2、夏の庭みたいに

 狙うべきコースは分かっていた。

 相手の後衛はバックハンドが苦手だということを隠すこともしていなくて、多少のきつい場所でもその俊足を生かして回り込んで打ってくる。力任せの安定性に欠ける強打だけれど、一度こちらのコートへ入ってしまえばぼくはなんとか打ち上げる程度の事しかできない。弱弱しく上がったボールを叩きつけようと、相手の前衛は少し下がって待ち構えているわけだ。このパターンで何度も得点を重ねられた。

 追い詰められた、最後の1点。この1点を取られてしまえば、夏が終わる。

 相手側のサーブ。これは脅威じゃない。今試合のファーストサーブの成功率はそんなに高くない。ただ向こうはまだ余裕がある。きっと力任せに打ってくる──。

 ばしり、とボールがネットに当たる。ふぅ、と少し息を吐いて、少し前よりに移動する。

 セカンドサーブ。さすがに余裕があるとはいえ、何か仕掛けてくることはないだろう。とりあえず入れるサーブだ。入ればそれでいい。向こうに限っては。

 後ろに構えるパートナーに左手でサインを送る。

 山なりの、特に変哲のない少し横回転のかかったスライスサーブ。普段の練習だったらリターンエースをとれるような絶好球といっていい。

 タイミングを合わせてラケットを引く。中学3年間で見知った顔になった相手。後衛の彼はぼくがなにを得意としているか知っているだろう。前衛の彼、多少の強打でも上げてくる──自分がネット際に位置するために。

 ぼくは相手二人の間めがけて、鋭くラケットを振った。

 ボールはアウトラインぎりぎりのところに着弾した。相手の後衛が、苦手なバックハンドでも、それでもボールを上げてくる。こちらのコートの中に入る。パートナーは素早く判断してネットへついた。相手の前衛も、すでにネットへ向かって駆けている。こちらが打つ頃にはもうボレー出来る体制になっているだろう。

 ボールはコート後ろのちょうど真ん中に着弾した。ぽぉん、と跳ねる。ここで攻めないといけない。ほとんどスマッシュを打つ気分で、ラケットを振る──。

『──お前はいつも肝心なところで──』

 懐かしい声が聞こえた。

 そして自分の弱さを再確認した。

 ぼくの打ったボールは相手後衛のフォア側へ飛んで行った。彼の足元近くに着弾し、ラケットのフレーム部分に当たると弱々しくまたこちらへと返ってくる。

 チャンスボールだ。パートナーがラケットを振りかぶった。そして彼は、想像したと思う。今日幾度か繰り返している、空振りのスマッシュを。

 それでもぼくのパートナーは力を込めて、ラケットを振り下ろした。

 彼の渾身のスマッシュは、相手のコートめがけて鋭いラインを描き、茶色い砂埃を立てて着弾した。

 確認する必要もなかった。

 アウトー、とそれがぼくたちの三年間を終わらせる宣言だと、まったく理解していない審判の声が響いて。

 ──ぼくの夏は終わった。


「──こんなところで寝ていると死んじゃうよ?」

 そんなことは言われるまでもなく分かっていた。先ほどから遠慮なんて言葉私は知りませんよ、と言わんばかりの西日がぼくの肌を焦がしてきて、時折室内を通り抜ける風だけが清涼剤だった。それも焼け石に水で、このまま本当に眠ってしまえば、明日には夏休みの悲劇の一つとして、中学生のミイラになった遺体が学校内で発見されるのだろう。

 声の主が室内に入ってくるのを音で感じながら、それでも動く気にはなれなかった。長机の上で仰向けのまま、右腕で目元だけを日差しから守りつつ、ただセミの声だけを聞く。

 すると、何か布地が窓を滑る音がして、体を焼く熱が治まったことでカーテンがぼくと太陽の仲を引き裂いたのだと気づいた。うっすらと目を開ける。

「──おはよ」

 カーテンともう一つ、ぼくから太陽から遮る影があった。予想よりもすぐ近くで、水無月つかさがぼくを見下ろしていた。最後に会ったときよりも──夏休みに入る終業日以来か、若干肌を小麦色に染めていた。ブラウスの白い色がよく映えている。

「……なんか、黒くなったね」

「うん、佐々木くんには適わないけどね」

 笑いながら、手近にある椅子に水無月は座る。その位置がなんだか、ぼくの寝ている長机が突然消え去ったら、支えを失ったぼくの身体は重力に従い落下して、頭だけがぽんと女の子の膝の上に着地しそうな距離だったので、ぼくはのろのろと体を起こした。

 水無月は一人で占拠するには広すぎる長机に、お弁当箱を贅沢に広げていた。ピンク色の小さな二段箱。中には色とりどりのおかずが丁寧に詰め込まれていた。

「え、今からお昼なの? もう3時になるよ」

 さすがに食事している人と同じ机の上に座っているわけにもいかない。しばらく横になっていたせいで固まっていた身体をよろよろ動かしながら、長机から降りて近くの椅子を引っ張り腰掛ける。

「うん。タイミング逃しちゃって……我ながら集中してた。佐々木くんはどこで勉強してたの? 図書室にいなかったよね」

「……ぼくはずっとここにいたよ」こことはオリエンテーション教室のことである──水無月に呼び出された時に知ったのだけれど、この教室は本来鍵がかかっているため入れないところらしい……なのにどうして、こうやってぼくたちが平然と侵入し我が物顔でのさばっているかと言われたら、鍵がその機能を成してないからであって、それを破壊したのが誰なのか、それは神のみぞ知るというやつなのだった。「勉強はしてないけどね」

 机の上には散らばった夏休みの宿題が手付かずのまま放置されている。

「ふぅん……見せてあげよっか。ジュース一本、買ってきてくれたら考えてあげてもいいよ?」

「絶対考えるだけで終わるやつだからやだ」

「ちぇー」

 水無月はキュウリの浅漬けを口に含んでもぐもぐと咀嚼した。

「……じゃあ、なにしてたの?」

「…………………」

 先ほどから喧しく鳴いていたセミがどこかへ飛んでいき──かき消されていた音が耳に届いてくる。つい最近まで身近にあった、よく知ったボールを打つ音と、喧騒と。

 その音が聞こえてくるほうをぼんやりと眺めた。カーテンが閉じられた窓の向こう、テニスコートは見えない。

「……別になにも。家にいてもさ、することなかったし。学校に来たら少しはやる気になるかなって思っただけだよ」

「……そっか。私も、そんな感じ。あ、でも私はちゃんと勉強してたけどね」

「ぼくもしてたよ。……5分くらいは」

 それきり二人黙り込んでしまった。

 窓の外ではまたどこからか、新しいセミが飛んできて、その短い生命の炎を燃やすことにまったく厭わず大音量で世界に声を響かせていた。

「どこまで──」

 水無月は卵焼きを頬張るのをやめて、ピンク色の箸の先端を唇につけながらぽつりとつぶやいた。

「どこまでいけたの?」

 何の話? なんて聞く必要はなかった。

「……ベスト16」

 ぼくはちょっと考えて答えた。

「わ、すごいじゃん! ……私たちなんて1回戦負けだよ」

「……そうなの? それは……残念だったね」

「うん。残念だった。がんばったんだけどね」

 どうにも会話が続かない。水無月と会話するのも久しぶりだなぁと思う。どんな会話をしていただろうと思い出そうとしても、あまり気の利いた話題は出てこない。

「そういえば──」

 だから切り出したのは、簡単に思いつくものだった。

「最近飛んでるの? 空」

 もしぼくたちの会話を誰かが聞いていたら、何かの比喩か隠語かな、と思っただろう。でもこれは何か深淵な意味があるわけでもなく──言葉そのままの質問だった。

「ううん、最近は全然だよ」

 ぼくたちにとっては当たり前の話だから、水無月も当たり前に返す。

「昼間なんて飛んでたらイカロスみたいになっちゃう。あ、違うね、イカロスの翼、かな。溶けるくらいならいいんだけど……その、水着跡が出来るわけでもないからさ……飯塚先輩みたいになっちゃったらね、困るし」

「飯塚先輩ねー……知ってるかな、最近白くなったんだよ」

「へっ? どういうこと?」

「テニス部の先輩と付き合ってるんだけどさ、この間先輩が『やべえよあまりの変貌ぶりにどんなリアクションも取れなかったよ』って愚痴りにきた。写真も見せてもらったんだけど……佐々野知ってる? 3組の。……うん、あいつが『ちょ、先輩の彼女マイケルジャクソンですか!? ちょーうける!』って大笑いしてぼこぼこにされてた」

「へ、へぇー……そ、そんなだからね、もうほんとに。夜も部活のせいで疲れて寝ちゃってて、飛ぶ元気とかぜんぜんなかったの。──でももう、そんなこともなくなったけどね」

 朝から暗くなるまで、一日中動き回り汗をかいて、潰れるように眠るようなことは。

「……だいぶ、暇になっちゃったね」

 水無月はお弁当箱に残ったミニトマトを突きながらため息をつくのだった。

「……佐々木くんは、夏休みの予定とかあるの?」

「いいやなにも。お盆に母親の実家に行くくらいかな」

「そっかー……いいなー、私はなんにも予定ないよ。ずうっと勉強漬けになりそう」

「受験生だから、それが当然じゃないかな」

「佐々木くんはどうしてそう思えるのに勉強をしないのかなあ?」

「最近読んだ本に書いてあったんだけど、認識と納得は違うんだって。本はいいよね、ぼくたちの口に出せない葛藤を、素敵な言葉で表してくれる」

「あ、その本私知ってる──時間と空間を超える? ……まあね、そうだけどさ、やっぱり夏休みだよ? 夏休みらしいことしたいじゃない……そのさ、素敵な恋人と一緒に、どこか遊びに行ったり……海とか、プールとか!」

「海にプールねえ……」

 イメージしたのは日差しの照り付ける水の透き通った海の浜辺だった。ビキニ姿の金髪の美女がオゥイエス、とよくわからない英語で話しながらモデル歩きをしていて、特殊なドーピングをした人間の形をした筋肉が、美女たちに声をかける。近くではビーチパラソルの影の下に、水着をはだけたビッチが、お兄さんちょっとこっちでオイルぬってえ、と妖艶な手つきでおいでおいでと誘うのだ。

「うん──ないな、ぼくに海は似合わない」

「……佐々木くんってちょっと頭おかしいよね」

「し、失礼なこと言うなよ! え!? 海ってこういうところじゃないの!?」

「とりあえず君が一度も海に行ったことがないっていうことはわかったよ……」

 どんよりとした目でぼくを見つめてくる水無月だった。いや、確かにぼくは海に泳ぎに行ったことはないけどさ。でも大体ぼくのイメージ通りだと思うんだけどなあ。

「じゃあなにさ、水無月はよく海とか遊びに行くの?」

「私? うん、小6かな、それくらいまでは毎年家族で出かけてたよ。割と泳ぐのは得意なんだよねえ」

「へー……」

 ぼくは小学生時代夏休み何を過ごしていただろうと思い出す。なぜか一番に記憶の箱から飛び出したのは、段ボールに入れられた毛虫の群れだった。それぞれに名前を付けて、わさわさと箱の中を蠢く毛虫を、毎日観察していた……。

「……そうなんだ。ぼくは泳ぐのそんなに得意じゃないかな……」

「そ、そう……」

ぼくの様子にこれ以上この話題を広げてはいけないと察したのだろう。水無月は最後のミニトマトをひょいと口に入れて複雑な表情をした。きっとトマトが嫌いなんだろう。

「あ、そうだ!」

水無月はいいことを思いついた、と言わんばかりに両手を合わせてぱん、と大きな音をたてる。

「ねえねえ、プール行こうよ、プール!」

「え、プールって……隣町の?」

 電車で一駅、そのあと徒歩で30分の距離に、大きなウォータースライダーのある、そこそこ大きなプール施設がある。小学校時代に何度か訪れたことがあるのだけれど、確かに広くて楽しめるのだが、その立地条件からあまり移動手段を持たない子供たちには評判はよくない。ぼくも正直好きではなかった。楽しく水浴びをしていざ帰るとなったとき、また蒸し暑い中を歩いて帰らなければならないのだ。夕立に襲われたこともある。

 ぼくが嫌な感情を隠そうともしなかったのが伝わったのか、水無月は苦笑して「ちがうちがう」と手を振ったのだった。

「え……じゃあ、どこの?」

 ぼくが訊ねると、お弁当を食べ終わり栄養を体に取り込んだ女の子は、悪だくみを考えて、それが成功した時の様子を想像すると笑いがこらえられない……そんな表情で、ごちそうさまでした、と食後の挨拶をしたのだった。

「ふふ、どこかなあ。──ところで、佐々木くんは今夜おひまですか?」


 夏の夜に出歩くのはあまり好きではない。

 じっとりと体に纏わりつくような熱気もそうだけれど、重要視するべきなのは、暗闇に隠れてこちらにダイレクトアタックを仕掛けてくる大小さまざまな昆虫である。小さい蚊ならまだいい。ただ親指サイズのカナブンとか、カメムシとか、そういう口の中に入った時に拷問になってしまうようなものが、闇に潜む暗殺者となって飛び回っているのが問題なのだ。あと地面、油断してはいけない。邪悪なヘビが足元を狙っている……。

 何が変わったのかなぁと、昼間に思い出した夏休みの記憶を追想する。あの頃は虫なんて怖くなかった。虫取り網なんて必要なくて、ただ己の手のみが狩りの道具だった。怖いものなんて何もなくて、太ももにまで届く雑草の中を短パン姿でかき分けていたのに……。

 結局は、知ってしまったからなんだと思う。

 懐中電灯で足元を照らしながら、少し早足で歩く。雲はなく星が瞬いていたけれど、今夜の月明かりは少し頼りないものだった。下半分が欠けている月──下弦の月、あれ、上弦だったっけ。どっちでもいいけれど。

 向かう先は自宅からおおよそ歩いて10分──いつぞやの寄合場とは逆方向に進んだ、山の麓にある市営のプールだった。入場料はたしか小学生で50円だったか──その安さの通り、施設は25メートルのプールのみ、ウォータースライダーなどあるはずもなし。周辺に多少の集落があるので、主にそのあたりにすむ子供たちが夏に行き場がないときなどに利用する、そんな場所だった。勿論夜は開いていない。

 ××市営プール。そう書かれた建物はとても小さくて、それもそのはず、入場確認のおばさんの待機所、あとは小さな男女別れたロッカーとトイレ、そのくらいしか施設内にはなかったはずだ。真っ暗な建物の、シャッターの降りた入り口を眺めながら、スマートフォンを操作してメッセージを送る。『着いたんだけど。』

 しばらくして電子機器が震える。『建物向かって左のフェンスに沿うように歩いてきてー』

 なるほど、プールは侵入者防止に、特に夜間に不良な学生などが無断で入らないように少し高めのフェンスで囲われてあって、その上周りには本来刈り取らなければならないんだけど面倒くさいし防犯にもなりそうだからそのままにしておきます、と言わんばかりの鋭い葉を持った雑草が生い茂っていた。

 がさがさと、ふくらはぎにちくちくとした痛みを覚えながら進むと。

「──あ、きた」

 明かりなどのない、ほんのりとした月影に隠れて、水着姿の水無月がフェンスの向こうのプールサイドで手を振っていた。

「──ちょ、な、なにやってんの?」

 思わず小声になる。プール周辺には、隣に工場があるだけで人通りなんてあるはずもないけれど、それでも少し離れた先には民家がいくつもある。見つかった際には確実に補導案件だ。

「え、ナイトプールっていうやつかな」

「そういうのはもっとお洒落な都会でやるんだよ! こんな暗闇の中やるものじゃない!」

「ええー、でもそんな施設この辺にないし……ほらほら、佐々木くんもわかってたんでしょ? それでも来ちゃったんだから、あとはお皿まで食べるだけだよ」

 そういってこっちへこい、こっちこい、と悪の道へと誘うのだった。

 まぁ、確かにこの場所を指定された時点で何をするのかは察していた。ただぼくは主犯ではなく悪友に誘われてしまった主体性のない哀れなやつ、くらいのスタンスでいたい。

 足りてなかった覚悟を決め、フェンスに足をかける。おおよそ3メートルほどの高さのフェンス。

 がしゃんがしゃんと割と派手な音を立てるフェンスに、どうか近所の家々がバラエティ番組に熱中していてくださいと祈るばかりだった。フェンスの頂上までついて、右足を私有地へ入れてしまうと、ああ自分は引き返せないところまできてしまったんだ……と罪悪感が胸に広がる。今度、昼間開いているときにでも来て入場料を2倍払おう。

 へぼいスパイダーマンよろしくフェンス半ばまで降りたところで、もう大丈夫だろうと飛び降りた。少しだけ足に衝撃が伝わる。

「……これ、水無月よく登れたね」

 男のぼくでもわりと苦労したんだけど……。すると水無月はなにを今更、といわんばかりに笑って、

「私はここからきたから」

 と、人差し指で上を、空をさした。

「さっ、泳ぐぞー」

 言って水無月はプールへ足から飛び込んだ。怖くないのだろうか。普段はせいぜい小学生までが使うプールだけれど、今は弱々しい月明かりだけが光源で、よく見えず黒々とした水が踊っている。ホラー映画だったら確実に何かが登場してどちらかが……あるいは両方が……殺されるシーンだ。哀れな被害者(予定)は「うえー、冷たい! ナイトプールってこんなに冷たいんだねえ」などと呑気に笑っている。先に死ぬのはあっちだな。

「ねぇ、水無月、更衣室閉まってるんだけど……」

「うん、夜だからねえ……あっ!? み、みないよ!? みないから大丈夫! あっち向いてるから着替えていいよ!」

「……………………」

 そう言われても、異性の同級生がすぐ近くにいる中でパンツ下ろすのは勇気いるんですけどね、あなたと違って……。

 内心で呟きながら、それでも水無月になるべく見えないよう、隅の方で後ろを向いて、ええいままよ、とズボンを下着ごと脱ぐ。そしてすばやく水着を穿いた。去年買って一度しか使用しなかったハーフパンツタイプの海水水着。1年でも体は確実に成長していて、なんだか少し大きめの短パンみたいになってしまっているけれど、この暗闇ならまあ、そんなに気にしなくても大丈夫だろう。

「……もう着替えたよ」

 水に身体を半分以上沈めながら、こちらに背を向けて両手で目を抑えて、ひとりいないいないばあをしている水無月に声をかける。

「わっ……う、うん、じゃあ佐々木くんも入るといいよ。つ、冷たくて気持ちがいいよ」

 と、ちら、とぼくを見てすぐに恥ずかしそうに目を伏せた水無月は、揺れる水面をべちべちと叩くのだった。

 ……異性の同級生と泳ぐのは久しぶりだ。このことに恥ずかしがるべきなのか、特に何も意識しないのか、どちらが普通の取るべき正しい反応なのかが判断つかない。中学校に上がってからは体育の授業が性別で別れ、夏なんて片方がプールで泳ぐというなら、もう片方はプールから遠く離れた体育館でバスケット、などと学校側から絶対に貴様ら生徒の目に、異性の肉体という精神を惑わすものは入れさせない、という強い意志を感じたものだ。

 だから……。

「……………………」

「……な、なにかな」

「いや、女子の水着姿ってはじめてみたからなんかこう、新鮮というか。そんな形してたんだなぁって」

 水無月が来ているのは学校指定のスクール水着だった。紺色でワンピース型の、特に変哲のないものである。胸元にゼッケンが着けられていて「3-3 みなづき」とでっかく書かれているとか、そういうことはない。

「あ、こ、これ? い、一応ちゃんとした水着も持ってるんだよ? で、でもなんかここでそういう着るとさ、そ、その、なんか気合入れてるというか、狙っているというか、なんかそう、思われたら嫌じゃん。し、下心ありませんよ! っていう現れ……」

「そんな宣言しないといけないのか……」

 そうなるとぼくはあの学校指定のビキニ型を穿かなきゃいけなくなるじゃないか。あんなのプライベートじゃ絶対愛用しないぞ。

 軽く足先を水面につける。予想していたよりも冷たい。でもプールに入るときって大体こんなものだと思う──はいってしまえばすぐ慣れてしまう。少し体を緊張させて、水中に身体を滑り込ませた。どぷんと小さな波が立って──水無月の元に届く。

 プールは予想以上に浅かった。

 身長の低い水無月の肩が水面から出てしまうくらいなんだから当然といえば当然なんだけど、これはちょっと浅すぎでは……これじゃあ泳ぐというよりもただ浸かるだけになりそうだった。

 ただ全体的なサイズが小学生と変わらない中学三年生にとってはちょうどいいようで、先ほどから上を向いたり下を向いたり、縦横無尽に大小の波を発生させているのだった。

「なんかさー、水無月って慣れてるよね、こういうこと」

 水面から顔だけだし、ざぶざぶと、ともすればすぐに底についてしまいそうな足を動かしながらカエルの様に暗い水面を進みつつ、ぼくは水無月に声をかけた。

「んー? こういうことってどういうことー?」

少し距離が離れていたので、ぼくの声も届きづらかったのだろう。水無月の返事は静かな夜にやけに大きな声で響いたのだった。ぼくは慌てて彼女に近寄る。

「ちょ、声大きいから! 誰かに見つかったらどうするのさ!? ぼくは指導室行きとか嫌だからね!?」

「大丈夫だと思うけど……お兄ちゃんがね、よく夏の夜にここに泳ぎに来てたんだけど、怒られたとかそういう話は聞かなかったし」

「……そなの? いや、でも水無月の兄ちゃんが見つからなかったといってぼくらも無事でいられるとは限らないから、少しは警戒して。補導なんてことになったら進学に響くしさ」

「はあい、わかりましたー。もう、佐々木くんってば小心者なんだから」

 まったくわかってないように、楽しげに返事をする水無月だった。

「……本当に、ぼくは水無月のこと勘違いしていたんだなぁって思うよ」

 しみじみと呟くと、水無月は大きな瞳を輝かせてぼくの顔をのぞきこんできた。

「えっ、なになに? どういうことどういうこと?」

 視線から逃れるように──身を寄せてきた水着姿の同級生から離れるように、体を逸らしながらぼくは答える。

「もっとこう──水無月って大人しい子だと思ってた。大人しいっていうか、真面目っていうか──こんな風に、夜のプールに忍び込むような大胆なやつだなんて思ってもなかった」

「えー、私は大人しいし真面目だよ?」

 心外だと言いたげに、唇をとがらせて、抗議の声を上げてくる水無月だった。

「一体どこが大人しくて真面目だよ。こんなに堂々と不法侵入して泳いでてさ、説得力なんて皆無じゃないか」

「説得力なんて……わかってくれないかなあ。今だって私……すっごいどきどきしてるよ?」

 そういって、水無月ははにかみながら薄い布一枚纏った胸に手を当てた。

「男の子とさ、夜のプールに入り込んで二人っきりなんて……どきどきしないはず、ないよ」

「……水無月ってほんと、異常性癖持ちだよね」

 それだけ呟いてぼくは水無月に背を向けた。なにやら抗議の声と共に水しぶきが後頭部にかかるけれど、気にせずプールサイドへ向かう。そうして後頭部をプールの縁にひっかけて、体は仰向けにして水面に浮かぶようにした。

 視界には真っ黒な空と、浮かぶ星々、そして半月しかない。水無月の立てる不規則な波が身体を揺らして、心地よかった。もしどこか大海原で乗っていた船が難破し、荒れ狂う海に放り出されて──やがて嵐が去った時、ぽつんとひとり取り残されたら。こんな感じなのかもしれない。ぼんやりとただ空を見上げて、光る星を数える。話し相手は月のみ。それは案外悪くないのかもしれないと思った。恐怖はなく、力尽きる最後の時まで、こうやって浮かぶんだと──

「──えりゃ!!」

 ……ただ海には、サメとか巨大なタコとかピラニアとか、暗闇から襲い掛かってくる生き物がいることに失念していたのだった。

 足を引っ張られて水中へと引きずりこまれたぼくは、だばだばと髪の毛やら鼻の穴やらから水を垂らしながら、プールに潜む猛獣に抗議の声を上げた。

「あのねえ! 浸ってる人になんてことするんだよ!」

「えっ、ご、ごめん……浸ってたの? プールだけに?」

「つまんないよ!」

 ええい、と水無月が仲のいい男の友達だったら、と思う。たとえば同じように足を掴み返して水底に沈めるのもいいだろう。怒りに任せて頭を上から思い切り押さえつけて溺死させるのもいいかもしれない。いや、一度プールからあがって、助走をつけて勢いよく飛び蹴りをするのこそ最適解ではなかろうか……。

 ──でも。

 ぼくの前で、笑いながら華奢な肩を水面から覗かせている水無月は、まぎれもなく女の子なのだった。水中には確かに、ぼくみたいな男と違う、柔らかな体があって、それに触れることは、夜間のプールに忍び込むとかそんなレベルじゃなく──禁忌に近いものなんだ。

 楽しくない! 女子とプールに来たって、楽しいことなんて全然ない!

ぼくは、怒りを込めて、大きくばしゃりと波立たせた。怒りの津波は水無月の顔面にぶち当たり、あとはただ──幾度となく飛んでくる水しぶきを、ぼくは目を瞑って甘んじて受け入れるしかなかった。


「つかれた」

 肉体的にじゃない、精神的に。

 相手に触れることなく水中でただ水だけを使い、攻撃しなければならないっていうのがこれほどまでにストレスがかかることだとは知る由もなかった。腹立たしいのは相手にはその縛りがまったくないことなのだ。なにが「えーいっ」だ抱きつくみたいにぼくを沈めようとしてきやがってわかってるのかぼく男子中学生だぞ性に一番敏感な年頃の男の子だぞだいたいお前ぼくに裸見られて写真撮られてるんだからもうちょっと気を付けるとかそういうのあってもいいんじゃないですかね──

「──ん? なあに?」

 ぼくを二度と女子とプールになんていかないと決意させてくれたクラスメイトは、呑気にポカリを飲んでいた。ぼくが持ってきたものだ。空を飛ぶときにはできる限り重いものは持ちたくないらしい。ええい忌々しい。

 せめて相手にぼくのどろどろと渦巻く感情が伝わればいいと、盛大にため息をついて、ぼくはプールの縁に腰掛けた。ふくらはぎまで浸かる水が冷たくて心地よい。

「なんか久しぶりに遊んだ気がするよー」水無月もぺちぺちと足音を立ててぼくの横に並ぶと、同じように水面にその短い足をひたすのだった。「ここ最近は本当に部活ばっかりだったからねえ」

 ここ最近は。中学に上がってから。

 三年間という最近。

「そうだね……プールに行こうとか、そんなことを考えたこともなかったや」中学校の夏休みの思い出は、ただただ炎天下の下でボールを打ち続けていた記憶しかない。「水無月って……なんでソフトボール部なの?」

「え、なにその根本から問うみたいな質問……」

「正直ぜんっぜん似合わないって思うから、なんでなのかなぁって前から思ってた」

「は、はっきり言ってくれるなあ……」

 ショックを受けたように頭をのけぞらせる水無月だったが、すぐに小さく笑みを浮かべるのだった

「……うん、知ってるよ。自分でも似合わないってわかってる」ばしゃり、と青白く光る水無月の足が、小さな波をたてる。「最初はね、きーちゃんに誘われたんだよね、一緒に入らないかって──あ、堀田喜美ちゃん。わかるよね? 同じクラスだったもんね。……ほんとに覚えてる? 怪しいなあ。……特にやりたい部活とかなかったから、仮入部だったしいいかなーって軽い気持ちで。そうしたらさ、もうね、びっくりするくらい面白くなかったの」

 笑いながら、水無月は右手を見つめた。小さな、ソフトボールを掴むにはあまりに小さな手を。

「絶対やめよう、他のところにしよう、少なくとも運動部はやめよう──そう思ったんだけどね、先輩たち……元気にしてるかなあ、先輩たちがね、悲しそうな顔したの。ちがうなあ、悟った顔っていうのかなあ。……ソフトボール部ってさ、人気ないから、人を集めるのもちょっと大変なんだよね。人数足りなかったら、そもそも試合できなくなっちゃうし。だから割と新入生勧誘には必死なんだけど……や、やめて新歓の話はしないで。私はあれ反対したんだから! ……それくらい、新入生って大切なはずなのに。なのにね、諦めたの、私を入部に引き込むことを。この子はソフトボール部に入ってもいいことないだろうなって。

 ……だから私は、入部してやったんだ」

 私のことをあなたたちが決めないでください──

 そんな小さな決意の声が聞こえた気がした。

「もうね、入ってからは後悔続きだったんだけどね。しばらく自分の決断を呪ったものだよ。暑いし、辛いし、苦しいし、上手にできないし、上手にならないし」

 それでも3年間、小さな体で、自分でも、他人でも、向いていないとわかっていても。

「……結果は、地区予選一回戦敗退だったけどね」

 そう言って笑う水無月の顔はきっと、彼女の事を間違えた先輩たちと、同じものだと思ったから。

 だからぼくは言った。

「──見てたよ」

「……え?」

「オリ室から、見てたよ」

 炎天下の中、ただ一生懸命に、グラウンドの上にあがることも、マウントに立つこともなかったけれど。幼いとしか言えない声を、枯れるほどに上げて。

「……がんばったね」

 お世辞でも、慰めでもなんでもなく、心の底からそう思った。

「……そっか。見られちゃってたのか。……そっかあ……」

 揺れる水面に、ぽつん、と小さな雫が零れた。ひとつ、ふたつ、波紋になって暗闇を進んでいき、また穏やかな静寂に戻る。

 思い出したのはぼくのパートナーだった。試合を決める最後の場面、彼渾身の、コートに入ることなかったスマッシュ──

 試合後、彼は泣いていた。悔しかったから?最後に失敗してしまった事が。悲しかったから? 中学3年の部活動が終わってしまったから。それともほかにあったのかもしれない。

 ただぼくはそれを眺めていた──声をかけることもできなかった。

「……昼間、ベスト16って言ったでしょ?」ぼくは揺れる水辺の感触を足で楽しみながら、呟いた。「あれ、3回戦敗退を良く言っただけなんだよね。本当は1回しか勝ってない」

 1回戦はシードだったから、2試合しかしていないことになる。時間にすれば本当に短い夏だった。

「……そうなの?」

「うん、ちょっと格好つけた。見栄張っちゃった」

 笑いながら空を見上げる。半分しかない月。半分もある月。

「去年移動した増野先生覚えてるよね──テニス部の顧問だったんだけど。言われたんだよね。お前は肝心な時に弱気になるから、メンタルを強くしておけって。うん……図星だったんだよ。ぼくは本当に小心者でさ、ミスが怖くて、失敗が怖くて、大事な時にいつも逃げちゃうんだ」

 試合の最後、チャンスボールが上がって、ラケットを振りかぶったときに思った。

 これで失敗したらどうしよう、と。

 だからぼくは思い切り打てなかった。試合を決めたのはぼくの打ったボールじゃなかった。たった1球が勝負を決めたわけじゃない。それはわかってる。

 それでも。

「パートナーの彼がスマッシュをミスってさ、アウトになってさ──ぼくに謝ったんだ。ごめん、って。悪いのは彼じゃなくて、ぼくなのに」

 こう思ってしまったんだ──ああよかった、試合を決めたのが、ぼくのミスじゃなくてよかった、って。

 だってもしあのスマッシュが決まっていたら試合に勝っていたかもしれないじゃないか。そのあとも勝ち続けて県大会関東大会と進めていたかもしれないじゃないか──

「我ながら最低だと思うよ──本当。自分のクズっぷりに嫌気がさすよ。やってられない、最悪だ。みんな泣いててさ──男泣きだよ男泣き。なんだよお前ら、そんなキャラじゃないじゃんって。でもさ、ぼくは泣けないんだ、ぼくだけ泣けなかったんだ。一人だけ、取り残されてて──」

 まだ、あの暑い太陽の下で、最後の一球を待っている気がするんだ。


「──ふふっ」

 小さく、笑い声が聞こえた。隣で、ショートカットの小さな女の子がくすくすと楽しそうに笑っていた。

「佐々木くんはなにを言ってるのかな。佐々木くんが最低のクズだなんて、とっくにわかってることじゃない」

「……そうかなあ」

「そうだよお、私は忘れてないよ? 君があの時私にやったこと、言った事……ちゃあんと覚えているんだから」

「…………………」

 いたずらっこの子供のようで、どこか大人びた笑顔を浮かべる水無月に、ぼくはなにも言えなかった。

「……うーん!」

 唐突に、水無月は立ち上がって、大きく一度伸びをする。そのまま上に伸びた手を空に広げて、まるで満天の星空を抱きしめるようにする。

「……ねえ、佐々木くん」

「うん?」

「今でも……気持ちは変わらない?」

「……うん」

 何が、なんて聞く必要はない。今でもずうっと想っている。君を見つけたあの時から。

「……そっかあ」

 水無月はうなずいて──ぺたぺたとペンギンみたいな足音を立てて、ぼくの後ろへと移動した。

「? なに──」

「──みないでっ!」鋭い静止の声があがって、ぼくの身体がぴたりと動きをとめる。「絶対、ゼッタイだよ、振り向いちゃだめだからね」

「え、だから何を──」

「振り向いたら今度こそ殺すから」

「……………………」

 そこまで言われて振り向けるやつはいないと思う。春の古傷が疼き始めた気がする。左手にできた跡はもう死ぬまで消えそうにない……。

 水無月が何をしようとしているのかまったくわからないので、ぼくはただ耳に伝わってくる音で判断するしかない。風はほとんどない、ただほのかに揺れる水面がプールの縁にぶつかってぽちゃりぽちゃりと小さく音を立てる。リーリーと聞こえてくるこの鳴き声を上げている虫はどんな姿をしているのだろう。きっとゴキブリの親戚みたいな造形をしているに違いない……。

「……はぁ……」

 後ろから、小さい吐息が聞こえる。

 それからなにか、水無月だろう。ぼくと水無月しかこの場にいないから。例えづらい。なんといったらいいのかわからない。水無月が何か身体を揺らしているのはわかる。小さな足音、滴る水の音、それからなにか、たとえるなら。

 水気を吸った特殊な布地を、脱ごうとしているような音。

「みみみみ水無月さんっ!?」

「だめっ!!!!」

 ぼくの動揺すら停止させる大音量の声は、夜の静かなプールに響き渡って、水面すらも揺らしたように思えた。

「だめだからっ……ぜ、ぜったいに、ふりむいたら、だめだから。そ、そのままでいて」

 ごくり──と意識せず自分ののどが唾を通過させるのがわかる。

 体が死んだみたいに硬直して呼吸するのもままならない。

「……よ、よし、うん、そ、そのままね……ま、前だけ向いててね……」

 後ろの気配が、ぼくにゆっくりと近づいてくるのがわかる。

 1歩──2歩──恐れるように、怯えるように、恥じらうように、それでもだんだんと。

「……じっと、しててね……」

 その声は、驚くほど近くで聞こえた。まるで耳元で囁かれたかと思った。思わず振り返りそうになる。でもできない。できるはずがない。

 緊張した体に、そっと、冷たいなにかが触れた。びくう!と体が跳ねる。

 水無月の小さな両手だった。

 後ろから、ぼくの腕と胸の間に、両脇に腕を挟むように入れてくる。そのまま、力こぶを作るように腕を引き寄せて──ぼくの背中に、外気にさらされひんやりと冷たくて、でも不思議なくらい暖かくて、溶けてしまうほど柔らかいなにかが触れるのがわかった。

 今度こそ完全に、びしり、とぼくの身体は石化する。

「……んっ………」

 耳元に吐息がかかるのがわかる。震えているのがわかる。

 抱きしめるというよりも、押さえつけるというような、でもぴったりと、ぼくの背中に、体温がはっきりとわかってしまうほど張り付いた水無月は。

「……よ、よし、いくよ。じゅ、準備はいいかな」

 と呟いて。

 え? と思う間もなく、ぼくの身体がふんわりと、

 ──ふんわりと、浮かんだような気がした。


 ──瞬間、

 どぼん! と盛大な音を立てて。

 ぼくの身体は真っ黒な水面へと落とされた。


「……ご、ごめんね、や、やっぱり重かったよ……」

 ぼくと同じくプールに飛び込んだ水無月は大慌てで水面から上がり、体にタオルを巻きつけた後、謝罪の言葉を発したのだった。

 ぼくはただ──真っ暗な水の中で呆然と立ちすくむだけである。髪の毛からぼたぼたと水滴が落ちて、水面に幾度となく輪を作った。

「あ、あのね、で、できるかなって思ったんだよ。少しくらいならって。落ちてもプールあるし怪我しないかなって! 私の判断は間違ってなかったね! よ、よかったよかった……」

「………………」

「も、もうちょっと佐々木くんは痩せないといけないかもね。体重何キロなのかな。……あっ、言いたくないかそっかそうだよね私だって体重は誰にも教えないかな。佐々木くんって何気に筋肉質だよね、さ、さっき触ってちょっとびっくりしちゃった。人は見かけによらないんだねえ」

「……………………」

「わ、私も佐々木くんを見習ってもうちょっと筋肉をつけなきゃいけないね! そうしたら──そうしたらきっと、佐々木くんを、空に、連れていってあげれるから。お互いにがんばったらさ、きっと──きっとね? ……あ、あの、佐々木くん? そろそろ返事がもらえないと私──」

 水無月は芸が失敗してしまった犬みたいだった。困った顔で、それでもご褒美を待っているみたいな。ぼくはそれが余計に面白くて。

 だから、笑った。

 大声で。

 ここが不法侵入した夜のプールだなんて気にしなくて。

 ただただおかしくて仕方がなかった。

「え──さ、佐々木くん、泣いてるの……?」

 ううん、違うよ、これは面白くて泣いているんだ。

 どうしようもなくおかしくて、笑えて仕方がなくて。

 だから。

 ひとしきり笑った後で。

「水無月……や、水無月さん。

 ──ありがとう」

 ぼくはお礼を言った。

「えっ? な、なんで? 私なんにもできなかった──」

「ううん……おっぱいとか、押し付けてくれた。すごい、どきどきした」

 そう言うと、水無月はこの夜の闇でもはっきりとわかるほど顔を紅潮させて、

「ばかっ! ばかばかっ! もうぜったいやってあげないから! ばかばかばかっ!」

 と、ばしゃばしゃと水をかけてくるのだった。

 片手は体からタオルが解かないようにしているものだから、ぼくにかかる水は弱々しい──抵抗もせず受け止めて、ぼくは空を見上げた。一面に広がる星空。手を伸ばしたって届かない。誰にもたどり着けない場所──彼女を除いては。

「ぜったい! ぜったい後悔するんだからね!? 謝っても許してあげないから!」

「うん、ごめんね」

「だからっ! 謝ってもだめだってばっ!」

「うん──そろそろ帰ろうよ、だいぶ遅い時間になっちゃった」

 部活は終わり。これから受験が始まる。そして受験が終わっても。休みなんて、ないのかもしれない。

 でもそれでも、今この瞬間が。

「もうっ! もうもうっ!」

「なにそれ、牛?」

 永遠に続いてくれたらいいのに。

 そんなことを思った。

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