メトロに乗って
中村ハル
メトロに乗って
特にあてもなく、ふらりと歩いていただけだった。
目ぼしいものも見当たらない、坂ばかりの殺風景な町だ。
せっかく来たのに、と目的地もないくせにぼやきが漏れる。
日没を少し過ぎ、空気は蒼く染まっていた。
そういえば、この辺りに英国菓子の小さな店がなかったか。
ふと、先日雑誌で見た写真と風景が重なった。
ポケットを探るが、スマホがない。家に忘れてきたのだろうか。
確か坂を上がったところに、と辺りを見回すが、右も左も坂だ。少しばかり溜息を吐いたところで、右の坂の角に人影が見えた。おやと思い、そちらにつま先を向けて歩く。
いくらか坂を進んでみると、どうやら人影は一つではなく、曲がり角に沿って並んでいるようにも見える。
あそこだな。
そう見当をつけて、急な坂道を上がる。
英国の素朴でずっしりとした質感のケーキが好みなのだが、なかなか売っている店が見当たらない。雑誌で読んだ店は、英国人の店主が作る家庭的で素朴な菓子が溢れていた。濃い目に入れた紅茶と併せれば、さぞや満たされるに違いない。
自然とほころぶ口元を誤魔化しながら前を向くと、5,6人ほど並んでいる。
こんな夕暮れ時にも並んでいるなんて、僕の分まで回ってくるだろうか。いささかの不安を抱いて、列の最後尾に並んだ。
透明な蒼い空気は視界を滲ませ、不思議と浮世離れした気になる。
スマホもないのですることもなく、そわそわと首を巡らせていたが、奇妙なことに気が付いた。
焼き菓子の匂いがしない。
そればかりではない。壁に沿って並ぶ人たちは、一様に同じような灰色のジャケットを着た男性で、俯き加減にまっすぐと並んでいる。
仕事帰りにわざわざ足を伸ばしたサラリーマンにしては、みなあまりにも服装が似通っている。どことなく、髪型さえも揃いの長さにしているようだ。
少し身を乗り出して、並んでいる人々の先を見た。
壁際に沿って木枠の洒落た窓があり、その先は、少し窪んだ玄関になっている。店のようでもあるし、民家のようでもある。
どちらにしても、窓の中には小さな明かりさえ灯っていない。
壁の向こうは、しんと、しているのだ。
ぎょっとして、前に連なる人々を見た。
微動だにせずに、項垂れて、立っている。
「あの?この列って、何の列ですかね?」
すぐ目の前の背中に声をかけたが、肩がわずかにぴくりと揺らいだだけで、顔を上げる気配もない。
「あの、ケーキの店じゃないですよね?」
誰にともなしに問いかけると、灰色の列がゆらりと揺れた。
思わず、ぎょっとして、後退る。
どうしようか、離れるべきか。
そう悩んでいた背後に、誰かが立つ気配がする。
びくりと、肩がすくんだが、どうしてだか振り返れない。
身を竦めて俯く僕を、後ろの影が覗き込んでくる。
思わずぎゅっと、目をつぶる。
「お兄さん、駄目だよ、並んじゃ」
こっち、と手首を掴まれて列から離される。
灰色の男たちの列が、大きくゆらりと揺らいだが、またぴたりと一列に項垂れて止まる。
ぞっとして、手首を握った人物に寄り添ってみれば、どことなく少年の面影を残した青年である。
目深に被ったパーカーのフードの下から伺うように瞳が覗いた。
「なにしてんの、こんなところで」
「何って、ケーキ屋を探して…」
「ないよ、ここには」
「あの列…」
「あれは、駄目だよ」
危ないから、そう言って、ようやく僕の手首を離した。
「危ない?」
「そうだよ。参ったな、少し来ないうちにすっかり溜まっちゃって。どうするかな」
右腕を掻きながら、青年は小首を傾げて灰色の俯いた列を眺めている。
空気はすっかり蒼く冷えて、あたりはぼんやりと闇が忍び寄っている。
「少し手伝ってくれる?俺一人じゃ、あの人数は無理かもしれない」
にっこりと微笑んだ青年に僕はじりっと後退するが、がっしりと肩を掴まれ逃げる機会を失った。
「手伝うって、何を」
「圧縮する」
「何を?」
「あれ」
顎でしゃくった先には、俯いた男たちの列しかない。
「だーいじょうぶ。さっきみたいに後ろに並んで、前の人の背中に手を付けて、ずずずっと前に押せばいいだけだから」
「厭だ!」
「さっきまで並んでたじゃん」
「並んでただけで、押してない!」
「押せる押せる、大丈夫。あれ、それとも、前の方がいい?」
「ま、前って?」
「俺と君とでこう、ぎゅっと挟んで圧縮するわけ。背中のが押しやすいかなと思ったけど、前から押したいなら交代してあげるのもやぶさかではない」
「や、後ろ!後ろがいい!」
「じゃあ、それで決まり。さっさと終わらせちゃおう」
ずかずかと僕の肩を抱いたまま、強引に男たちの列に向かっていく。
一歩近づくごとに、足の動きが鈍くなる。身体が拒絶している。
その意味に、ようやく、視覚と思考が追いつく。
目の前に並んだよく似た男たち。同じ髪型、同じ服、同じ俯いた角度。
よく似ているんじゃない。
同じ人だ。
全く同じ人物が、一列に並んで、項垂れている。
びくん、と身体が跳ねあがって、全身で拒絶する。
無理だ、無理だ、無理だ。
一歩も進めないし、進みたくない。
無理だ。
「無理じゃないし、無理だったとしても、逃げるのは無理だよね」
悪魔のような蕩ける微笑で、青年は僕の耳元で囁く。
涙目になっている僕を列の後ろに立たせ、がたがたと震えが止まらない手を掴んで、勝手に男の背中に押し付ける。怖すぎて腕がこわばり、離したいのに、離せもしない。
灰色の布越しに、やけに冷たい体温が伝わって、腕が痙攣する。
「いっせーの、で押して」
「…や…押すとか…ほんと無理」
「並んでるのが好きならそれでもいいけど」
「…押します」
「やればできる子」
僕の肩を叩いて、青年はすたすたと前方へ歩いていく。
置いていくなと伸び上がってみれば、列の先頭に回って腕をまくっている。
途端にびくりと、触れている背中が揺れた。動揺しているのか、ゆらゆらと列が揺らぐが、規則正しく前の人と同じ振れ幅なのが、また怖い。
目をつぶって顔を伏せ、掌に力を込めた。
合図など、なかった。
背中がぐらりとこちらに振れたかと思うと、思わぬ力が掌にかかる。
右足を後ろに下げて腕を突っ張り、全力で押し返すが、かかとが地面を擦っていく。
喰いしばった歯の隙間から、うめきが漏れる。
ずるずるずるずる。
地べたを削る音と共に、大きな圧が腕にかかり、思わず頭と肩を灰色の背中に押し付けて堪えた。
何かに弾き飛ばされるような衝撃に耐えきれず、身体が仰向いて、昏い空が見えた。
倒れる、と宙を掻いた腕を掴まれて引き起こされる。
「あ…」
灰色の男たちは消し飛んで、たった一人が扉の前に佇んでいた。
青年は僕をきちんと立たせると、にやりと笑う。
「できたじゃないか」
「…うるせ」
小さく笑って、青年は扉を前に項垂れている男をちらりと見やった。さっきより、少しだけ、姿がくっきりとした気もする。
「あれは…?」
「戻って来ちゃうんだよね。何度でも。もう身体も魂もないんだけど、残滓というか残像というか、魂の残りだけがああやって何度も戻ってくるんだ。放っておくと溜まっちゃうから、たまに片づけにくるんだけどさ。ちょっと溜めすぎた」
「あの人は、あのまま?」
「んー、あれはあるべき場所に」
青年がふいに唇の笑みを消して、僕を見据えた。
「君も、あるべき所に」
まっすぐと、坂の下を指す。
「下りすぎないで。君はまだ、ここに来るには早いから。一つ目の角を左に曲がって、一番最初に見えたメトロの入り口を入って、やって来た電車に乗ればいい」
そういえば、どうやってここに来たのか、覚えていない。
「切符はこれ。向こうではいくらでも迷えばいいけど、ここで迷うのは、とても、辛いよ」
溜息のようにそう呟いて、青年は微笑んだ。
僕の掌に、切符をそっと握らせる。
行先は、何か書かれているのだが、読み取ることができない。
「途中に見える列に並んだら駄目だよ。天国の階段も、黄泉への坂も、どこも混んでて並んでいるから。君はただ、流れるままに、行き当たりばったりで生きればいい」
ひらひらと掌をひらめかせ、青年は佇む男の背を押して、扉の中に入っていった。
ぱたん、と扉は締まり、後には誰もいない蒼い道が広がっている。
僕は踵を返すと、ゆっくりと坂を下って、メトロの駅を目指した。
あちら側の駅にはきっと、怖気付いて飛び込み損ねた僕がベンチに座って、僕の帰りを待っている。
メトロに乗って 中村ハル @halnakamura
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