最終話 「私の恋人になってほしいのです」

 土曜日の昼を少し過ぎた時刻。俺は指定された練習用の貸しスタジオの扉のひとつを開けていた。俺が送ったメールの返信に書かれていた場所がこの時間、この部屋だったから。そこには、ユウキくんと、この間見た彼の組んでいるバンドでピアノを弾いていた青年。彼らはそれぞれのサックスを首から下げていたり、ピアノの前に座って、これからでもすぐ演奏が出来るとでも言いたいような状態で俺を迎え入れた。

「やっぱり、俺は音でしか伝えれないから。俺が南海さんに渡せるのも、音しかないので」

 この間、告げられた好意を口にしていた時と同じ、まっすぐな視線で俺を見つめる彼は、そう言って、マウスピースに口を付ける。そうして静かに曲は始まる。最初は、テナーサックスだけのメロディラインが。そして、静かに、メロディラインを飾るようにピアノの伴奏が。そうして、ユウキくんはテナーサックスを首から下げたまま、マウスピースを口から外して、その口を開くのだ。ピアノの伴奏にのせて、彼の声が、メロディーをなぞる。


 私の恋人になってほしいのです。

 あなただけが、私の中に作り出す、この焦がれる想い、そして渇き

 これらを鎮められるのは、あなたしかいないのです。

 夢の中のあなたのように、私の腕に抱かれておくれ。


 わたしには、あなたしかいないのだ。

 あなたが、私の恋人になってくれるのならば。


 彼は、彼の産まれた国の言葉で、そう歌う。その曲は、ビー・マイ・ラブ。恋人になっておくれ、と真っすぐに愛を告げる曲。そして、レオの最後の曲だ。この間のライブの時みたいな、いいや、それ以上に、あまやかな音を出すサックスも、彼の歌声も、心地のいいもので。そして、この間のライブの時以上に心が揺らされた。きっと、観客が俺ひとりだけで、この曲も、この歌も、今ここでは、俺のためだけに演奏されているからなのだろう。そうして、演奏を終えた二人のうち、ピアノの青年は俺に小さく会釈をしてこの部屋を出て行って、ユウキくんも、首にかけていたサックスを台に置いてから、俺の目の前に立つ。身長に差があるせいで、彼を見上げる形になってしまう俺に、彼は、この間よりも真っすぐで、愛おしげな視線を俺にぶつけるのだ。

「これが、今の俺が、南海さんに渡せる音の、精一杯です。だけど、俺は」

 彼の途切れがちな声は、彼の思いを最後まで出すことなく、詰まる。そんな彼に、俺は、微笑んで見せるのだ。

「俺なんかの音でよければ、あげるよ。あとな、俺も、ユウキくんの音、好きだよ。もしかしたら、レオの音よりも」

 だから、俺だって、君の音を自分のものにしてしまいたいし、近くで聴いて居たいんだと、そう告げれば彼もまた、微笑む。

「折角だし、もう一度聴かせてよ、ビー・マイ・ラブ。次は俺がピアノ弾くから」

 そう言って、俺はピアノの前に座る。指慣らしに、バラバラと音を響かせて。簡単なイントロを弾いてから、メロディーを流す。彼は慌てたように、マウスピースに口をつける。そうすれば、テナーの音がそのメロディーへとそっと寄り添うように入ってくるのだ。


 それはかつて、彼の両親が奏でた愛の曲、そのものだった。

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PianoForte. 狭山ハル @sayamaHAL

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