3、秋の味覚が見つからない
暗闇の中にいた。
息苦しくて、体は酸素を求めるけれど、周りからは思わずえずいてしまいそうな悪臭が漂っていて、深く息をすることもできない。ただぼくは身動きすら取れない自分の置かれている状況に絶望するしかなかった。
暗闇には光が射していた。
ちょうど目の前、闇に閉ざされた世界に降り立つ天使の梯子の様に、一筋の光がぼくを完全なる闇から救い出していた。
光の中には見知った風景が広がっている。会議用に置かれた長机。秩序よく並べられた椅子。何も書かれていない黒板。窓から差し込む赤い夕陽。
その窓際に佇む、よく知った少女。
少女はこちらに背を向けていて、その表情を見ることはできない。
彼女が向き合っているのは、一人の少年だった。
開いた入口の扉を背にして、まだこの教室の風景に完全に入り込めないように見える。
どこか既視感を覚える光景だった。
少し前──あるいはもう遠い過去かもしれない──向こう側、まだぼくが光の世界にいた時、彼と同じように少女と向き合っていたはずだった。
でもぼくは、そこにいない。
光と正反対の闇の中で、こうしてその光景を見つめることしかできない。
少年が口を開く。
「……入っても、いいか?」
少女は黙ったままだ。
その沈黙を肯定ととったわけじゃあないだろう──それでも彼は返事を待たず、彼女に一歩、二歩、と少しずつ近づいていく。
彼が少女の肩を掴めるところまであと3歩──
「まって」
少女が声を出した。小さく、絞り出すような声だった。
少年の足が止まる──3歩の距離が、少女と彼の距離だった。
でもそれは、永遠には続かない。
「……水無月、俺と付き合ってくれ」
やがて少年が一歩を踏み出す。
境界が破れて。
「あっ……」
水無月が声をあげた。
そして世界は黒一色に染まる。
「なぁ圭介……水無月ってどう思う?」
最近のクラスでのもっぱらの話題は小林綾音と佐藤権一はあと何日で別れるか、というしょうもなくゲスなものだった。性格ゴミーズのリーダーである小林綾音が権一くんのことを好きだっていう事は周知の事実で、プライドの高い彼女が自分から告白するはずはない、いかにして権一くんに告白させるか。中学1年のはじまりから今の今まで、おおよそ2年半も費やした彼女のアプローチがついに実を結んだというわけだ。
二人の仲は案外長続きするんじゃないか──それがぼくの見解である。小林綾音のことは超を累乗しても足りないくらい嫌いだけれど、それでも健気に2年半一途に思い続けたことは素直に称賛に価することだと思うし、権一くんが告白しなかったのも彼は自分が不器用だとわかっていたから、部活動を引退するまでは男女交際に現を抜かさない、という縛りを入れていたからだ。そんな2人がめでたく両想いとなれたのは、先週の文化祭の貢献が大きいのだろう。実行委員となった二人は学校行事という健全な場で協力し合い関係を深め、ついに結ばれたというわけだ……。
「どう……とは?」
そんな2人が手を繋いで校門から帰宅していくのを目撃したとか、車の中で隠れてキスをしていたとか、カラオケボックスでマイク以外を握っていたとか、文化祭も終わってあとは受験勉強しか残らないフラストレーションを幸せな二人にぶつけているとしか思えない、とんでもなくどうでもいい話をしていたと思ったのに。
突然に、一太はぼくにそんなことを聞いてきたのだ。
「どうって……そ、そりゃあ、その、可愛いとか、そういう……」
もごもごと、彼らしからぬ物言いにまさかそんな、という思いが湧き出てくる。
「え、まじ……?」
思わず水無月がいるほうを向いてしまう。彼女は受験生らしく、休み時間だというのに自分の席について大人しく参考書を読んでいた──いやあれは参考書じゃない。漫画だ。隣に座る真辺の机に積まれているものを一冊借りているようだった。
髪が伸びたと思う。真剣に漫画本に目を落としながら、顔にかかる柔らかな髪を耳にかける仕草をみて、はっきりと気付く。もう短いままでいる必要がなくなったからだろう。どこか少年みたいな面影を残していた黒髪は今、肩あたりまで伸びていた。
「馬鹿っ、見るなっ! ばれるだろっ!」
いったいなにがばれるのかわからないけれど、頭をがっしと掴まれてぎぎぎと無理やり捻られてはなすすべもない。ぼくは力の流れに身を任せ正面の一太に向き合った。
「で、どうだ?」
「どうだと言われても……」
「可愛いって思うかってことだよ!」
教室内は休み時間の喧噪で包まれていて、個人個人の会話なんて誰の耳にも残りそうにないけれど、それでもその大声はどうなんですかね日下部くん。
「え、う、うん……可愛いんじゃないかな。美人か可愛いかで分けたら、可愛いカテゴリに入ると思うよ」
背低いから美人って見られるのは難しいしね、と内心で付け足す。
「そっか、だよなぁー……」ぼくの答えに、満足したようにうんうんと頷く一太。「や、実は結構前から気付いてたんだけどさ、ほら、ここんとこ水無月って髪伸ばしてるじゃん? あと日焼けがとれてきたっていうか──なんか、よくなったっていうか」
「なんか」「よくなった」。えらくふんわりとした感想である。
「ほら! この間の文化祭でさ、水無月、カエルの役やっただろ? あの時の衣装すっげえ可愛くてさ、びっくりしちまったんだよね。馬子にも衣装っていうのかな──」
それ当人の前で言ったら怒られるからな。などと思うだけで何やら熱く語ってくる一太の言葉は適当に聞き流しながら、横目で文化祭で大活躍したカエルのお姫様を見る──ステージ上で盛大にひっくり返り、「ぐえ」と女の子らしからぬ悲鳴を上げながらも見事にアドリブで乗り切った紅天女と呼ばれることになった少女を……ああ、だから今ガラスの仮面を読んでいるわけね。
オラカエルだあ、とクラスの面々からからかわれても、頭にクエスチョンマークしか浮かべられなかった水無月があだ名の由来を知った時、どうなるんだろうか。ポジティブな反応になることを祈るのみである。
「──でさあ、おい、圭介、聞いてるか?」
「え、あ、うん。聞いてる聞いてる。えーと、つまりその……お前、水無月のこと、好きなの?」
びくん、とほんのかすかに体を揺らしたのは、ぼくの隣に座る一ノ瀬蘭である。
悪魔バンドの女版みたいな格好したモデルが表紙の雑誌を眺めながら、実際のところはこちらの会話に聞き耳を立てているのなんてまるわかりなのだった。隣で会話をする男子からライバルである小林綾音の情報収集をしていたところで(愛情と憎しみは紙一重ということがよくわかる事象だ)そこに沸いて出た新たなる恋愛模様とくれば、乙女として聞き逃すわけにもいかないと。まあ、こんな教室内のどこに誰の目や耳があるかわからない場所で好きだの嫌いだの話す方が悪いんだ。女子のコイバナネットワークがキャッチしてしまった以上、日下部一太の淡い恋物語も受験勉強の肴になるのはあと何時間後か……。
──と思ったのだけれど。
「え? 違うよ?」
なに言ってんだおめー? みたいな、心底わけがわからない、というリアクションを取られてしまっては、こちらこそそっくりそのままを返すしかない。
「え? だって──そういう会話の流れじゃなかった?」
「いや、だからなんで俺が水無月のこと好きになるわけ? 俺じゃねえよサノ──あー、ほら、詳しくは言えないんだけど、そういうことだわな」
肝心なところ含めてどういうものか大体分かってしまったような気もするけれど(一ノ瀬がなにやら恐ろしいスピードでスマートフォンを操作している)、サノ何某君に幸あらんことを。
「……で、ちょっと聞きたいんだけどさ」
ぼくが適当な神にどうでもいい祈りを捧げていたら、突然一太は真面目な顔になるのだった。見たことのある顔だった。いつかの体育の授業で、剣道なんていきなり出来るわけないだろ日本のカリキュラム間違ってるんじゃないの、と臭い防具の中でぶつぶつ零すぼくに、遠慮なんて一切せず、隙しかない素人のぼくから隙を見つけようとしていた鋭い眼光……無抵抗なぼくに思い切り面を打ち抜きやがったあの時と同じ。
「……お前さ、水無月と付き合ってんの?」
「…………は?」
「いやさ、お前と水無月がよくオリ室で逢引きしてるって噂になっててさ、ちょっと気になって──」
防具を装備した状態での面の威力には及ばないけれど。
ふらふらと道を歩いていたら後ろから鉄パイプで後頭部をぶん殴られるほどには衝撃を受けたのは事実だった。
「え、ちょ……え? そ、そんな噂になってるの?」
「おう。まぁ当人の耳になんてそうそう入るもんじゃないから仕方ないけどな──結構前から話題にはなってたよ」
……コイバナネットワークがなんだって?
ああなんてぼくは思い違いをしていたんだろう。傲慢にもほどがあった。どうして自分だけがその網から逃れていたなんて──まるで自分が特別だというみたいに──思えていたんだろう! くそが! 不愉快極まりない! 自分の知らないところで噂されてるっていうのを知ることがこんなに不快だったとは!
「そ、そうなんだ……いや、その情報は間違ってるよ。ぼくは水無月と付き合ったりとか、そういうことはしてない。断じてない」
少しだけ大きめの声で、隣で情報発信を生きる糧としている女子に聞こえるように、否定する。おいわかったか一ノ瀬。早くそのスカイネットに情報を広めるんだ。
「……だよなぁー」ぼくの答えに納得したのか、少し張りつめていた一太の空気が、いつもの伸び切ったゴムみたいなものに戻った。「いやさ、クラスでの様子とか見てても付き合ってるようには見えないし、変な噂も立つもんだと思ったんだよ──なんでオリ室なんだろうなあ。あそこって鍵かかってるだろ?」
「…………………」
「ま、いいや。確認しときたかっただけだからさ。でさあ、佐々木クン、ちょっとばっかりお願いがあるんだけど、聞いてくれないかな」
「いやだ」
さっと立ち上がって、一太の静止の声も無視して教室をでる。そのままずんずんと廊下を進みどこかへ──どこでもいい、嫌な予感が消えるところまで。
「ちょ、ちょちょ、まて、待ってって! どこいくんだよ! もう休み時間終わるっつーの!」
ぼくの胸の内をざわざわとさせる存在が、教室から追いかけてきた。ちっ、と舌打ちする。次の教科は数学だった──前田先生だ。チャイムが鳴る前に教室へとやってくるだろう。このまま引き返すのもなんだか腹立たしいので、とりあえずトイレへと向かった。
「なー、頼むよー、一生のお願いだからよー、聞いてくれよー」
男とトイレに連れ立つなんて趣味じゃないのに、一太はぼくが用を足している間もまるでか弱い学生に絡むヤンキーの様に付きまとってくるのだった。
ハンカチを口で咥えて、手を洗いながら鏡に反射している彼を見やる。
短く刈り込んだ髪、鋭く上へ向かう眉、ぼくよりも10センチは高い身長。普段は軽薄な言動でへらへらしてるくせに、一度剣道着に身を包めばそこには剣道部元主将の誕生、真剣のような鋭さが姿を現すというわけだ……後輩人気も高いとか。死ねばいいのに。
「……何をすればいいの」
手に残る水滴をハンカチで拭いながら訊ねる。無駄なやり取りだとは思うけれど、何もかも最短で済ませることが正しいわけじゃないことくらいは知っている。
「ひゅー! さすが圭介、心の友よー! お前はなんだかんだやってくれる男だって信じてたよ!」
「うるさいな。早く言えよ。先生来ちゃうだろ」
「おっけー、いや別に大したことじゃないんだよ。……水無月にさ、好きな人がいるのか、それとなあく調べてほしいだけ。直接聞いてくれてもいいぜ!」
……だと思ったよ。ほかになにがあるっていうんだ。
けれども、だ。
「……なんでぼくなの?」
至極まっとうな疑問が浮かぶ。
思春期真っただ中、友達に恋愛相談して、意中の人の心の中をそうっと調べてきてほしい、なんていうのはありがちだけれどよくわかる展開だ。むやみやたらに攻め込むよりは、外堀を固めていくのは戦術として間違っていない──と、思う。たぶん。
でも、その調査するのがぼくっていうのは──ミスキャストにも程があるだろう。だってぼくは教室でもさして水無月と会話なんてしていないし、そんな仲良くも──
「──仲良くない。たしかにな。あんまり話しているのを見ないよな……教室では」
明らかに、はっきりと含みを持たせて、一太は言った。
「お前さっき付き合ってない、って言ったよな? ああ、それについては嘘を言ってないんだと思うよ。付き合い長いしな、目を見ればお前が嘘をついているかくらいわかるさ」
「わあ、それはありがたい。素敵な友情だね」
ぼくの軽口を一太はあっさり無視した。
「でもお前さ。オリ室で逢引きしてるってことは、否定しなかったんだよな」
「……それは、わざわざ言う必要がないと思ったからであって。逢引きとかねえ、そんなばかばかしい」
「『言う必要がないと思った』なるほどねえ……でもな、圭介。お前は知らなくて当然なんだ。耳に入るはずもない……自分の話なんてものはさ」
そんな、数時間後どこかで核爆弾が爆発することを知りながらもそれを家族に伝えることの出来ない政府職員みたいな憐れんだ顔に、若干苛ついてぼくは訊ねた。
「なんだよそれ、どういうこと?」
はー、と一太はため息をついて、それから一度肩を竦ませるのだった。
「……つまりだな、言ってしまうと、お前が毎日のようにオリ室に通って、水無月と勉強をしているなんてことは、とっくの昔にみんなに知れ渡ってるってことなんだよ」
「…………………」
今度こそぼくは言葉がでなかった。
「ちなみに、もっとショックを受けること言ってもいいか?」
聞きたくない。聞きたくないけれど──ここまで聞いてしまった以上、何も知らなかった数分前のぼくに戻れるはずもない。知らぬ間に溢れていた唾を飲み込んで、覚悟を決める。
「……いいよ、なにさ」
「この間真辺のやつが『つかさちゃんと佐々木の逢瀬を見学しに行くツアー』とか開催してたぞ」
「あのビッチがあ! 殺してやる! 絶対許さねえ!!」
「ちなみに俺も参加した」
「お前ー! お前ー!! 信じてたのに!! 親友だと思ってたのに!!」
思わず親友の襟首に掴みかかるけれど、力がまったく入らなかった。一太の身体にしがみつくように、ぼくはへなへなと床に崩れ落ちる。
「最悪だ……そんな、もう嫌だ教室に戻りたくない……」
自分の与り知らぬところで自分に関係した話がこうも広がっていると気づかされることが、こんなにも心にダメージを与えてくるとは思わなかった。……ごめん、権一君……ごめんよ、小林綾音……いや、あいつはいいや。みんなでぼくのことを見て陰で笑ってたんだな……受験勉強の肴に! ひどすぎる!
「まぁ、そんな落ち込むなよ。見学ツアーにしたって、せっかくあんな大所帯で出歯亀に行ったっていうのになあんにもなかったからすぐに解散になったんだわ。ったく、もうちょっとなんかやってくれよなー。真辺のやつなんてつまらないからって……あ、いや、なんでもない」
何やら嫌なものを思い出してしまった、みたいな顔をして黙り込む一太に、多少の興味を抱いたけれど、まあたぶん真辺がなにかしたんだろう。
「……ま、そういうことでさ。いろいろ知っているわけよ、佐々木クン」
ぽんぽん、とトイレの床の上で腐りかけの寿司みたいになってるぼくの肩に手を置く一太だった。
「……おっけー、わかったよ、理解した。そういうことね。だからぼくに白羽の矢が立ったってわけね……」
のろのろと立ち上がって、汚れてしまった手を洗う。なぜだろう、いくら石鹸を泡立てても綺麗になった気がしない……。
「そゆこと。俺が直接聞いても良かったんだろうけどさ、どう考えても水無月に不信感しか与えないだろうし。女子に頼もうとも思ったんだけどよ──な、わかるだろ?」
痛いほど。ぼくのクラスの女子にそんな話をするなんて行為は、校内放送を使って会話するようなものだ。
「つーわけで、頼むよ! ま、俺からしたらアホなことしてるなぁとは思うんだけどさ。そんなイチイチ調べたりせずに、ぱぱーっとどこかに呼び出しでもして告っちゃえばいいのになあ。めんどくさいことしてるよ」
そのアホで面倒くさいことに人を巻き込んでおいてよく言いやがるよこいつは……。
蛇口から勢いよく吹き出す水を両手ですくって、軽く顔を湿らせる。濡れた前髪ごと顔をハンカチで拭いて、ぼくはため息をついた。
「……わかったよ、それとなく水無月に聞いておけばいいんだね。でもあんまり期待しないでよ? 本当、みんなの喜ぶような話はぼくと水無月の間にはないし、誰が好きとか嫌いとかなんて話自体、したことないんだから──」
「おうおう、期待せずに待ってるよ。んじゃ教室戻ろうぜ──もう前田センセ来てんじゃねーかな」
そして最後に、トイレから廊下につながる扉を開けようとした一太はふと立ち止まって、
「なあ──圭介と水無月って、本当に付き合ってないんだよな?」
と再度問うてきた。
「だから、付き合ってないって言ったでしょ」
「じゃあさ、お前水無月のこと好きなの?」
「──あ、来た来た」
ぼくがオリ室の扉を開けると、すでに受験勉強セットを机に広げていた水無月がどこかほっとした様子で出迎えてくれた。窓に背を向けた形で、いつもの椅子に座り込んでいる。
「うん。来た」
適当に挨拶して、ぼくは教室後方に設置してある掃除用具入れへと向かい、戸を開ける──硬い。誰かが暴力を振るったか分からないけれど、所々がへこんでいるせいでなかなか開かない。あるいは誰かが中から開かない様にしているのかもしれない──だとしたら何が何でも確認しなければならない。ガタガタと揺れる、床と並行になれない歪んだスチール製掃除用具入れの戸を、渾身の力で引っ張り、開ける。……中にはホウキとチリトリとモップとバケツが入っているだけで、特に異常はなかった。
「? どうしたの?」
水無月の質問には答えず、ぽかんとしている彼女の後ろを通って窓を開ける。外はまだ明るいけれど、あと1時間もすれば夜の帳が下りてくる……10月のどこか物悲しさを感じさせる空気が部屋に侵入して、水無月が机に置いた教科書のページがぱらぱらと音を立てた──ベランダをのぞき込む。死角に誰もいないことを確認して、窓を閉めた。
首を傾げる水無月に、なんでもないよ、と手を振って、普段の位置とは違う廊下側に面した椅子に腰かける。鞄の中から適当に取り出すと、英語だった。はい、今日は英語を学ぶことにします。
佐々木流英語勉強術の基本となるもの、ぼくが夜なべして作ったオリジナル英語ノートである。まぁ、海外ドラマ見ながら台詞を書き起こしただけなんだけど。ぼくはあんまり英語が得意じゃないので、せめて自分の興味のあるもので文法やら単語やら、あとは自然な英語が話せるようになればいいと思って作っては見たのだけど、murderやらserialkillerやらTardive dyskinesiaやら、どう考えても高校受験に出てくるはずもない単語が並びまくってるので、これはちょっと題材を間違えたのではと今更ながらに思うのだった。もう作ってしまったからには使用するけど。
英文を眺めているふりをしながら、ちら、とノートで顔の下半分を隠しつつ対面に座る水無月を観察する。最近買ったという薄緑色のシャープペンを振りながら、真剣な表情に始まり、小首を傾げたり、唇を尖らせたり、と思えば目をぱっと輝かせたりと、顔の模様がコロコロ変わる。いつもは横に並んで勉学に励んでいたから、こうやって表情を確認できるのはこの後のことを考えたらよかったのかもしれないけれど、視線を上げるたびに水無月の姿が目に入るのは、ちょっと落ち着かない……。
スマートフォンを取り出して、アプリを起動。昨日の水無月との会話を見返してみる。
『ねえねえ、今日は来ないの?』
受信時間は今と同じくらいだ。ニワトリなぼくは一太から伝えらえた知られざる真実も相まって、颯爽と厄介な問題からとりあえず逃げたわけだけど……。
べつに水無月とは「私たち、毎日ここで勉強しましょうね☆」みたいな約束はしていなかったわけで、なんとなく自然と二人この教室に足が向いていただけだったから、何も気に病むことはない。偶然知識を学ぶのに最適な静かな空き教室で、偶然隣り合って冬に行われる戦争に向けて備えあっていたにすぎないのだ──けれど、このメッセージを受信したときにはやたらと後ろめたいものを感じてしまった。
問題はここではない。そのあとである。
『うん、ちょっと用があって……連絡遅れてごめんね』
『一人だとなんか怖いんだよう。誰かに見られている気がするし』
『そっかあ。そういえば知ってる? うちの学校の7不思議の一つ……掃除用具入れに隠された死体』
『8不思議目に入りたいなら話せばいいんじゃないかな』
『ごめんなさい冗談です。明日はいくよ』
『うん、待ってるね』
『あのさ、水無月って好きな人いるの?』
『( ^ω^)?』
……こう、自分の愚かさがはっきりと記録されてしまうっていうのは、なかなかどうして考えものだなあ……。
極めつけにこの後ぼくが取った行動は必殺の既読無視。他にいい対処方法が思いつかなかったんだから仕方がないじゃないか(スマートフォンを壊そうかとも思ったけれど、1年で2台買い替えるというのは両親に申し訳なくて出来なかった)。
さっきの一言二言がこの問題発言からおおよそ1日ぶり会話になるわけで……水無月とは教室だと席が離れることが多くて、普段話をすることは本当に少ない。だから表情豊かに受験勉強に備えるこのクラスメイトが、ぼくの唐突すぎる質問に一体何を考えたのか、まったく気にしていないのか、そもそもすっかり忘れているのかをこれから確認しなくてはいけないわけだけど……なんか、もういいかな。めんどくさいし。どうしてぼくが他人の恋路の応援なんてしなくてはいけないんだ。後でスタンプでも連打してログを消してなかったことにしてしまおうそうしよう。一太には聞けなかったって適当に答えてしまえばいいや……。
「……さっきからなあに?」
などと考えていたら、参考書に目を落としていた水無月が、顔は机に向けたまま、茶色の瞳だけをこちらにむけてきた。目線がばっちりとあってしまったので、いやあ偶然視線を動かした先にあなたの目が合ったんですよぼくの目的地はそこの壁の染みです、と自然な演技で目を泳がせる。
「な、なにとは?」
「ずうっとこっち見てるじゃん」
「み、見てないよ。ああほら、外、日が短くなったなぁってちょっと思ってただけ」
水無月は容疑者が嘘をついていることを確信している刑事のような目で睨んできたけれど、ふう、と小さく嘆息すると、ついと視線を自分の隣の椅子に動かした。いつもぼくが腰かけていた場所を。
「なんで今日はそっちに座ったの?」
「き、気分かな。ちょっと視線を変えることで見えるものがあるかなぁって。……み、水無月のきゃわいい顔とか」
「……へーえ」
言わなきゃよかった。空気がやべえ。しかも噛んでゲッコ族みたいになってるのが特に最悪だ。
はー、と水無月はわざとらしいくらい大きなため息をついて、机に広がった勉強道具をまとめ始めた。
「え、もう帰るの?」
ぼくの問いにふるふると首を振って、器用に参考書やら筆箱やらを積み上げると立ち上がる。それらをバランスよく運びながら長机を迂回して──もう一度椅子に座ったのだった。ぼくの座る、隣の椅子に。
「……落ち着かないんだもん」
ちょっと頬を染めつつ俯いて、唇をとがらせながらつぶやく姿に、ぼくはとりあえず勢い良く立ち上がると、オリ室の扉を破壊する勢いで開けて、廊下に誰もいないかを確認した。よし。元の椅子へ戻る。
「さっきからどうしたの? 色々と変だよ」
「いいか水無月。世の中にはね、凶悪な意思が存在してるんだ。ぼくたちの知らない所ですくすくと育ったそいつは、確かにぼくらを狙ってるんだ。ぼくはそれから君を守っているといっても過言ではない」
「保健室にでもいく?」
優しいようで辛辣な返しに凹みそうになる。この様子からして、水無月はぼくらがどんな風に噂されているか、知らないんだろう。昨日までのぼくと同じように。なら、知らないままでいいと思う。あんまりいい気分になることはないだろうから。
それにしても──小林綾音と一ノ瀬蘭のむかつく顔を思い浮かべながら、どちらの勢力にもあまり関わってないように見える水無月は、この手の噂にどの程度詳しいんだろう。クラスの女子だけで構成されてるメッセージアプリのグループがあるっていうのは情報として仕入れているけれど、稼働してるのかな……してるはずないな(確信)。
「ねえ、水無月ってさ、知ってる? 権一くんと小林──」とここまで話してから、水無月が最近できたカップルのことを知らなかったらぼくは噂話を広める女子達と変わらないのでは? という事実に気付いて言いよどむ。「あー……そのー……」
「? ……綾音ちゃんと佐藤くんが付き合い始めたってこと?」
「あ、うん、そうそう。だよね、知ってるよね」
「あれで気付かない、なんていうのは無理があるよ……」
苦笑いする水無月だった。あれっていうのはたぶん、休み時間にたびたび発生する権一くんと小林綾音のラブシーンだろう。ことあるごとに見つめ合っては周囲をピンク色の背景にするもんだから、二人に対するクラス(主に恋人いない組)のヘイト値は留まることを知らない。
「あの二人そのうち教室内でキスとかし始めそうでちょっとハラハラするもん」
「その前に一ノ瀬が爆発して暴れそうだけどね。ぼくはいま席が隣だから勘弁してほしい」
クラスの片隅で桃色の幸せオーラが広がるごとに、ぼくの横からは蟲毒が行われた壺の中から出てきたようなどす黒い瘴気が立ち上るもんだから、気が休まらないこともしばしばあるのだ。
「……蘭ちゃんはね、佐藤くんのことが好きなんだよ」
思わず水無月の顔を見やる。目を伏せて、どこか悲しそうに微笑んでいた。
「綾音ちゃんと一緒でね、一年生の時から佐藤くんのことが好きだったの。佐藤くんが部活に必死なのも知ってた。だから待ってたんだよ、ずうっとずうっと……」
……知らなかった。小林綾音と違って、そんな素振り一つ見せていなかったから。権一君と一ノ瀬が話している姿もあまり見た記憶がない。
「でも気付いてもらえなかった。……当たり前だよね。ツンデレってちょっと前に流行ったでしょ? あれってさ、私たち読者がキャラクターの好意を知っているから可愛く見えるけど、現実にあんな風に好きな人に振舞ったら、絶対嫌われちゃうよ。どんなに大切に想っててもさ、それを相手も分かってくれてるなんて考えちゃうのは……だめなんだよ。好きってちゃんと伝えないと、なんにもはじまらないんだよ」
「………………」
「これ、内緒ね」水無月は人差し指を立てて唇に近づけた。「知ってる人ほとんどいないの。……綾乃ちゃんも知らない。だから、あんまり蘭ちゃんのこと、悪く言わないであげて」
そう言われてしまっては仕方あるまい。頭の中で口にチャックをした後ガムテープでぐるぐる巻きにして『水無月が沈黙を求めています』と書かれた紙を貼っておいた。
「……でも意外だったなあ、水無月と一ノ瀬が、そんなこと話すくらい仲良かったなんて」
「そう? 同じ部活だったんだし、意外だなんてことないと思うけど……」
「あー……そうか、そういえばそうだったね……。どうにもぼくの中であいつがソフトボールのユニフォームを着ている姿が想像できない……ゴスロリ野球娘とか流行らないだろうなあ」
「ふふっ、そうだね。私も蘭ちゃんのイメージはゴシックロリータかなあ。ああいう服装は蘭ちゃんみたいに可愛くないと着れないから、ちょっと羨ましいよね」
「はあ。……これだから女の言う可愛いっていうのは信用できないんだ……」
「佐々木くんの目に蘭ちゃんがどう映ってるのかちょっと気になるよ……綾音ちゃんもだけど、二人といったい何があったの?」
それについては黙って首を振るだけだ。思い出したくもない。
水無月は「うーん気になる……」と唸りながらも無理に聞き出そうとはしてこなかった。
ふと時計を見やると結構な時間が経過していて、今日は全く放課後の勉強をしていないと気づく。水無月もせっかく移動させた勉強道具一式が塊になったままだった。
ま、いいか、手に持ったままになっていたノートをわざとらしく机に放り投げた。意図が伝わったんだろう、水無月がくすくすと笑う。
「でもさあ、綾音ちゃんと佐藤くんじゃなくても、付き合ってる人増えたよね。やっぱり文化祭かなー」
「なに、文化祭でなんかあったの?」
「そういうわけじゃないけど……ほら、普段帰る時間よりも遅くまで学校に残ってること結構あったでしょ? そこでさ、シーンとした真っ暗な廊下とか、誰もいない明かりだけついた教室とかみると、どきどきしない?」
「しないけど……」
「佐々木くんは感性死んでるからいいや」おい。「……そういうさ、非日常感と、夜のちょっと怖い暗闇と、イベントのわくわく感が混じっちゃうと、割と簡単なきっかけがあれば恋心に発展しちゃうものなんだよ」
「はー……吊り橋効果みたいなものかねえ」
少なくともぼくには縁遠い話である。なにせ文化祭の思い出など、惨殺死体の役だったぼくは毎回要求されるアドリブに応えるためコナン読みまくったことくらいで、あとはクラスの何人かで集まって舞台背景の城を駄弁りながら作っていたくらいだ。ぼくがいかに面白く黒タイツに殺されるかを黙々と研究している裏で、差分付きCGがあるイベントを発生させていたやつらがたくさんいたと思うとなかなか遣る瀬無いものがある……。
そしてぼくは何の考えもなくいつものように会話を続けてしまった。
「じゃあ水無月もなにかそういうドキドキがあったの?」
それはある意味、ぼくにとって望むべき方向の質問であったのだけれど。あろうことか愚かなぼく自身がそちらへ向かう準備が出来ていなかったのである。
「………………」
そのうえ水無月が黙り込んでしまったので、ぼくは慌ててとりあえず思いつくまま適当な言葉を口にした。
「あっ、ちち違うんだよ!? ほ、ほら水無月っていうところの遅くまで学校に残って真っ暗な廊下の中を明かりのついた教室でいたわけでしょ!? 他のクラスのやつらとも一緒にいたみたいだったしそういうこともあったのかなあってちょっと思っただけだから!」
「そんなに焦らなくてもいいよ……」
ぼくの剣幕に水無月は苦笑して、それからこちらの顔を、ぼくの心の底をのぞき込んでくるみたいに見つめてきた。
「うん、そうだね……あった、っていったら佐々木くんはびっくりするかな」
いたずらっぽく聞いてくる笑顔に、ぼくは少し胸が詰まる。
「……お、お赤飯を炊くかもしれない。水無月に恋愛感情が芽生えたーって」
ふざけるぼくだったけれど、水無月はこれっぽっちも反応してくれなかった。
「うん、そうだよ。私だって、誰かを好きになるんだよ」
そんな、少し頬を染めたはにかんだ顔を見せられてしまったら。
「……水無月って」ぼくはなるべく平静に、なんの感情も込めないように質問する。「その……好きな人、いるの?」
「……どうしてそんなこと聞くのかな」
「こ、コイバナ好きだから」
「ふうん……そっか。佐々木くんは乙女だねえ」
水無月は制服の内ポケットからスマートフォンを取り出して、ぼくに見えないようロックを解除してから一つの画面を突き付けてきた。
……昨日のぼくとの会話だった。
「昨日も聞いてきたよね」
「それ飼ってる猫が打ったんだ。ほら、見てみる? 可愛いんだよ、シオバタっていうんだけど──」
「私が好きな人いるって聞いてどうするの?」
「…………………」
「なにか、企んでるでしょう」
じいっと鋭い水無月の目が、逃げるぼくの視線を捕まえようと追いかけてくる。そこから逃れようと頭を逸らすと、水無月が顔を近づけてきて、たぶん髪の匂いなのかな、ふわりとなにやらいい香りが鼻先をくすぐった。落ち着くような心臓を破裂させるような自白剤に、ああもうゲロってしまおう、と心が折れかけたところで。
「──ふっ、くくっ、ふふふ……」
水無月はもう耐えられない、と言わんばかりに笑い出した。
「え……み、水無月さん?」
「ごめんね、ふふっ、実はね、大体のことは知ってるの」
そう言う水無月は、狼狽するぼくがおかしくて笑いが堪えられないと、口元がふるふると震え続けているのだった。
「日下部くんにお願いされたんでしょ? 私に好きな人がいるか聞いてこいって」
「な、なぜそれを」
おい一太、もう黒幕までばれてるぞ! お前の計画ガバガバ過ぎじゃない!?
「昨日佐々木くんが既読スルーしたあたりで琴ちゃんがやってきて、教えてくれたの。私のことを、その……好きな人がいるってことも」
「あの女頭おかしいんじゃないの?」
ぼくの頭の中では真辺琴がピエロのメイクをして「Let's put a smile on that face!」と笑いながら学校を爆破していた。
「誰かっていうのは、教えてもらえなかったんだけどね。お楽しみはとっておけーって言われたよ……」
「あいつほんとにやべえな。どんだけ混沌が好きなんだよ」
真剣に精神病院にでも収監されてほしい。
しかしこうも計画が露呈していることを考えると、昨日のうちに日下部にも真辺の接触があったのは確実だから、その情報がどうして実行犯のぼくにおりてこないのかというと、ただの嫌がらせだろうね。許さねえ。
……まったく、昨日からやきもきしていたぼくが馬鹿みたいじゃないか。ため息をついて、水無月に謝罪の言葉を述べた。
「……ごめんね」
「? なんで佐々木くんが謝るの?」
「探るような真似しちゃったから。あんまり気持ちのいいものじゃないでしょ」
「うん、そうだね……」水無月は未だスマホに表示されたままになっている昨日のログをみて、「最初はちょっとびっくりしたかな。そのあと既読無視されちゃったし」
「ごめんなさい……」
「せめてワンクッションいれるとかさ、最後にフォローしたりするよね。既読スルーって人間のすることじゃないよ」
「おっしゃる通りです……」
「佐々木くんって普通に馬鹿だよね、死ねばいいのに」
「水無月さん?」
「日下部くんも変な人選するよね。なんで佐々木くんなんかに頼んだんだろ。絶対向いてないって考えなくてもわかるじゃない」
「ああ、それは……」と、ぼくが選ばれた理由を言いかけて、思い止まる。やっぱり水無月は知らなくてもいいことだと思う。「なんでだろうね、一太も馬鹿だからね。ぼくと同じ考えなしなんだよ」
すると隣に座る同級生は、またくすくすと笑いだした。
「──佐々木くんは、嘘が上手なんだか下手なんだか、よくわからないね」
「へ?」
ぺろ、とほんの少しの先だけ、水無月は小さな唇から舌をだして、すぐに引っ込めた。
「知ってるよ、私。その理由も」
頬を染めながら、先ほどから変わってないスマートフォンの画面を眺めながら、水無月は言う。
「あ、ああそっか、真辺のやつに聞いたんだね。あいつはほんとよくもまあ──」
「ううん、違うよ。……私たちの噂、知ってたから」
「……え、と?」
ぼくは水無月の表情を確かめようとするけれど、なぜだろう。水無月はさっきまでぼくを嫌というほど睨んできたのに、今は横顔しか見せてくれないのだった。
「……私と、佐々木くんが付き合ってるって噂」
だから、水無月がそのことにどんな感情を持っているのかぼくにはわからなくて。
「そうなんだ……」
としか返すことが出来なかった。
「うん、女の子だからね、そういう噂には詳しいんだ。……さっ、もうそろそろ帰ろ! だいぶ空が暗くなっちゃった」
……水無月の言う通りで、窓の向こうの空はすっかり夕方から夜のものへと変化していた。水無月は立ち上がると使われなかった勉強道具を抱えて、最初にいた椅子の方へと戻っていく。
「結局……」鞄に丁寧に教科書を詰める水無月に、どうしても気になってぼくは訊ねた。「その、水無月って好きな人、いるの?」
ぴた、と鞄に入れた手を止めて、水無月がぼくを見つめてくる。
「……そんなに気になる?」
「まあ、その……うん。日下部に、頼まれてるしさ」
「そっかあ、佐々木くんは友達思いだなあ。じゃあねえ……」と、水無月はなにか考えるように顎に人差し指を当てて天井を仰ぎ、「……佐々木くんが私の質問に答えてくれたら、教えてあげてもいいかな」
その、悪だくみを思いついたときに見せる水無月の笑顔に、嫌な予感がひしひしとぼくを刺激した。この後に続く流れは一つしかない。まるで未来を見てきたかのように、次に水無月がぼくにどんな質問を投げかけてくるのかがわかる。
ちょっとまって考えさせて、と言おうと口を開いた。
でも水無月はそれを察していたみたいに「だーめ」とふるふる首を振って、嬉しそうに、楽しそうに、恥ずかしそうに、ぼくを先回りして聞いてきた。
「ねえ──佐々木くんって、好きな人いるの?」
翌日、ぼくは水無月が告白されることを知った。
そうして暗闇の中にいる。
なにがそうしてなのか、自分でもよくわからないけれど……とりあえず言えることは、掃除用具入れの中は最悪だった。まず狭い。そして臭い。顔の横にあるモップと、足元にある雑巾から漂ってくる種類の違った悪臭が絶妙にブレンドされて最低にフルーティな香りを醸し出している。邪悪な魔力を持ったがために民衆によって封印されたエジプトのミイラのほうがまだ扱いがましかもしれない。その上だいぶ老朽化しているせいで体重がかかる場所を少しでも動かしてしまうものなら床との接触面が音を立てるから、身動ぎ一つ出来ないことになる。少しでも音を立ててしまえば──ぼくの気配を察知させてしまえば、すべてがおしまいになるから。
ぼくは目の前にある、唯一の生命線である空気穴の向こうをのぞき込む──無人のオリ室を。
夕日で染まる教室に、水無月の姿はなかった。それもそのはず、普段は道草を食いまくった後にオリ室を訪れるぼくだったけれど、今日は放課後のホームルームを自主的に辞退して余裕をもって掃除用具入れに隠れたのだ。まあでも、ぼくがオリ室の扉を開けるときにはいっつも椅子に座って優等生アピールしている水無月だったから、そんなに待つことはないだろうけれど──と、予想通り静かにオリ室の扉が開いて、女の子がてこてこと入ってきた──言わずもがな、水無月だ。一気に緊張が走る。これからぼくは絶の達人にならなければならないのだ。幻影旅団にもガムピエロにもぼくの存在を知られてはいけない。
水無月は鼻歌を歌いながら窓側のいつもの椅子に向かう……ぼくがオリ室後方の掃除用具入れの中から覗いていることなど露知らず。当たり前だけれど。
「ふんふーん……ふふーんふーん……」
「………………」
……なんだろうこれは、無性にドキドキする。いつか誰かに性癖の話をした覚えがあるけれど、なんだかぼくも誤った道へとひた走っているような気がしてならない。いけないことをしているという背徳感、見つかったら終わりという緊張感、そして普段見ることの出来ない光景が観察できる満足感……まずい、これは非常にまずい。心臓の高鳴りが止まらない!
水無月はしばらく椅子に座って楽しそうにスマートフォンを操作していた。ぷらぷら揺れる足と陽気なテンポの鼻歌、ずいぶんと機嫌が良さそうである。それからはっと思いついたように首をぷるぷると振って、スマホをポケットに仕舞うと、鞄を開けて勉強道具を取り出す──
いや、取り出したのは小さな青い紙袋だった。学校指定のリュックに入るくらいだから、そんなに大きくはない。水無月と関わってきた記憶の中で今まで登場したことのないものだった。水無月はその紙袋の中を覗き込んで、それからなぜか隣の椅子を見た。普段ぼくが座っているやつだ。
「……はあ」
その小さなため息は、静かな教室では十分すぎるくらい大きな音になって掃除用具入れの中のぼくにまで聞こえてきた。
なんだかよくわからない水無月の行動にぼくが首を捻っていると、彼女は紙袋をそっと仕舞うと、今度こそ勉強道具を取り出して机の上に並べ始めた。
「……よし、がんばるぞ」
そこはぞいって言おうよ。両手を胸の前で一度ぎゅ、と握ってから机にかじりつく水無月に、本当に勉強していたんだなぁと感心する。ひとりきりの時はだらだら人には見せられない姿をさらけ出していて、ぼくの来訪に気づいたら慌ててペンを握っているのだと思っていた。なんだか、ちょっとつまらない。
最初はのぞき行為に興奮していたぼくだったけれど、水無月が真剣な眼差しでノートにシャープペンを走らせてる様子を見て、一体何をやっているんだろうと今更ながら自己嫌悪の感情が襲い掛かってくる。たぶん真辺が開催したツアーに参加した面々も、こんな思いだったに違いない……彼らがどこからぼくたちの様子を観察していたかはしらないけれど……。
でも、ぼくはこの後に起こるイベントのことを知っている。ただ少女が勉強に励む様子を見るだけで終わらないことを知っている。
たぶんもうすぐ、水無月を好きな彼がやってきて、告白をする。ぼくはそれを間近で目撃することになってそれで──それで? よくわからない。よくわからないまま、わざわざこんな日に狭くて暗くて臭くて苦しい場所で、こんな風に出歯亀野郎になることを選んでしまった佐々木圭介ってやつは何がしたいんだろうね。馬鹿らしい、今すぐにでもここを飛び出して、水無月をびっくりさせればいいんだ。今ならハロウィンだからとかなんとか言って、誤魔化せる。きっと水無月はとんでもなく怒るだろうけれど、なんだかんだ笑って許してくれるに違いない。まだ間に合う、修正することは出来る──
でも、それでもぼくは暗闇から出ることが出来なかった。
ただじっと、息をひそめて、その時を待つ。
……その瞬間は、割とすぐに訪れた。
ふと、水無月が何かに気付いたように顔をあげて、それから教室の入り口を見やった。
視線の先──入口の扉がコンコン、と2回ノックされたことで、水無月が首を傾げる。
たぶん、廊下から人の気配を感じて、最初は気配の主がぼくだと思ったんだろう。でもぼくは、オリ室に入るときにノックなんてしない。見回りの先生はそんなことをする必要がない。じゃあ誰がそんな律儀なことをしたかっていったら──
「? はーい」
水無月は首を捻りながら、とりあえずノックに返事をする。
──開いた扉の向こうにいたのは、サノ何某くんだった。
佐野一樹。3年3組、野球部の主将でありキャッチャー。ぼくは話をしたことがないけれど、水無月はソフトボール部と野球部で前から交流があったんだと思う……文化祭の時に、水無月と笑顔で話している男をよく見かけたけれど、それが佐野くんだったことにぼくは今気付いた。一太曰く──いい奴、だそうだ。あいつがそう評価するんだからきっとその通りで、身長は平均よりもずいぶん高くて、外見も元野球部らしく細身ながら体幹がしっかりしていることが一目でわかって、坊主頭がよく似合っていて……頭の中身もいいことを知っている──学年テストの上位によく見る名前だったから。年収はしらない。
「──佐野くん?」
突然の予期せぬ訪問者に驚いたようで、水無月は椅子から立ち上がった。先ほどの様子からしても、水無月は今日彼がここを訪ねることを知らなかったらしい……改めて真辺の情報操作の恐ろしさを思い知る。きっとあいつがいたら「さぷらーいず」とかなんとか言って、クワガタ姿のいたずらの神に変身していたはずだ。
「よ、よう」
佐野くんは手を上げて挨拶する。
「ど、どうしたの突然、こんなところに──」
「い、いやさ。ちょっと水無月に用があって、ここにいるって聞いたから──ええっと、今、一人か?」
見てわかるようなことを訪ねるってことは、普段オリ室に常駐しているのが水無月の他にもう一人いるってことを、佐野くんは知っているんだろう。そういえば、ぼくは自発的にこうして隠れる選択肢を選んだわけだけれど、もしいつも通りに行動していたらどうなっていたんだろうとは思う。きっと3年1組からオリ室へ向かう道中、なにかしらのエンカウントが発生して、なかなかゴールにたどり着けなかったんだろうけれど……。
「う、うん……」
頷く水無月だったけれど、間違えてますよ。ぼくがここにいます。
……たぶん、水無月はもう感づいたと思う。同級生の一人が、わざわざオリ室なんていう人の気配の少ない、学校の辺境に足を運ぶ必要のある用件とはなにか。そしてこれから何が行われるのか。
自分に好意を向けている存在が、誰なのかも。
佐野くんも、水無月が察したことに気付いたんだろう。彼の顔が赤いのは、窓から射す夕日だけが理由じゃないはずだ。
少しの間、佐野くんは入り口に立ち尽くして教室の中に踏み込めないでいた。それはなんだか、いつかのぼくみたいだと思った。状況は少し違うけれど……。あの時机で横になっていた女の子は、今はちゃんと床に足を着けて縦になって……佐野くんと向き合っている。ぼくからは後姿しか見えなくて、水無月がどんな顔をしているのかわからない。
「入っても、いいか?」
別にこのオリ室に入ることに、許可なんていらないのに。それでも佐野くんは水無月に尋ねる。水無月は、返事をしなかった。ひょっとしたら小さく頷いたかもしれない……分からなかった。
開いていた扉が閉まって、教室内は二人きりの空間になる……いや本当はぼくがいるから3人なんだけどね、もう野暮なことは言わないよ。佐野くんはゆっくりと、水無月の元へ近づいていく。
「………………」
窓際に佇む水無月まであと3歩の距離に近づいたところで、佐野くんは足を止めた。
「あの……さ。もう、ばれてると思うんだけど、さ」
そうして佐野くんは言葉を紡ぐ。
たどたどしく、でも、秘めたままでは絶対に伝わらない、始まりの思いを込めて。
「俺、お前のことが、好きなんだ」
はっきりと彼は告白した。
「………………」
──水無月は。
ぼくからでは、その顔は見えない。喜んでいるのかも、照れているのかも、困惑しているのかも、嫌悪して……は、ないだろうけれど。どんな感情で何を思っているのか、わからない。傍から見て非の打ちどころのないと言ってもいい、少なくともぼくからみて好感度が高いであろう同級生から愛の告白をされて。
ああまったく、本当に……。
胸が苦しくて、息が出来なかった。耳から心臓が飛び出そうだった。いつヒノカミ神楽なんてぼくは使ったんだろう。こんな気分を味わうためにここに入り込んだのだとしたら、ぼくは真性のマゾでしかなく、そんな属性はぼくにはない……ないはず。ならどうして、ここにいるんだろうね?
「なあ──水無月」
ぼくの感情なんて二人にはまったく関係ないから。
佐野くんが、一歩水無月へ向けて踏み出そうとすると。
「──まって!」
遮るように、水無月が声をあげた。
それから慌てたように、自分の声に驚いたように身をすくませて、スカートの裾をぎゅっと握る。
「あ、ご、ごめんね、違うの、そういうんじゃなくて──」
「い、いや、悪い」
佐野くんは進もうとした足を止めて。
二人の距離は3歩のままだった。
俯いた水無月を、佐野くんはじっと見つめている。
音はなかった。今日は隣の教室の吹奏楽部も活動していないのか管弦楽も聞こえず、秋の閉め切った部屋には外の喧噪も聞こえてこない。二人だけ、二人だけの世界。そこに存在しない3人目のぼくだけが、音のない世界に耳障りなくらいうるさい心臓の音を響かせている。
二人無言で向き合っていた時間は、まるで永遠の様に長くて──
でも、佐野くんはそんな止まってしまったような時間を進めるために、しっかりとした決意を、表情と言葉にのせて、水無月に告げた。
「水無月──俺と、付き合ってくれ」
佐野くんが、3歩の距離を破り、水無月に近づく。
彼の手が、水無月の小さな肩に伸びて、
「あっ──」
小さな両肩に乗る、力強い手に動揺したように顔を上げた水無月と、佐野くんの目線が交錯して。
佐野くんは、抱きしめるように、水無月を引き寄せ
ぼくを入れた掃除用具入れが、盛大な、壮大な、なにもかもをぶち壊しにする音を立てて、倒れた。
全身がひどく痛む。
さらに顔に張り付く雑巾とモップの臭いが追い打ちをかけてくる。痛い、苦しい、臭い、辛い、暗い、狭い。それでも呻いてはいけない。声を上げてはいけない。
歪んだスチール製の戸は予想以上に開閉を困難なものとさせていた。入るときもだいぶ苦労したけれど、いざ出ようとしても内側から軽く押した程度ではびくともしなくて、それどころか思い切り体重をかけても開くことはなく──勢いよく飛び出そうとしたぼくの身体の重さ50キロとプラスαの力にも耐えやがり、衝撃でバランスを崩した掃除用具入れは扉を下にするように倒れた……ってことになるんだと思う。床によって唯一の光の入り口だった覗き穴は塞がれて、いよいよぼくの世界は完全な真っ暗闇となっていた。闇の奥に光はなかった。なんにもみえない。
『………………』
ただ……もう見えない光の世界から、二人の困惑だけが伝わってきた。それはそうだろう。夕日射す赤く染まる教室の、なんとロマンチックな男女の告白シーンをぶち壊しにしてくれた謎の掃除用具入れ。生前恋を実らすことの出来なかった幽霊の起こすポルターガイストにしたって、もうちょっと何か違う表現方法があると思う。
さて……この後どうなるんだろうか。とりあえずこの掃除用具入れを起こしてくれないとぼくは今度こそ封印され続けてしまうことになるし、だからといって外の二人に助けを求めるわけにもいかない。二人が何も気づかずにこの棺を起こしてくれたところで、重さで中にぼくがいることを察するだろう……。うん、これは詰んでますね。ぼくはどこでセーブしたっけ。リセットは3日前まで有効だったかな……。
などと頭が必死に現実逃避を始めようとしていたら。
『ふっ……ふふっ……』
暗闇の外から、笑い声が聞こえてきた。
『? 水無月?』
『ふふふっ、ふふっ……ご、ごめんね、ふふっ、ちょっと、まって……』
なんだか、肩をプルプルと震わせる一人の少女の姿がはっきり見えた気がした。
しばらくの間、女の子の笑い声だけがぼくの耳に聞こえてきたけれど。
『……よし、ごめんね。ちょっと、おもしろくて。……びっくりしたね』
『ああ……うん、びびった。これ、なに? よく倒れるの?』
『うん。七不思議の1つ──知らないかな、突然倒れる掃除用具入れ。……ほら、だいぶ歪んでて古くなってるから、時々バランス取れなくて倒れちゃうの』
『え、でもそんなのありえなくない──』
『ってことにして! 私怖いの苦手なんだ──だから、そういうことにするのがいいの!』
『お、おう……』
そんな2人の会話が耳に入ってきた。
『……ええと、佐野くん』
それから、水無月の真剣な声が聞こえてくる。……おもわずぼくがどきりとしてしまうくらいの。
『ありがとう。すごく、嬉しかったです。びっくりしたけど』
『……ああ、突然でほんとごめんな』
『突然ってわけでもなかったんだけどね。琴ちゃんが教えてくれたから……佐野くん、ってことは知らなかったんだけど』
『ほんっとあいつ……! なんだよまじで!』
『あはは……それでね、返事なんだけどね』
『……うん』
『……ごめんなさい』
『……そっか』
『うん……本当に、ごめんなさい』
『いや、いいよ。謝らないでくれ。なんとなく、断られるとは思ってたからさ』
『………………』
……この辺りで、普通の人間だったらそっとこの場から離れるんだろう。ちょっと俯きながら踵を返して、足音も立てず、二人に配慮して。でも空気の読めない、そもそも身動きの取れないぼくは、二人の会話に耳をふさぐことも出来ず、ただ二人の秘密を聞き続けるしかないのだった。
『でも言いたかったんだ。もうすぐ卒業だしさ……言わずに水無月と別れるの、嫌だったし。自己満足なだけだったんだよ。押し付けて、悪かった』
『ううん、そんなこと、ないよ……』
『……なあ、理由、聞いてもいいか? 一応さ、自分の中で、納得したいっていうかさ……あー! 俺ってばなっさけないなあ! くそ恰好悪いったら!』
『ふふっ……うん、佐野くんは格好いいと思うよ。……なんていうのは、だめだね』
『うーん、俺は別に手玉に取られるのも悪くないかなあって』
『そうなの? 私は逆かなあ、手玉にとられたい派……なんて。……うん、あのね、私──』
『──好きな人が、いるの』
『だから……ごめんなさい』
『そっか……それなら、仕方ないな』
『うん……あ、これ内緒にしてね? 誰にも言っちゃだめだよ?』
『言うわけないだろ。……ちなみにだけどさ、そいつが誰か、とかは教えてくれないの?』
『それは……だめ。教えません』
『ちぇっ……そっか。まあ、なんだろ……うん、そいつと、上手くいくといいな』
『………………』
『あーだめだなあ! 何言っても気まずくなっちゃうよなあ……ごめん、とりあえず今日は帰るわ! また今度野球部の連中とさ、ソフトボール部で遊びにいこうぜ!』
『うん……そうだね。……ありがとう』
『なにがだよ。……こっちこそ、ありがとな。ってああ、そいつを戻さないとか。さすがにそのままにしておくのはまずいよなあ──』
『あ! だ、だいじょうぶ! それ勝手に戻るから! ほおっておいていいんだよ!』
『え、まじ? そんなばかなことあるわけないだろ──』
『ほんとほんと! 大丈夫だから! 触っちゃダメ! 触ると死ぬよ!』
『死ぬの!? ……ま、まぁ、水無月がそこまで言うならいいけどさ……。よし……じゃあな、水無月』
『うん……ばいばい、佐野くん』
そして、何も聞こえなくなった。
今日は酷い一日だった。
あの後掃除用具入れに監禁されたぼくを置いて容赦なく水無月は帰宅してしまうし、沢山の苦労と多少の犠牲によってなんとか脱出できたけれど、家に帰れたのは佐々木家夕食タイムを結構な時間オーバーしていて、血も涙もないぼくの家族は主役を差し置いてぼくの好きな好物たちをほとんど平らげてしまっていた。母さんそれはいったい誰のために用意してくれていたのかと問い詰めたくなる。あろうことかケーキにまで包丁を入れてやがったのだからもう言葉も出なかった。
余りものの冷めた夕食を虚ろな目で食した後、お風呂に入って体を洗い、ぼすんと自室のベッドに倒れこむ。
枕に顔を埋めて目を閉じると、今日あった出来事が暗い世界に色と光を持って浮かび上がってくる。その中には見れるはずもなかった光景もあって、自分が夢に入りかけていると自覚するけれど、このまま眠ってしまうのもいいのかもしれない今日は本当に疲れた何ももう考えたくない──
コンコン、と。
そんな微睡んだぼくの意識を覚醒させる、ノックの音がした。
ぼくの家族は部屋に入るときにノックなんてしないデリカシーと絶縁した人たちなので、誰だろうと思うけれど、そもそもノックの音は廊下と繋がる扉からしたのではなかった。半開きのカーテンの向こうの窓から響いたのだ。
ちなみにだけれど、ぼくの部屋は二階にある。窓の向こうに足場はない。
「…………………」
気のせいだな。
気のせいだけどとりあえずカーテンをしっかりと閉めてから、もう一度ぼくはベッドに飛び込んで、なんとなく寒いので布団を頭からしっかり被り再び眠ることにした。ええと、どこまで夢は進んだんだっけな。たしか水無月がスクール水着姿で佐野くんを包丁で刺し殺したのをぼくが目撃して──
──ゴンゴン。まただ。さっきよりも強い力でノックされた。
さすがにぞっとする。
両親か柚を呼んで来ようと思ったけれど、これで何もなかった場合ぼくの中学三年生のプライドがずたずたになってしまうので、ベッドから這い出て、恐る恐る窓に近づいてカーテンを開ける。
……窓の向こうに特に異常はなかった。道路を挟んで向かいの飯塚さんの家が見えるだけで、白い顔が窓ガラスに張り付いていたり子供の手形が赤く残っているわけでもない。念のため窓を開けて周りを見渡してみても、特に気になるようなことはない……と。
ぱっ、と家の庭に設置された感知式ライトが点灯して、夜の佐々木家の庭先をオレンジ色に照らしたのだった。この前の休日に家族総出で一日かけて掃除した芝生の庭、光の中には誰の姿もない。
「──ん?」
芝生の上に見慣れない何かが置いてあるのが見えた。……なんだろう、ここからだと遠くてそれがなにかわからない。目を細めて確認しようとしても、すぐにライトは消えてしまった。
はて……と気になって部屋をでると、シオバタが待ってましたと言わんばかりにぼくと入れ替わるように部屋に入っていった。無視して階段を下りて、玄関から外に出る。
まだ冬とは言えない季節だけれど、さすがに半袖の薄手の部屋着だとかなり肌寒い。小さく震えたぼくの身体をセンサーが感知して、庭をライトが明るく照らす。ええと……と、自分の部屋から見下ろした位置を考えながら、庭を探す、までもなかった。
芝生の真ん中に、ぽつんと置かれていたのは小さな紙袋だった。どこかで見たことがある。青色で、小学生が持つとバランスよく見えるような大きさ。でも作りはしっかりとしていて、何語かわからないけれど、お洒落に文字が青の中で踊っている。
紙袋の中には、色々な形のクッキーが入っていた。ハロウィンが近いからだろうか、お化けやカボチャの形をしたものも見える。すべで透明なフィルムで丁寧に包まれていた。
そしてその中に紛れるように、手紙が挟まっていた。
『誕生日おめでとう』
はっと空を見上げる。
今夜は雲が多くて、せっかくの月もあまり満足には見えない。どこかにある姿を探すけれど、見つけることは出来なかった。きっと本人も、見つかるつもりはないんだろう。ぼくに隠れてどこかで笑っているにちがいない。簡単に想像できる。どこかに身を隠し、くすくすと、肩を震わせて必死に笑い声を堪えている裸の女の子。そっちのほうがずいぶんと滑稽な姿だっていうのに、まったく。
家に戻るとちょうど柚と廊下で出くわしてしまった。「うわっ! お兄ちゃんなにそれ!」と、ぼくの手に持った紙袋を目ざとく見つけ騒ぎだそうとしたので、一つ袋からドクロのクッキーを渡すと、「うひょー! 手作りー!」などと言いながら妹は自分の部屋へと入っていった。ぼくも自室に戻る。
部屋ではシオバタがぼくのベッドの上で大の字になって仰向けに寝ころんでいた。こうなるとなかなかどいてくれないので、仕方なくその横に腰掛ける。ふと思いついて、カーテンは開け放しておいた。窓はさすがに開けない、寒いから。
紙袋から一つ、麻袋に虫を詰めたキャラの形をしたクッキーを取り出して、梱包を丁寧に解いてから口に含む。
思ったよりも少し硬い、でもそれは表面だけで、中の生地はしっとりとしていてそんなに甘くない。ただオレンジピールの酸味が甘さを引き立てるようになっていて、そのバランスがぼく好みだった。おいしい。
スマートフォンを探そうと、部屋を見渡してもみつからない……どこに置いたっけと思ったら、シオバタの下で潰されていた。シオバタの機嫌を損ねないようにそっと引き抜いて、メッセージアプリを起動する。
『あのさ、水無月って好きな人いるの?』
ぼくの頭の悪い質問が目に入る。うっ、と自分の黒歴史に怯んで削除してしまおうと操作しようとして、おや、と気づいた。
その下に続いていた水無月の顔文字が消されていた。
そして代わりに、短い言葉で、
『いるよ』
と書かれていた。
そしてスマートフォンが小さく揺れて音が鳴り、次のメッセージが届いた。
『佐々木くんこそ、好きな人いるの?』
ぼくは苦笑して、質問の答えを送る。
昨日は嘘をついて誤魔化した答えを。
『いるよ』
それをすぐに彼女が読んだってことは、画面の表示で分かった。
でもなかなか返事はこない。
ぼくは紙袋からもう一つ、ハート型のクッキーを取り出した。こちらはオレンジピールの混ざってない、シンプルな生地。
やっぱり表面はちょっと力を入れないと噛めなくて、でも口に入れてしまえばふんわりと、生地のささやかな甘みが広がっていくのだった。
ちょうど1つクッキーを食べ終わったところで、待っていたかのように返事が届く。
「それって、誰かな?」
窓が開いて、秋の胸の詰まるような空気がぼくの部屋に侵入してくる。
まったく、そんなの、聞かなくてもわかってるはずなのに。
ぼくはそちらを見ない。
見たらきっと、彼女は顔を真っ赤にして、空に飛んで逃げてしまうだろうから。
そしてぼくもきっと、彼女と同じように顔を赤くしているだろうから。
だからただ、笑って質問に答える。
「──君だよ」
水無月つかさは、空を飛ぶため服を脱ぐ 桑ケ谷える @l-r-wanwano
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。水無月つかさは、空を飛ぶため服を脱ぐの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます