め、恐る恐る一歩ずつ歩き始めた。
それから、私たち天使と人間とうさぎの一行は長い時間をかけ、ゆっくりと道を渡り切り、反対側のドアへと辿りついた。かなり緊張して、力んで歩いたせいか、腿の裏側の筋肉が引き攣るように痛かった。
「ようやく着いたな。でも、けっこう疲れちゃったよ。この先もまたこんな感じだったら、どうしよう。もう限界だよ」
「ではここでしばらく休んでから行きましょうか?」
「いや、それはそれで嫌だ。ここにはもう居たくない。次、行こう」
三枚目のドアを抜けると、そこは氷の国だった。しかも、ものすごい吹雪で、Tシャツ一枚の私はすぐにも凍え死にそうになった。
降り続く大粒の雪が顔や身体に突き刺さるように叩きつけられ、見る見るうちに体温が奪われていった。急速に体力も失いつつある。さらにその視界の悪さから距離感もつかめずにただ闇雲にまっすぐ歩き続けるしかなく、早くも絶望感に包まれていた。すると、いきなり雷のような轟きが辺り一面に響き渡った。
「何だ、今の音は? この吹雪の中、雷なんかが落ちたりしないよな?」
私は前を行く、ラファロに聴こえるように大声で叫ぶように言った。
「いったい何事でしょうか?」
と彼も叫びながら、答えた。
次の瞬間、私の目の前を黒く大きなものが横切った。驚いた私はその場に尻もちをついた。
「今度は何だよ?」吹雪に隠れて、その姿をはっきりとは視認できないが、私は目の前のその黒い影が獰猛な息づかいをしていることに気付いた。「獣だ……」
急いで立ち上がり、逃げようとしたが、獣の動きは素早く、正面からタックルするように襲い掛かり、私に覆いかぶさるようにのしかかってきた。もがきながら、見上げると、その黒い影の正体は――ジャガーだった。そして鋭い牙を剥き、私の首元にまさに齧り付こうとしたそのとき、突然嘘のように吹雪は止み、ジャガーは剥製のように大きな口を開いたまま、私の上で固まってしまった。
何が起きたのかと、倒れたままの姿勢で首を振り辺りを見回すと、ジャガーの陰から、またしても元嫁の少女バージョンの姿で、彼女が現れた。
「おじさん、危機一髪だったね」
「あ、はい……」
「でも、まさかこんなところへ来ているとはね」
「あの、ここはどこなのですか?」
「それより、とりあえず帰りましょう。ここに長居はしない方がいいわ」
「わかりました。ではお願いします」
「うん。じゃあ、行くよ」
次の瞬間には彼女と僕と天使の三人はガブリエルの書庫へと戻った。
「あら、お帰りなさい」
ガブリエルが暢気な調子で言った。
「はい。ただいまですよ」少女姿の彼女がそれに合わせるように答えると、今度は私たちに向き直り、「さてと、まずはそのケガとボロボロになった服を直したら?」
私は頭の中に元通りの姿を思い浮かべた。すると、魔法のように一瞬でケガは消え、服も新品のように修復された。
「それじゃ、そろそろ答え合わせしちゃおうかな」
少女が言った。
「まず、『ポポル・ブフ』はラファロさんの言うとおり本の名前だよ。正式な名称は『ポップ・ブフ』だけどね。「ポッポ」は時間、「ブフ」は本という意味よ。この図書館にはもちろん、原本があるけれど、下界では十八世紀初頭にドミニコ会の修道士が転写した、手稿本が残っているわ。それと、これを始めてちゃんとした本にしたのはフランスの宣教師、シャルル・エティアン・ブラシュール・ドゥ・ブールブールよ。ちなみにこの人が「ポッポ」の発音がかっこ悪いとか言って、勝手に語尾にLの文字を付け足しちゃったから、『ポポル・ブフ』になっちゃったの。で、本の内容はマヤの神話について書かれているものなのだけれど。それが、おじさんの夢とおじさんがここに来たことと、どう繋がっているのか? 謎でしょう?」
彼女はいたずらっぽい表情を浮かべて、私を見つめた。
「ぜんぜん、わかりません。難しすぎて、何のことやら、さっぱりです」
私はすがりつくように言った。
「確かにここから先は難しいから、私が答えを言っちゃうね。というか、それならば、初めからこうすれば良かったと言われそうだけれど、それじゃ面白くないじゃない?」
「はあ……」
「とにかく、私は前におじさんの夢の中に四つのキーワードを見つけたって言ったよね」
「はい。トカゲとトウモロコシとハゲワシ。それから、魚です」
「それ。マヤの創造神ククルカンが司る四元素にそれらの物は対応しているの。そして、ククルカンはアステカ文明ではケツァルコアトルと呼ばれている翼竜で、その姿は北欧神話に出てくるヨルムンガンドや古代ギリシャからの象徴、ウロボロスなんかと同じで自分のしっぽを噛んでいるものなの」
「ウロボロス?」
「ウロボロスはドラゴンや蛇が自分のしっぽを呑みこむ姿で、ヨルムンガンドは毒蛇が同じ恰好をしているの。そしてこれらが象徴するものはすべて、永遠の循環性や死と再生の繰り返しといったものなの。つまり、人の魂の旅路、そのものと言えるわね。おじさんはククルカンの四元素の象徴を続けざまに夢に見た。これが原因ね。どうやら、それで呪いのようなものが発動しちゃったみたいだから。つまりもし、私が放っておいたら、私があなたを夢からここへと呼びこまなかったら……」
「それじゃ、やはりあなたが私を……」
「ええ、そうよ。感謝してよね。あのままだったら、永遠に夢の中から抜け出せなくなっていたところよ。だけど結局、シバルバーへ連れて行かれるところだったから、少しあせちゃったけど。てへぺろ(・ω<)」
「シバルバー?」
「冥界よ。そうねえ、地獄と言った方がいいかしら? いやだわ。さっきあなたたちを助けたあの場所のことよ。いろいろな部屋でひどい目に会っていたでしょう」
「ああ……あそこは地獄だったのですか?」
「そうよ。まだ入り口だったけれどね。それこそ、『ポポル・ブフ』にも描かれている場所よ。恐らくは冥界の神が情報屋さんに化けて、あなたたちをあそこへと引き入れたのね」
「ああ、やはりそうでしたか」
「おじさんの夢に呪いのキーワードを忍ばせたのも、冥界の神々の仕業。おじさんが狙われたその理由はよくわからないけどね。まあ、たまたま運悪くってことなんじゃない? でも、二人ともよく私が助けに行くまで持ち堪えたわね。あなたたちと別れた後も、もちろん、私は離れた場所であなたたちのことは見守っていたのだけれど、恐らくは冥界の神々の邪魔が入ったせいで、情報屋さんが連れ出した後は見失っていたのよ。だから、助け出すのに遅れちゃったの。ごめんなさい」
「そんな滅相もないです。ちゃんと助けていただきました。あ、そういえばきちんとお礼を言っていませんでした。遅ればせながらですが、本当にありがとうございました」
「そう? なら、よかったわ。でも本当にあなたたちが頑張ってくれたおかげよ」
「いえいえ。でも二つ目の剣の部屋は最初、抜け出せる道がわからずに、あきらめかけたのですが……あれ、(辺りを見回して)うさぎがいない?」
「ああ、うさぎね。それもマヤの神話に出てくるわ。神の使いってやつね。ということは私が遣わしたってことなのかしら? まあ私もいろいろなところで、いろいろとやっているから、いちいち細かいことは覚えていないけどね」
「はあ……」
「それでどうだった? 謎解きの旅は? 途中予期せぬハプニングもあったけれど、楽しかった?」
「はい。初めはものすごく不安で、とまどうことばかりでしたが、今振り返ってみると、とても楽しかったです。ありがとうございました」
「よかった。これで私も満足だわ。でもね、今回のことは元はといえば、おじさんの未練タラタラの思いが原因なのよ」
「え?」
「チコちゃんのことが今も忘れられないんでしょ? もう昔のことなのに。だから夢なんか見るのよ。そうねえ、そこらへんのなんかウジウジした感じに冥界の神々が付け入る隙が生まれたのかもね」
「いや、それは……その何というか……」
「あーもう、じれったいなあ」
彼女がそう言うと、私たちは一瞬で大学時代のアパート近くの小高い丘の上へと移動した――目の前には夢の中の私とチコがいた。すぐに最初の夢に戻ってきたのだと理解した。
「ほら、行って。ちゃんと伝えたいこと伝えておいで」
少女が私の背を押した。すると、私の体が夢の私と重なるように一つになった。驚き、振り返ると彼女はすでに消えていた。隣にいる本物のチコは私の合体には気付いていないようだ。
「人を愛するって、どういうこと? わからない。私には……」
チコが言った。
「(いきなりこの場面かよ……)あの……」私はとにかく何か言葉にしようと思った。「俺、いつの間にか自分のことばかりで、君の気持ちをぜんぜん考えなくなっていた。出会った頃は何をするにも君のために何ができるのか、何をすればいいのか、そればかり考えていたのに。君のことが何より大切だったのに……二人で生きていたはずなのに、知らぬ間に自分一人の気持ちしか見えなくなっていて……君を傷つけてしまった。全力で君を守り抜くと誓ったのに、結局裏切ってしまって……ごめんね」
「私だって、ワガママなところはあったと思う。それはお互い様だよ。だって、二人ともまるで子どもだったもん。あんなのままごと遊びだよ……私たちには大人の恋愛はまだ早かったのかもね」
涙を浮かべた彼女が見せた最後の笑顔は悲しみの影を落としていたが、とてもきれいだった。次の瞬間、私は再びバベルの図書館へと戻っていた。
「どうだった?」
まだ少女の姿のままの彼女が言った。
「おかげさまで、モヤモヤしていた、わだかまりの正体がわかりました。私はずっと、自分の思いを伝えて彼女に素直に謝りたかったのです。あのときはそんな余裕がなくて言葉にできませんでした。けど、それが今まで心の奥に引っかかっていたのですね。彼女を目の前にしたら、自然と言葉が溢れ出してきました。ああ、私はこれがしたかったのだなあと、そのとき感じました」
「それが、本当の答えね」
彼女は言った。
「あ、そうですね」
私は笑顔で頷いた。
「それじゃ、解答編はこれでお開きだね。なかなか楽しかったよ。後はラファロさん、よろしく。また会いましょう。バイバイ」
最後まで彼女は少女の姿のままだった。
それから、ガブリエルに礼を言ったあと、私とラファロは彼の書庫へと戻った。
「しかし、彼女は……あの少女は本当に神様だったのかな?」私は照れを隠すように冗談めかして言った。
「はい。間違いありません。そしてあの方は「本の人」です。さらに言えば、ククルカンでもあり、ケツァルコアトルでもあり、時には少女であったりもします」
ラファロは至極当然といった顔で答えた。
私は思わず、笑ってしまった。
「どうかされましたか?」
彼がとまどった表情を見せる。
「そのさらっとした言い方、最高だよ」
「はあ……」
「いや、ごめん、ごめん。君にも大変お世話になったね。もうお別れかと思うと寂しくなるよ」
「同感です」
「ところでさ、下界に戻ったら、やっぱりここでのことは全部忘れてしまうの?」
「はい」
「やっぱり。そうか……でも、少しは覚えているなんてこともないの?」
「仮にあっても、夢の断片として認識されます」
「現実にあったことだとはわからないわけだ」
「はい。下界において、天国は現実の存在ではありませんから。それがルールですから」
「そうか」
「けれど、いつの日かあなたが天寿を全うされ、正式に天に召されたそのときはすべて思い出しますよ」
「そうなの?」
「はい」
「それじゃ、また会えるんだ、俺たち」
「はい」
「そうか。それなら、いいか。それじゃ、帰るかな」
「はい。それではまた」
「おお。でも、すぐには戻って来たくないかな……あのさ、ひょっとして、俺がいつ死ぬとか知っているの?」
「いえ」
「そうか。ていうか、知っているって言われても、絶対聞きたくはないけどね。よし、今度こそ帰ろうか。あれ? ところでどうやって帰るんだ?」
次の瞬間、私はまばゆいほどのフラッシュに包まれた。
目覚めると、もう昼過ぎだった。仕事が休みの日はたいていこんなものだ。何か夢を見た。それもかなり長い夢だったような気がするが、内容はまったく思い出せない。それにしても、それなら熟睡はしなかっただろうに、やけにすっきりとした気分だ。
休みといっても、誰かに会う約束をしているとか趣味やスポーツの為に出かけるとか、そういった予定はまったくないので、いつものように部屋の中で何をするわけでもなく、ただぼーっとして過ごすだろうな、などと考えていると、突然、めったにならない家電のベルがけたたましく鳴った――ケータイは一応持っているが、電源はずっとOFFのままだ。
「おい、助けてくれ」
受話器を取ると、返事をする間も無く、電話の向こうから叫び声が飛び出してきた――同僚の林だ。声でわかる。ついでに、どういった用件なのかも容易に予想がついた。彼はことあるごとに私を合コンに誘ってくるのだ。彼は私と同期なので、今年で二十九歳だ。よくやるよなと思うが、彼に言わせれば、それはれっきとした婚活なのだそうだ。私は今まで彼の誘いに乗ったことなど一度もなかった。軽い気持ちで参加すればいいと彼は言うが、やはり結婚に失敗した過去はただの恋愛関係であっても、二の足を踏ませた。いつも胸の中に、何かモヤモヤとしたものがあって、前に歩き出す勇気というのか、なんなのかとにかくそういうのが欠けていて、踏ん切りがつけられずにいたのだ。だが、なぜだか今日は彼の誘いに「イエス」と返事してしまった。我ながら、どうかしている。
男子メンバーは開始時間である七時より、三十分早い六時半に国分町にある居酒屋に集合した。作戦会議があるらしい。今回のメンバーは私と林のほかに早坂という会社の同僚と、職場はそれぞれ違うが野田と能登という、いずれにしても大学時代、ゼミで一緒の五人組だった。ちなみに私と林以外は既婚者だ。人数合わせの為とはいえ、なぜ彼らに声をかけたのだろうか? もっと若い奴らの方が良かったのではないか? 彼らも彼らだ。奥さんに知られたら、マズいんじゃないのか? 私の心配を余所に、当の本人たちは本日の相手の女性たちの話で盛り上がっている。彼女たちはほとんどが二十代前半で、林が以前、クラブでナンパした娘の友人たちで、職業はバラバラらしいが、中には雑誌のモデルやナースもいるらしく、男たちは興奮を抑えられないといった感じだ。
作戦会議というものの、学生時代から、何度となく繰り返してきた合コンだ。今さら、話し合うことなど無く、ただちょっとおしぼりやコースターを使ったサインの確認だけして、あとはお決まりの下品な猥談めいたジョークのやりとりで笑い転げただけだった。私が彼らと合コンに参加していたのは大学の頃だったが、あの頃の楽しさが少しずつ蘇ってきた。少し前まではこういうことをしても、あの頃のようには楽しめないと思っていたはずなのに。今日の私は何かがおかしい。ただ、この流れは悪くない。そんな気がする。
女性たちも集まり、コンパが始まり、乾杯をして自己紹介も一通り終えた頃になると、場の雰囲気もようやく和んできた。男女が交互に座り、オクラホマミキサーのようにある程度の時間で女性の席が一つずつ、次の相手となる男性の右側に移動したが、三回目の移動で、第一印象でなんとなく気になっていた女性が隣に座った――彼女は市の図書館で司書をしているというが、二十代前半の女性らしくオシャレにも気を使っているようで、いわゆるIラインと呼ばれる縦を意識した丈の長いニットワンピースで、襟元はタートル。色はグレーで、頭には同系色の中折れハット、靴は黒のスニーカーとシンプルだけど、トレンドライクな恰好をしていた。髪型もナチュラルな感じのカールしたパーマで、色はブラウンとベージュ、長さはミディアムで、ほっそりとした顔立ちに大きな瞳が印象的だ。性格も明るく快活でとても好ましいものだった。ただ、趣味はやはりというべきか、読書だそうで、本人いわく本の虫らしい。
「最近はどんな本を読んでいるの?」と私は尋ねた。
「ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『伝奇集』です」
「ホルヘ……?」
「そうです。ホルヘ・ルイス・ボルヘスです」
「へえ。聞いたことない名前だなあ」
「彼はアルゼンチンの作家なんですけれど、私が今、読んでいる『伝奇集』はとっても面白いんですよ。中でも私が一番気に入っているのは『バベルの図書館』という話なんです」
「『バベルの図書館』……」
その言葉になぜか私は懐かしさを感じた。そして、胸の奥に何かあたたかいものが溢れ出してくるのを感じた。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
放心状態の私に驚いた彼女が言った。
「ああ、ごめん。何でもないんだ。話を続けて。その話もっと詳しく聞きたいな」
私はたぶん彼女に恋をしたのだと思う。バツイチのくせに一目惚れなんて、愚かなことかもしれないけれど。なぜか、この恋は間違いじゃないと思えた。本当に今日の私はおかしい。でも、おかしくたっていいじゃないか。それで前に進めるのなら、考えすぎて、立ち止まってしまうぐらいなら、時には馬鹿になって、自分の気持ちに正直になって、突き進んだ方がいいのかもしれない。だって結局は前にしか道がない、それが人生なのだから。
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