1、春の嵐よりは
桜が散り、穏やかな日差しに木々が緑に色めき立つ、すがすがしい5月の朝。
登校するとぼくは強姦魔になっていた。
「おまえぇっ! おまえってやつはよぉ!? 見そこなったよちくしょう!」
「きゃー! いやー! こないでー! 殺さっ、犯されるー!」
「ひっく……えぐっ……信じて、たのにっ……初めてだったのに……!」
「大丈夫? 薬はちゃんと飲んだ? 先生は!? 先生はまだなの!? 男子ー! あいつを捕まえてぇー!」
幼児の心臓を喰らうため23人もの幼き生命を虐殺してきたぼくは、世界を混沌に陥れるべく悪魔を呼び出さんと、儀式に必要なうら若き処女の血を手に入れるため、しいては己の思春期の欲望を解放せんがため、ついに同級生の斎藤さんに襲い掛かったのだ。
おのれど外道め、悪は滅びねばならぬ! 正義の勇者となったクラスメイトの男子一同は聖剣エクスカリバー(さすまた)を駆使し、真に邪悪な魔女共の声援(あやつるの呪文)をうけ、14対1という圧倒的な物量をもってして、魔王であるぼくに襲い掛かる。
「ちょ、み、みんな騙されてるよ! ぼくはなにもしてない……っていうか普通信じないよね!? ふざけてるの!? ふざけてるだけだよね!? っていうかなんで斎藤さん泣いてんのぼくは君が一番怖い!」
哀れな冤罪人の抗議の声は誰にも届くことなく、暴動は更にエスカレート。罪人が聖骸布(夏用の遮光カーテン)にぐるぐる巻きにされて、教室の後ろに設置してある聖なる棺(掃除用具入れ)に封印されそうになったところで、担任の高橋先生が召喚、害悪魔術の時代は終わったと宣言(はーい出席とるぞー席につけー)、魔女狩りを鎮静化させたのだった。
「これは普通にいじめって呼ばれる行為じゃないんだろうか……」
ぶつぶつと呟きながら、誰も手を貸してくれないので自力で封印から脱出する。カーテンは適当に丸めて掃除用具入れに突っ込んでおいた。床に放り出された鞄を悲しい気持ちで回収しつつ、点呼に備えるためクラスメイトと同じように自分の席へと向かう──横目で、とある人物の様子を確認しながら。
窓側の列後ろから2番目。先ほどの騒動の間、ただ一人真面目な生徒よろしく、ちょこんと自分の席についていて、ただびっしりと汗を流しながら俯いていたやつ。今も机の模様に目を落としていて、まるで、私はこの模様の哲学的意味を考えるのに忙しいんです絶対に話しかけないでください、と言わんばかりに身動ぎ一つしていない。ぼくが観察していることなんて、気付くこともないように──そんなはずないのに。
ぼくの席は廊下側1番前。世界が反転でもしてくれない限り、普通に生活していたらそいつの様子を窺い知ることはできない。でも逆に、そいつからはぼくのことがよく見えるだろう。教室の対角に位置しているのに、なんたる不公平。現にぼくの視界からそいつが消えたとたん、はっきりと感じ取った。見られている。
思わず振り向きたくなる本能に抗いつつ、ぎくしゃくと自分の席に着く。高橋先生が生徒の名前を読み上げる中、鞄を机のフックにひっかけて、中身を机の中にしまい込む──と。
「──佐々木ー、
「……はぁい!」
おざなりに返事をして、それが何かを確認する。
からっぽなはずの机の中に、一枚の紙きれが入っていた。
「……なにそれ、ラブレター?」
隣の真辺がそっと聞いてくる。
「……どこをどう見たらこれがラブレターに見えるのさ」
それは、女子が授業中に先生の目を盗んで回している手紙のような、キャラクターの描かれた色鮮やかなメモ帳とかそういうものではなく、まるで、床に捨てられて埃と生徒の足跡でぐしゃぐちゃになった、ゴミ箱に捨てられる直前のプリントの一部分を破り取ったかのような、あまりにぞんざいで汚いものだった。
身を寄せて覗いてこようとする真辺から逃れつつ、折り畳まれた紙片を開く。
──紙きれには赤字でこう書かれていた。
『放課後、オリ室で待ってます。来なかったらもっとひどい目に合います。誰かに言ってはいけません。もし言えば…………』
なにこの
高橋先生の点呼はまだ続いている。
「真辺―─真辺琴──」
やがて一人の名前が呼ばれるのだ。
「水無月──
「……はい」
ぼくはいよいよ振り返り、今小さく返事をしたクラスメイトを見つめた。教室でぼくとはほぼ対角線に位置している、窓側後ろから2番目に座っている女の子。
はっきりと目があって。
水無月つかさがじいっとこちらを睨み続けていたなんてことは、説明するまでもないのだった。
ぼくの住む街は都会などとは絶対に言えない、でも田舎であるとは認めたくない、中途半端に発達して、それでも街の中心である駅から離れれば離れるほど、建物はなくなって田畑だらけになるような、日本全国どこにでもある特徴のないところだ。三方向を山で囲まれ、そこから逃げるように流れ広がっていく川はやがて都会へと繋がり、清らかな水と共に街の若者を少しずつ人の溢れる繁華街へと運んでいる。勿論故郷へと戻り定住する人もいるけれど、それでも衰えていく街を止めることはできない。チカチカと点灯したまま何日も交換されない電灯を見ながら、ぼくは小さくため息をついた。
ただ昨夜は満月が輝いていて、空に浮かぶ雲がくすぐるように月を覆い隠しては消えるものだから、逆に月影がはっきりと街中を照らしていたのだった。街の中心部から離れたぼくの家の周辺ですら懐中電灯を携帯する必要はなく、散歩をするには最適の夜といえ、街灯が多少さぼったところで誰も不便には思わないだろう……そもそも、田舎道にぽつぽつと置かれている明かりを頼りにしている人などいない。
淡い光を反射した凹凸のない新品同様の道を不規則な歩幅で歩く。田圃を繋ぐトラクターを移動させるためだけに作られたような狭い砂利道が整備されて、2車線に朝夕少数の小中学生しか使用しない歩道をくっ付けた、無駄に広い道路になったのは数年前だった。今では街の至る所で同じような工事が行われていて、まるで広い道路が出来ればその分車が通り街が栄えていくんだ、と言わんばかりだったけれど、実際のところはこの通り、夜中なんてぼく専用の散歩コースである。
桃色の花びらが散り、夏へと向かおうとする最中。家を出てくるときは半袖だと少し肌寒さを感じたけれど、歩けば身体も温まるもので、汗が少しずつにじみでてくるのを感じる。当初の予定通り、寄合場へと足を向けた。
周りを田圃に囲まれた、ぽつんと立つ無人の古い家。平屋で、さして奥行きもない。ちょっと前まで昼間は近くに住むお年寄りの社交場になっていたけれど、柿原おばあちゃんが亡くなってからそれもあまり行われなくなったらしい。ただここには自動販売機という文明の利器が置かれていて、しかもいまだに100円である。自宅から徒歩10分という距離だけど散歩がてらと考えたらまぁいいかな、という気分にはなる。ポケットに忍ばせた硬貨でお得用サイズのコーラを買い、そばのベンチに座り込んだ。
手に持ったスマホを確認すると、時間は21時を回っていた。中学生が補導されるのは22時からだったっけ……でもこんなところにまで見回りに来るような警察官は、我が街には存在しないのでどうでもいい決まりではある。
ぼんやりと月を見上げた。薄い雲がちょうど満月を覆い隠していて、少しだけ街が暗くなっている。静かに吹く風が火照った体を冷やして気持ちがいい。油断すると風邪をひいてしまうかもしれないけれど、ぼくは割とばかなので体調を崩すことは少ない。さらさらと草花の揺れる音が耳に心地よくて、ぼくは少し目を閉じようとして──
青白く光る満月。薄くかかる雲。
それに重なるように浮かぶ人影に、ぼくは気づいた。
えっ、とベンチから立ち上がって目を凝らす。
最初は月の模様かなにかだと思った。ウサギだったりカニだったり女性の横顔だったりなんでもありの月の海だから、どこかの模様が人の形に見えたのだと。
でも注視すると、それが違うとわかる。その影は、月と、雲と、それよりも手前にいて──ぼんやりと月影に照らされていた。
風が揺れ、雲が薄れるにつれて、それがなにかわかる。
それは、宙に浮かぶ、一糸纏わぬ女の子の姿だった。
地上から──何メートルの高さにいるんだろう? 100メートルはない……?
わからない、距離感がつかめない。
ただ一つはっきりと、夢じゃないとわかる。彼女は、生身の人が辿り着くことができない──ぼくには手の届かない──空に浮かんでいる!
月の柔らかな光が、彼女の輪郭を浮かび上がらせる。
ふんわりと流れる短めの髪、ほっそりとした手足。少し丸みをおびた小さめの身体、どこか直線的で凹凸のない寸胴体系。女の子だよ私は、と主張するようにお尻が少しぽこ、と影を膨らませている。
……なんだか神秘的な光景のわりにあれっ、てなる感じだ。いやなんだろう。文句があるわけじゃないんだけれど、何か違うというよりも、もうちょっと何かがあってほしいというか……。
女の子はぼくに気付いてないんだろう。こちらに背を向けて、月のほうを見つめている。だからぼくには彼女の後ろ姿しかみえない。というかぼくはおしりしか見ない。なるほど桃だなぁと思った。ぼくは上半身と下半身どちらを選ぶと聞かれたら即答して上半身と答えていたけれど、ちょっと一考の余地はあるのかもしれない。でもとりあえず前を見てから判断しないといけないと思う。こっち、こっち向いて! と念じるけれど、女の子は月の光に魅了されているのかぼくの想いに気付いてくれない。気持ちはわかる。ぼくももっと見ていたい。桃を。
だからぼくは、
そっとスマホのカメラを起動して、空に掲げた。
輝く満月と、揺らぐ雲と、裸の女の子の後ろ姿──なんてきれいなんだろう。彼女の背中に、白い羽が生えていないことが不思議なくらいだった。羽が無くても、ぼくは彼女が天使だって思える。この世のものとは思えない、神秘的で、幻想的で──
えろい光景なんだ。
ぼよよん、と。
スマートフォンが、写真を撮ったよぉ、と知らせてくれる間の抜けたシャッター音を立てて。
女の子が、こちらを振り向いた。
『──あ』
その振り向いた顔が、よく見知ったものだったから、ぼくはぽかんと驚きに口をあけるしかなかった。
空に浮かぶ少女も、あんぐりと、ぼくの顔を見つめてくる──
「……み、水無月さん?」
水無月つかさ。
3年1組のクラスメイト。
頭の中に「?」マークが沸騰したお湯のようにぽこぽこと生まれ、脳をパンパンにしたところで、水無月つかさという女の子の情報がそれを濁流の勢いで流していき、あとにはお尻しか残らなかった。
──そこで。
空気を読んだんだと思う。
満月にかかっていた雲が「おっとお邪魔しちゃったね! じゃあの、あとは若いもん二人で仲良くやりな!」と言わんばかりに完全に霧散して。
彼女の姿を、眩しいばかりの月明かりの元に晒したのだった。
──青白い光に包まれた女の子の身体は、とても同じ教室で授業を一緒に受けていたクラスメイトのものとは思えなかった。
絹のように煌めく髪、ちょっと力を入れたら崩れてしまいそうな華奢な肩、小ぶりだけど確実に膨らんだ胸と、その先端のつんと尖った乳首、ちょこんとついたおへそと、そしてその下のまだ何も生えていない……まだ何も生えていない! 恥部は、ぼくの脳へ一瞬で入り込み、記憶回路を侵食してすべてのフォルダを上書き保存、クラウドデータ含め修正不可に完全ロック、未来永劫忘れてはならぬ物として網膜に焼き付いた。
……見つめ合っていたのはそんなに長い時間じゃないと思う。先に我に返ったのはぼくで、とりあえずやるべきことは一つしかなかった。
ぼよよん、とスマホがシャッターを切る音をたてる。
『……………………』
よし。
ちゃんと撮れているか確認しようとぼくが彼女から目線をそらすと。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
──絶叫が。
平和で静かで美しい夜が奏でる静寂を爆撃するような悲鳴が響いて、驚いたぼくが視線を戻した先にはもう彼女の姿はなかった。声の主は異世界の言語をまき散らしながら遠くの空へと飛んで行ったのだった。
飛んで行ったのだ。
ぼくは今度こそ呆然と、彼女が消えていった月夜の空を、ずうっと眺め続けていた。
はたして水無月つかさの呼び出しの意図はなんなのか。
実は真辺の言う通り、ぼくに恋した何か色々と大切なものが足りないおかしな女の子からの愛を伝えるためのメッセージの可能性も無きにしも非ずだけど、今日一日水無月から浴びせられ続けた研ぎたての包丁のような視線からしてそれは絶対にないと言えてしまうのが悲しい。いやまてよ、おっちょこちょいなどこかの誰かが、手紙を忍ばせるべき机を間違えてしまったのでは。そうなるとこの扉を開けた場合まったく関係のない人物たちの物語に介入してしまうわけで、ぼくにとっても相手方にとっても大変不本意であろう。ならぼくはこのまま回れ右して部活に参加するなり今日は帰宅の路へとつくのもよいのではなかろうか……。
と、くだらない思考をしながら、ぼくは目の前の扉を開けずにいるのだった。
放課後。決戦の場、オリエンテーション教室──通称オリ室の前にて。
校舎4階最奥に位置する、ほとんど使われていない教室だった。そもそも4階自体使用されている教室が少ない。生徒の人口減少によるクラス編成の結果によるもので、ある場所はただの物置小屋だったり、人気のない部活動の部室だったりと、普通に学校生活を送る上ではまったく関わることのない場所である。
小さく聞こえてくるのは部活動に勤しむ生徒の上げる活力に満ちた声──ただこの場所はそういったものとはまるで無縁になってしまっていて、どこか物悲しさを感じてしまう。ぽえー、と響いてくる管楽器の音も、寂しさを増長させていた……先ほど階段を上ってきた吹奏楽部員のもので、彼女達は扉の前に佇むぼくに訝しげな顔を向けながら、オリ室の隣の教室へと入っていった。
「……よし」
いつまでもこうしているわけにもいかない。意を決して、扉に手をかける。そういえば鍵とかはかかっていないのだろうか──なとど、そんな心配は杞憂に終わり、扉はあっさりと開いた。
オリ室は極めて普通の、特になんの変哲もない教室だった。何も書かれていない黒板に、夕方の柔らかな日のさす窓に、何も置かれていないロッカー……ただ少し違うのは、通常ぼくらの使う様な勉強机は置かれておらず、長机がまれに行われる部活動会議のために、横線の長い口の字を描くように設置されていた。
その窓際に面した長い線の上に、水無月つかさは横たわっていた。
「………………」
たぶん水無月つかさであっていると思う。
決して長机からははみ出てはいけない、そんな決意を感じさせるかのように、うつぶせの姿勢で両手は脇にしっかりと揃え、スカートの裾ははみ出ないようにと、ぎゅっと両手に握りしめられている。なんだろうこれは……どこかで見たことあるなぁと思ったら、ああなるほど、地面を滑り出荷されるマグロだった。あるいは潜水艦から発射されるしょぼいCGの魚雷とか。
扉の向こうに一体何が待ち構えているのかと、いくつか予想をたててはいたけれど(扉を開けたとたんバッドで殴られるとか、複数の女子が襲い掛かってくるとか)、これはちょっと予想外ではある。
「……扉」ぼそり、と水無月がつぶやいた。うつぶせのままだから、その声はくぐもっていて聞きとりづらい。「扉、しめて」
そら寒いもの感じつつ、言われたとおりに扉を閉める。
閉めてから、あれ? ひょっとしてぼくはいま選択を間違えたのでは……と冷や汗が背中を流れた。外界とオリ室を繋ぐ扉は閉ざされて、密室が完成されたわけだ。密室の中には日がな一日視線で呪いを発動させようとしてきた水無月つかさと、その呪いの対象者しかいないわけである。
とりあえず背中に出入口を確保しておいて、手紙の差出人の次の行動を待つことにした。
「………………」
「……………………」
「…………………………」
「………………………………あ、あの、水無月さん?」このままでは時計がくるくると回りぼくらだけこの時空から取り残されてしまいそうだったので、こちらから声をかける。「て、手紙を読んだんだけど、な、何か用なのかな。用がないなら──というか、この手紙──」
ぼくはポケットから薄汚い紙切れを取り出す。
「この手紙は水無月さんが、ぼく宛てに出したってことでいいのかな。ちょっとよくわからないことが書いてあったんだけど──」
「──うそつき」
そこで水無月ははじめて顔をあげた。うつぶせで直立姿勢のままだったけれど、顔だけこちらに向けて、きっとぼくを睨んでくる。
「わかってる、くせにっ」
その目は、少し滲んでいた。
力強い表情は一瞬だった。吊り上がっていた眉はみるみる垂れ下がり、今日はもう力を使い果たしましたよ、と言いたげに、眉毛と共に水無月は顔をまた机へと突っ伏してしまうのだった。
「──見たの?」
水無月は震える声で訊ねてくる。
「な、なにが?」
「──見たんだよね?」
「…………うん………」
「しゃ……写真、撮ったんだよね……?」
「………………………………うん」
ゴン、とまるで机に額でもぶつけたような音がして、その通り、水無月はゴンゴンとおでこを長机と対戦させ、ぐりぐりと額を罪もない木目にこすりつけながら、うーうーと呻くのだった。怖い。
「あ、あの、水無月さん……だ、大丈夫?」
さすがに机が壊れることはないだろうけど、呑気に見物しているわけにもいかないので、クラスメイトの奇行を止めに入ろうと入口から離れて彼女に近づく。窓からはグラウンドが一望できて、普段よりも高い──ああここは4階だったか。野球部と──水無月の所属しているソフトボール部の姿が見える。本来あそこで練習に勤しむべき部員は今、この使われていない教室で、制服姿のまま悶えている。
「──誰かに」ぼくがあと少し手を伸ばしたら彼女に触れられるくらい、その距離に近づいたところで、水無月は動きをとめた。「誰かに、しゃべった……?」
その震える声に恐れが含まれていることに、ぼくは気づいた。
水無月つかさがぼくを呼び出した意図はなんなのか。
実のところそんなものは考えるまでもなかったのだ。
『放課後、オリ室で待ってます。来なかったらもっとひどい目に合います。誰かに言ってはいけません。もし言えば…………』
──もし、ぼくが誰かに昨日の出来事を話していたら。
人間が空を飛べるなんて聞いても、誰も信じないだろう……普通だったら。
ぼくは昨日、2枚の写真を撮ったのだ。
それでも。信じない人ばかりだろう。
でも、疑問は残る。
──水無月つかさは、本当に、とべるのではないか?
疑問は残るのだ、そして疑惑を生むのだ。
もっとひどい目に合います。
黒スーツのサングラスを装着した男たちが攫いに来るなんて言うつもりはないけれど……。
そうしてぼくは恐ろしいことに気付いてしまった。
普段まったく使われることない長机と、その上にうつぶせに寝転がる制服姿のクラスメイト──
その間に隠されるように、彼女の柔らかな腹部に沈むように、むき出しの包丁が隠されていることに。
そして彼女の手が──きつくスカートの裾を握りしめていたはずの小さな手がいつのまにか解かれていて、ぼくの答えを待ちながら、ゆるゆると、包丁の柄へと伸びていることに。
「──ねぇ、佐々木くん。誰かに、しゃべっちゃったのかな──?」
「──写真は家のパソコンに保存してある!」
水無月の手が包丁を掴み、筋肉質とは言い難いひ弱な男子中学生の身体を刺し貫く直前、ぼくは叫んでいた。
「だからここでぼくを殺してもなんの意味もないぞ!」
いつの間にか立ち上がり、抜き身の包丁を手にした水無月は、ぴたりと動きを止めた。
「……じゃあ、佐々木君の家にいってパソコン壊す」
それだけ言って殺人鬼は行動を再開する。
「ええっ!? い、いいいのかなそんなことしてぼくは言っておくけど割とパソコンのこと詳しいんだよねぼぼぼくが一定時間操作しないとインターネットに写真が勝手にあがってさあ大変だよリベンジポルノ! そうリベンジポルノだ! 君の人生終わりだぜーははーいいのかなぁそんなことになってもぉ!?」
「………………」
いやそんな技術ないけどさ。我ながらゴミクズのような発言してるなぁと冷静な自分が頭の後ろから呟いた。
「………………」
気付くとぼくは窓際に追いやられていた。
もし、グラウンドで運動する誰かが校舎を見上げて、この教室で向かい合うぼくらを発見したら、女の子がなにか──例えばキスとか──を迫っているように見えたのかもしれない。逆カベどん、みたいな(正規の意味は知ってるけどどっちが正しくてもどうでもいい)。
でも現実は甘酸っぱくない。女の子は俯くように前髪で表情を隠していて、片手には殺傷能力抜群の刃物、ぼくは全身冷や汗だらだらで追い詰められている、キスシーンが行われるようなキラキラ光るトーンが貼られる空気など、大気圏を遥か突破して宇宙の果てに置いてきているのだった。
しかしこう、正面に立たれると水無月の小ささがはっきりとわかる。ぼくもそんな身長が高いわけでもないけれど、目線を下げないと彼女の前髪から覗くおでこしか見えない。机にぶつけていたせいで、髪は乱れて肌が少し赤くなっている……。
呼吸もできないくらい、ただじっと、体を硬直させたまま時間が過ぎて。
──ぱぷえー、と。
静寂を破るように、隣の教室から間抜けな管楽器の音が数回した。それから少しの沈黙。
すると、どうだろう。緩やかな旋律がいくつも重なって、一つの曲を奏で始めたのだ。
カンタベリー・コラール。染み渡るように、音がどこまでも届くように、空に広がっていく優雅で柔らかな響き──
「……ひっく」
ぽたりぽたりと、少し汚れた床にいくつもの雫が零れた。溢れる涙を拭おうとした小さな手が、邪魔になった包丁を床に落とし、トスン、とぼくのつま先1センチ手前に鈍く光る刃が突き刺さる。
「うぅっ……ひぐっ……うわぁぁん!」
そうしてぼくの前で、水無月つかさは幼い子供のように泣き始めたのだ。
「……リベンジポルノはないとおもう」
美しい演奏が終わって、まるで正反対の賑やかな喧噪が隣の教室から聞こえてきたころ。
ようやく泣き止んだ水無月は、ぐずぐずと鼻を啜りながら文句の声をあげた。
誰かに見られてしまう可能性もある、外から見えぬよう窓側からは移動して、今はお互い適当な椅子に座っている。教室の机の距離ほどではないにしろ、警戒されているのかかなり遠くに位置取られて会話しづらい。
「すみませんでした」
それについては全面的に謝るしかないので、素直に頭を下げる。
「で、でも包丁もどうかと思うんだけどね」
「だって他に思いつかなかったんだもん……最初はクラスのみんなに追い込んでもらって、不登校にさせようと思ったんだけど……」
「今朝のあれね……」
ていうかこの女さらりと恐ろしいことを口にしたね。追い込んで不登校にさせるって発想がだいぶ怖いんだけど。
「……まぁあんなの毎日続けられたら心折れたとは思うけど、さすがに理由が阿保らし過ぎて誰も信じないって」
実際クラスメイトのぼくに対する折檻は朝だけで終わり、誰かさんからの恨みつらみのこもった視線を向けられ続ける以外は、特に代わり映えのない一日だった。
ああ、それとも、先に馬鹿馬鹿しい噂話を流すことで、後から流れるかもしれない荒唐無稽な話の信憑性を無くそうとする意味合いもあったのかもしれない。そうなるとこの同級生は案外策士なのかもしれなかった。女は腹黒いとよく聞くけれど、一見人畜無害そうなこの女子も例外ではないのかな……。
「……そうだね、誰も信じない。証拠がないから」
ぽつりと、水無月はつぶやいた。
「佐々木くんが私の裸の写真を撮って、それをネタに脅迫してきて、ひどいことを強要してきても、誰も信じてくれない」
「信じられたら困るわ! え、ぼく水無月さんになにかしたっけ!? むしろ脅迫を受けてるのはぼくの方なんだけど!?」
「写真撮ったのは本当でしょ」
水無月はじっと、上目遣いにぼくを睨んでくる。
「だから佐々木くんは、やろうと思えばそのあとのことも、出来るよね」
こちらを見つめる涙でふやけた瞳の奥に、確かな恐怖心を見つけて、
「……はぁ」
と、大きく大きく、ぼくはため息をついた。
「水無月さん、変な漫画の見過ぎだよ。そんな薄い本が厚くなるような展開は、現実には起きないから」
言いながらぼくは制服の内ポケットからスマートフォンを取り出す。
「はい、中身見ていいよ。投げるからね、ちゃんと取ってね」
そしてそっと、繊細な電子機器を水無月へ向かって放り投げた。
水無月は、自身に向け緩い放物線を描いて飛んでくるぼくのスマートフォンを、悲痛な音を立てて床に転がるまでしっかり見送り、一度思い切り踏んづけた後で、のろのろと回収したのだった。
「………………」
……あれ? こいつひょっとして性格悪い?
じいーっと恨みがましい目でぼくのスマホを操作していた水無月だったけれど、やがて目当ての画像が見つかったんだろう。ぴたり、と水無月の指が止まったのを確認して、ぼくは肩をすくめた。
「ね、ぼやけてて誰かなんてわからないでしょ? 後ろ姿だしさ、映っているのが水無月さんだなんて、拡大してもわからないし……この写真を使ってひどいことを強要するのは、ちょっと難しいんじゃないかな」
「……佐々木くんって、ピンク髪の胸の大きい子が好みなの?」
「それじゃないよ勝手に見るな! 人の好意を無下にしやがって返せ返せ!」
「私男の子のスマホって初めて触ったんだけど……本当にえっちな画像入れるフォルダの名前偽装してるんだね。ちょっとびっくりした」
「ぼくのほうがびっくりだよ! あっさり看破しやがって!」
「サンプルピクチャって安直過ぎると思うなあ」
「うるさいよ! いい加減返してくれませんかね、もういいでしょ十分確認したでしょ!?」
まぁ、信頼されるための多少の犠牲は仕方ないというか……ぼくの性癖がばれてしまったところで、大した痛手でもないし。しばらく興味深げにぼくのスマホを操作していた水無月だったけれど、やがて満足したのか立ち上がっててこてことぼくへ近づいてくると、
「はい、ありがとね」
と返してくれた。それからまた近くの椅子に腰かける……さっきまで座っていた場所よりも、距離はだいぶ近くなった。ぼくはそのことに安心して、水無月に笑いかける。
「まあさ、そんなだから、本当水無月さんが心配しているような展開は起きないよ。というかぼくがそういうことをする人間だって思われてることに少しショックだよ。ぼくって女性の弱みを握って脅迫するようなやつに見える?」
「うん、割と……」
「あっ、そ、そうなんだ。そっか」
即答されて普通にへこむぼくを、可笑しそうに眺めながら水無月は「うそだよ、ごめんね」と少し口元に笑みを見せたのだった。
多少は心の壁も崩れてきたんだと思いたい。だからぼくは問いかけることにした。
「ねえ、水無月さん」
実のところ水無月本人がどちらをクリティカルなものとして捉えてるのかはわからなかった──裸の写真と、もう一つの重大な事実。水無月も意図的にその話題から避けているようにも感じるけれど……。
ぼくは水無月から返却されたスマホを操作して一枚の写真を表示させる。
裸の女の子が中心に据えられた写真だ。ピンボケしていて、女の子の様相ははっきりしない。ただ──
その女の子は、満月を背景に、夜空に浮かんでいることは、はっきりとわかる。
合成ではない。なぜならぼくが昨日の夜に撮影したものだからだ。
「水無月さんって──空が飛べるの?」
ぼくの質問に、水無月は柔らかくなってきた空気を再度硬くさせて、それから俯いてしまった。
空が飛べるの? なんて馬鹿らしい質問だと思う。
漫画じゃないんだから、この世界には髪を金髪に逆立てて自在に空を飛び回る格闘家なんていないし、呪文を唱えて遠くの街へ一瞬で飛翔していくような魔法使いも存在しない。するわけがない。
──ないのに。
ぼくは昨夜はっきりと、この目で見てしまったのだ。
満月を背負いながら、どこまでも空を飛ぶ、一人の女の子を。
しばらく沈黙が続いた。隣の吹奏楽部は本日の練習は終了らしく、話し声すら聞こえなくなってしまった。外から響く活気のある声も、だんだんと聞こえなくなってきている。生徒はもう学校から帰る時間だ。
どうしたものかなー、もう冗談じゃなく写真を使って脅してでも聞くしかないのか……と人間の屑的思考が頭に生まれてきたあたりで。
「……誰にも言わない?」
そっと、水無月は顔をあげて、上目遣いにぼくを見つめてきた。
「……誰にも言わないって約束してくれるなら……教えてあげてもいいよ」
唇をちょっと突き出して、睨むように、ぼくの奥底を覗くようにしながら、言ってくる。
ぼくは彼女の瞳の色が淡い茶色だということに気付いた。目も……ちょっと大きいのかな。低めのちょこんとした鼻、幼さをなくそうとしている頬、自然なようで隠れるように手入れされた眉、唇の下にはポツンと赤い小さなニキビができている。なんだか、初めて彼女の顔をはっきりと認識した気がする。
……あれ? 水無月って、こんなに……。
そして昨日の、空に浮かぶ少女の裸体が思い出される。
だからぼくは、
「……約束スル、ゼッタイ誰ニモ言ワナイ」
と、視線を逸らしながら誠実に答えた。
「……絶対教えない」
水無月の声は地獄から響くようだった。
「ばかっ! サイテー! このへんたいっ!」
「ああっ!? うそ! ごめん冗談だから! 違うんだ、そのね、ここでぼけたらどうなるかなぁって囁きが時々聞こえるじゃん? その声に従っちゃっただけで!」
「そんな声聞こえたことないよ! このっ……空気読めないボケ! へんたい! 盗撮魔!」
「と、盗撮魔って、そっちが裸でいたのが悪いんじゃないか。普通、健全な男子だったら裸の女の子いたら写真撮るでしょむしろ撮らないほうがおかしいでしょ?」
「撮るほうがおかしいに決まってるでしょ!? も、もうこれだから男子はえっちなことしか考えないんだから! もう! もう!! へんたいっ! えっち! スケベやろう!」
「あーあーあーなるほどーそういう事いいますー? じゃあこっちも言わせてもらいますけどねぇ、あんな夜中に裸で出歩いている人のほうがえっちですけべで変態っていうんじゃありませんかねー? ああちがうなぁ、そうそう、こういう呼び名があったなー……露出狂、って」
「……っっっっっっっ!?!?!?」
ぼくの会心の一撃で、水無月の顔はゆでだこの様に赤くなった。
「ち、ちがうっ……あ、あれは……」
「なーにーがー違うのかなー? どう考えても露出狂以外のなにものでもないでしょうが!? 違うなら理由を言ってみなさいよ! あんなところで、あぁんな格好をしていた理由を! 変態なだけでしょうが!」
「ちがうもん! ちがうもん!! だ、だって──!!」
「だってなに!? さあ言ってみろ! ぼくが納得できる理由を! さあ! さあさあ!!」
「だって──だって──!!」
「──だって、裸にならないと、空飛べないんだもん」
「………………………は?」
水無月と帰り道が同じだと、ぼくは今日まで知らなかった。
「だと思ったよ。佐々木くんってそういう人だよね」
「……どういう人だよ」
「そういう人。……私は、ちゃんと知ってたよ」
とぼとぼと、田圃に挟まれた平たい道を二人並んで歩く。
周りに人の姿はない。ぼくらは進む道の先には、さして多くもない帰る人を待つ家があるだけだった。
空はすっかり暗くなりかけていて、西の空がほのかにぼくらを染め上げてくる。
「──もしさ、ぼくがこの場にいなかったら、水無月さんは飛んで家に帰ってるの?」
気になって訊ねる。この同級生は人の見てないところで毎度服を脱いでは通学時間を短縮していたのではなかろうか。
「へっ? ううん、さすがにそんなことしないよ──はずかしいし。ちょっとしか、したことない。遅刻しそうなときとか」
「あるんだ……」
「ちょ、ちょっとだけだから! に、2回くらい……?」
想像してみる。
朝、寝坊をし朝食を取ることすらままならぬほど追い詰められ、食パンを頬張りつつ通学路をひた走っている最中、ふと空を見上げると、同じように寝坊したであろう同級生がすっぱだかで空を飛翔していくのだ。そうして時刻はぎりぎり、心臓が悲鳴を上げるなか教室に飛び込むと、先ほど空を飛んでいたクラスメイトは素知らぬ顔で制服に身を包み、あらいやだ遅刻なんてだらしないわねえ、と優雅に出迎えるわけだ。
「ずるいなー……」
「だ、だから、やってないよ! ほんと、そんなに、明るいうちとか、無理……」
ぱたぱたと熱を逃がすように、顔の前で手を仰ぐ水無月だった。
まぁ男のぼくでもお天道様が明るく元気に見守ってくれる中、全裸で飛び回るのは嫌だなぁとは思う……たとえ夜中の誰もが寝静まった夜でさえ、全裸で家の外に出るなんてとても出来ることじゃない……。
「………………」
それなのにこの女ときたら……。
「……な、なに?」
「……水無月さんってやっぱり変態でしょ」
「!? な、なに言うの!?」
「いや、自分が裸で外に出るのを想像したんだけどさ、考えただけでハラハラするんだよね。絶対実行に移せないと思うんだ。でも……」
「ななな、ち、違うから! し、しょうがないじゃん遅刻しそうだったんだもん! せ、背に腹は代えられないってやつだから!」
顔を夕日なんか目じゃないとばかりに真っ赤にさせて己の正常性を訴える水無月だったけれど。
(水無月さんって男に生まれてたら、全裸でコートだけ羽織って通学路に出没しそうだよね)
とはさすがに言わなかった。まぁ今じゃないにしろ、近い将来、きっとこいつは異常性癖に悩まされることになるであろう。
「……いま、ものすっごい、失礼なこと想像したでしょ」
「ううん別になんも。……なんで裸じゃないとだめなんだろうね」
見上げた先にカアカアと、地面に足を付けて歩くしかないぼくたちをあざ笑うかのように、黒い翼を広げてカラスが空を飛んでいる。
「あんな風に──飛ぶっていったらさ、イメージするのは翼じゃない。手が羽の代わりになるとかさ、あるいは背中に翼がぶわって生えるとか、そういうのならまだわかるんだけど」
当然だけど──その当然も今はよくわからなくなってきているけれど──横を歩く水無月の背中に翼はない。実は透明な翼が生えていて、紺色のブレザーの背中には、こっそり穴が開けられている、なんてこともない。学校指定のリュックだけが、ぼくと同じように、背中に引っ付いている。
「それは私が聞きたいよ。ねぇ、もし背中に羽が生えるとかだったらさ、とってもかわいいって思わない? まるで天使みたいに」
水無月はちょっと前かがみになって、ぴょんぴょんと背中の鞄を羽のように揺らしてみせた。残念なことに白く輝く羽毛が散ることなんてなくて、がさがさと教科書の揺れる音がするだけである。
「……ぼくも昨日水無月さんを見つけて思ったよ。なんであの天使は羽が生えていないんだろうって」
「わあっ!? ちょ……ちょ、な、なにはずかしいこといってるの? や、やめてよもうっ。え、えへへ、そ、そんな風に見えた?」
「なんであの天使体型があんまりよくないんだろうって……ごめんなさいやめて! うそ! 嘘だから! 包丁しまって! すみませんでした!」
アーホー、と優雅に飛び回るカラスが一声鳴いて、西の空へと消えていった。
「……ていうか、昨日はなんであんなことしてたの? もう露出が趣味になっちゃってるだけ?」
「佐々木くん……私もいい加減怒るからね?」
水無月は、いー、と少し尖った犬歯をぼくに見せつけてきた。
「散歩だよ散歩。ふふん、ちがうね、散飛……うん、さんぴ。月が綺麗だったでしょ? 暖かったし……ちょっと、少しでも近くで見たいって思ったの」
それは素直に羨ましいな、と思った。彼女はぼくの知らない、見たことのない景色をたくさん知っているんだろう。100メートル? 200メートル? 身長は低いのに、ずいぶん高いところにいるんだなぁ。
「佐々木くんは、あんなところでなにしてたの?」
「ぼくは散歩です。普通の歩くほうです」
そっかー同じだねえ、と水無月はどこか得意げに自慢するようにはにかんだ。
「その……一体いつから飛べるようになったの?」
「え? うーん……いつだったかな……」
小首をかしげながら、人差し指を顎に当てて考えるしぐさをする水無月。
「……ああ、そっか。中学1年になってすぐだよ。お風呂に入ってて、たぶん疲れてたんだろうね、ついうとうとしちゃって──はっ!? て意識が戻ったら床に頭ぶつけててさ。実はそれ床じゃなくて天井だったんだけど」
「はあ……」
「なんだこりゃー!? って思ったよね、思ったというか叫んだんだけどね。ほら、よく漫画であるじゃない、主人公が目が覚めると幽体離脱してて、眠っている自分の姿を見て驚くってやつ。私も最初はそれかと思ったの。でも湯船には私の身体はもちろんなくて……。
──嬉しかったな、私、飛べてるんだ、って思ったときは。
私を縛るものなんてどこにもなくて、私が望む場所、どこにだって行けるんだって思った。残念なことに、それは叶わなかったんだけどね……」
身を包む学校指定のブレザーを、まるで自身を縛り付ける鎖のように水無月は見つめるのだった。
「それから色々試したんだけどね、どうして飛べる時と飛べないときがあるんだろうって。空が飛べるキャラクターのポーズとか真似たり、何か飛ぶための呪文があるのかもしれないって黒魔術とかそういう本を読み漁ったり……へへ、はずかしいなあ。でも、すぐにわかっちゃったんだよね。だってお風呂に入ってる時しか……裸になってる時しか、飛べなかったんだもん」
「その……服を脱がないとっていうのは、え、ええと、下着姿とかでもだめなの?」
「……うん、だめみたい」
「たとえばブラジャーだけとか、パンツだけとかは……?」
「うん……だめだった。……笑わないでね? 靴下だけとか、手袋だけでもだめだったんだよ? ひどいよねぇ、もうちょっとくらい、条件緩くしてくれてもいいのに。せめて下着くらいはおっけーにしてほしかったなー。そしたら水着とかで代用できたのに!」
そういって水無月は笑ったけれど、ぼくは笑うはずもなかった。
だって、想像してごらんよ?
今となりを歩くクラスメイトが、一人部屋で水色の新しいブラジャーだけを身に着けて、鏡の前で苦悩するんだ。これじゃあだめ、じゃあ次は、って手を伸ばしたのはドット柄の使い古したパンツ。それでもだめ、少女は一縷の望みを託して、何も身に纏うことないままベットに腰掛け、ゆっくりと、紺色のハイソックスを彼女の健康的な足に……。
「………………」
気付くと水無月がじっとぼくの顔を覗き込んでいた。ぼくは努めて冷静に、そのどんぐり眼を見つめ返す。
夕日のせいか、水無月の頬が少し赤く染まっていて、ぼくも同じように赤色に侵食されているんだと思った。ぱっと、はじけるようにお互い目を逸らす。
「じゃ、じゃあその──手に何か持ったり、っていうのは、その、大丈夫なのかな。それだったら飛べるんだよね?」
「う、うん──そうしないと学校とか行けないから。私の持てる重さだけだけどね。そのへんは、歩いてる時と──今と同じだよ。あ、でもリュックを背負ったことはなかったかな……どうなんだろ」
──じゃあ、ぼくを持ち上げて、一緒に飛ばしてもらう、っていうのはできないんだな。
内心で呟いて、確認する。
「……あ、じゃあ、私こっちだから」
水無月が指さした先は、山の方へと繋がる坂道だった。成長した木々の間に潰されるように敷かれている道はおり曲がっていて、先はすぐ見えなくなっていた。確かその先にはいくつか集落があって、そのうちの一軒が水無月家なんだろう。……本当に、割と家近かったんだなぁ。
「……えーと、暗いけど大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、盗撮魔さんとは和解したから。すぐそこだし、いつもは部活でもうちょっと遅かったりするし……あ、今日はごめんね、部活休ませちゃって」
「ああ、それは大丈夫……水無月さんもだから、それはお互い様でしょ。こちらこそ、色々と聞いちゃってごめんね」
「あ、うん……」
水無月は一度俯いてから、それから顔を上げて、笑みを浮かべた。
「……でもちょっとね、嬉しい気持ちもあるの」
「そうなの?」
「うん、実をいうとね、誰かに自慢したかったんだ。私飛べるんだよーって。でも誰に言えるわけでもなかったから……あ、内緒にしてね? 誰にも言っちゃあだめだよ?」
「わかってるよ、誰にも言わないし……それに、言っても信じてもらえないと思うよ」
「それでもね、内緒。二人だけの秘密だよ。……じゃあ、またね」
小さく手を振って、水無月は家の待つ道へと歩いていく──と、突然振り返って、とてとてとこちらへ戻ってきた。
「? どしたの?」
「あの、よかったらなんだけど──」
いつのまにか水無月の手には小さな電子機器が握られていた。スマートフォン。
「──メールアドレス、交換しない? それから──」
よく知られているメッセンジャーアプリの名前を彼女は口にした。
「うん、いいけど……」
ぼくもポケットからスマホを取り出して、いくつかの操作の後、アプリを起動する。水無月と画面を見せ合うようにスマホを軽く振ると、
画面に水無月のIDが表示された。アイコンはぼくの知らない男のアニメキャラクターだった。
「よ、よし。……えへへ」
水無月はスマートフォンを、まるで小さいときからずっと大切にしているぬいぐるみのようにぎゅっと胸に抱きしめた。
「うん、佐々木くん、今日はありがとう。じゃあね、……えっと……また、あしたね。ばいばい」
「うん、……ばいばい」
そうして家路へと足を向ける──その背中を見つめながら、ぼくはすばやくスマートフォンを操作した。メッセンジャーアプリを起動し、先ほど登録したばかりの水無月のID、そこに一つの画像ファイルを送る。
スマホが鳴ったことに気付いたのだろう、水無月が足を止めて、画面をのぞき込み──
凍り付いたのがわかった。
水無月が確認したのを見届け、ぼくは送った画像をアプリ内から消す。
……写真は2枚撮っていた。一つは先ほど水無月に見せたもの。
そして、もう一枚。
青白い満月を背に、空に浮かぶショートカットの一糸纏わぬ少女が、そのささやかな乳房と、恥部を晒し──何より、それが一体誰なのかが、はっきりとわかるもの。
もう赤い世界は終わり、空は暗い色へ染まっている。光源のあまりないこの田舎道では、お互いの顔もよく判別できない。
でも、こちらを振り向いた水無月の顔が、驚きと、恐怖と、悲しみと──沢山の負の感情に占められていることは、はっきりとわかった。
「──水無月さん。お願いがあるんだけど」
言外に、はっきりとした意思を含ませて、ぼくは言う。
「──ぼくを空に飛ばしてください」
出来ないと言ったら、わかっているな──? と。
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