第5章【4】

『ごめんなさい。今日の七夕祭りには行けません』


 駅へと向かう車の中で、私はスマートフォンにそう文字を打ちこんだ。


 けれども、心はまだ揺れていて、送信できずにいる。


 七夕祭りには絶対に行くべきだという、蛍の予言めいたアドバイスが心に引っかかっている。なにより礼の姿が私の心を迷わせていた。


 駅に着いた私を待っているのは、二つの選択肢。


 一つは、素直に改札を通って塾のある都市へと電車で向かう道。


 そしてもう一つは、駅の改札とは反対方面へと歩み出す道。


 塾へと向かえばただ平穏な日常が繰り返されるだけ。祭りに行かなかった後悔さえ心にしまいこめば、母に逆らうこともなく、平坦ないつも通りの生活を送っていられる。


 逆に、人並みに逆らわず祭りへと出かけていけば、私を待ってくれている人たちと合流でき、甘美な非日常の世界へといざなわれるだろう。ただ、その物語の行きつく先は、母の逆鱗に触れるバッドエンドかもしれない。


 いつも送り迎えしてもらっている駅までの道は、幸か不幸か、七夕祭りの影響もあって混んでいる。駅に着くまで、まだ時間がある。私がどちらを選択するべきか、自分の心と向き合いながら考える時間はまだ残されている。


 大通りに面した歩道を、浴衣姿の男女が何組も歩いている。遠くで祭りの音楽がスピーカー越しに流れ、子供たちが歓声を上げながら可愛らしい笑顔を弾けさせていた。


「気になりますか、天華様?」


 運転席の民安さんに声をかけられ、恐縮する。ついぼんやりと窓の外を眺めてしまった。羨ましそうな顔に見えただろうか?


「いえ、今日は塾がありますので」


 私は雑念を振り払うように頭を振った。駅まで送ってもらい、その後は予備校のある都市まで電車で向かう。たとえ特別な日であれ、いつものルーティーンに変わりはない。


「今日くらいはよろしいのではありませんか? このところお疲れのようですし」


「お気遣いありがとうございます。でも、いいのです。母を悲しませたくありませんから」


 私は穏やかな笑顔を作って答えた。そう答えてしまった。


 半分は本心で、半分は嘘。


 けれども、私の口からしぜんに出た言葉は、不思議な効力を持って私を束縛する。結局は塾へ行くのが正しい選択肢なのだと思い知らされてしまう。


 私は後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、スマートフォンの送信ボタンを押した。


   〇


 俺は神社へと向かう人の波をかき分け、時にぶつかりそうになりながら、駅までの道を急ぐ。


 天華が母親の言いつけに逆らえず塾に行くのだとしたら、必ず駅から電車に乗らなければならない。時間帯さえ合えば、駅で天華に遭遇する可能性はある。俺はそのわずかな可能性にかけた。


 俺はいつだって中途半端だった。


 適当で諦めがよくて、何かを得るために必死になることなんてなかった。だから自分にも夢が見られず、恋にも消極的だった。


 けれども今回は違う。


 俺は蛍と約束したんだ。必死に生きてみせるって。


 だから俺は天華を諦めない。


 たとえ笑われたっていい。どんなに格好悪くても、どれだけみじめな汗を流しても、俺は天華に想いを届ける。そして俺の未来を輝かせてみせる。


 息を切らしながら改札前へと駆けこみ、遠くの正面や左右に注意深く目をやる。


 しかし天華らしき人の姿はどこにも見当たらない。


 スマートフォンを取り出すと、天華からの着信が届いていた。



『ごめんなさい。今日の七夕祭りには行けません』



 その言葉の残酷な響きに俺は愕然とした。


「……ッ! どうしてだよッ!」


 俺は苛立ちを募らせ、吐き捨てた。


 俺は天華の願いを知っている。赤い短冊にこめられた天華の本心を知っている。



――『私も二人と一緒に七夕祭りに行きたい』



 俺たちにはにかんだ笑顔を見せ、今日を楽しみにしていた天華。その純粋な本心になぜ嘘をつき、目を背けようとするんだ?


 しかも今日は一年に一度の七夕だ。こんな日に願い事を叶えようとしないでどうするんだよ!


 俺は周囲の目も気にせず、改札の方に向かって声の限り叫んだ。


「そっちに行くな! 天華ァァ―――ッッ!」


 腹の底からすべての息を吐き出す。息苦しい。ぜえぜえと肩で息をする。ああ、カッコ悪い。


 その時、ふいにTシャツの袖を指でつままれ、軽く引っ張られる感触があった。


 振り返ると、赤い顔をした天華が涙目になりながら震えるように立っていた。


 天華が何かを言い出そうと、小さい唇を開く。


 だがそれより先に、俺は天華の身体を強く抱きしめていた。

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