第5章【2】

 礼と由依にはああ言ったものの、母から許可がもらえるかどうか、私には自信がなかった。


 家に帰ると、いつものように母が出迎えてくれた。


「天華さん、今日の試験はどうでしたか?」


「はい。よくできていたと思います」


「結構です。すぐに着がえていらっしゃい」


 七夕祭りに行きたいです、なんて言い出せるタイミングもなく、私は部屋へと逃げこんだ。スクールバッグを置くと制服を脱ぎ、そそくさと私服に着がえる。


 着がえながら、私は喫茶店で蛍と交わした会話を思い出していた。



――実は、天華ちゃんのことを七夕祭りに誘おうとしている男子がいるの、アタシ知ってるよ。きっと天華ちゃんのことが好きなんだね。


 蛍が言っていた男子とは、成瀬礼だった。


 礼は優しい人だ。私や由依への気遣いをいつも忘れない。


 生徒会の仕事だって、面倒がっているように見えて、実は彼が一番率先して行動してくれている。私や由依がたまに抜けても、礼だけはいつも生徒会室にいる。私たちの活動を陰で支えてくれているのは、まぎれもなく礼だ。


 それに、礼は私の苦しみを知ってくれている。


 私は中学生の時の挫折から、他人はいつも一方的で、私の気持ちなど構わず、自分たちの欲求を押しつけてくるものだと学んだ。


 高校生になってもその思いはあまり変わらない。


 周囲の人は私の気持ちには目を向けず、私に変な幻想を投影して、私の偶像を勝手に作り上げている。私は表面的には周りとうまくやりながら、内面では他人を怖れていた。


 けれども、そんな私の震える内面を見抜いた人たちがいた。それが蛍であり、礼だった。


 

――その人はきっと天華ちゃんの孤独な心を温めてくれる。


――彼なら天華ちゃんの未来を明るく照らしてくれるはずだから。



 蛍の声を耳の奥でよみがえらせ、私はカアァッと熱くなった。


 人を好きになるという感情が、私にはよく分からない。


 分からないけれども、胸がしぜんとときめいているのは実感できる。心の奥からじんわりと温かい気持ちが広がってきて、嬉しいような苦しいような、もどかしい感覚をおぼえる。


 礼が生徒会の仕事を頑張ってくれていたのは、もしかして、私への好意の表れ? 

 けっして思い上がってはいけないと自らを戒めつつも、もしそうだったら、と思うと私の胸はさらに熱くなった。


 やっぱり私も七夕祭りに行きたい。


 そして、私の心を揺り動かしているこの感情を確かめたい。


 私は気持ちを引き締めて、母が待つリビングへと向かった。


 母と一緒に夕食をいただく。会話の少ない、淡々とした食事。私は母の表情を慎重にうかがいながら、話を切り出した。


「お母様、お願いがあります。明日の七夕祭りに行かせていただけないでしょうか?」


 母に驚かれるかと思ったけれども、母は何も聞こえなかったかのように食事を続け、変化は見られなかった。


「何を言っているのです? 明日は塾があるでしょう?」


「生徒会のメンバーで七夕祭りの風紀の見回りに行くことになって。生徒会長の私が抜けるわけにもいきませんので。お願いします」


 私は頭を下げた。祭りに行く口実は由依の案に従った。嘘をつく罪悪感はあるけれども、何か理由がなければ母は納得しない。


 祈るような気持ちで母の返事を待つ。


 天華さん、と名を呼ばれ、私は顔を上げた。


 鋭く冷たい、さげすんだような母の目が私に向けられていた。


「とか言って、どうせ一緒に遊んでくるに違いないわ。そんなふざけたことは他の人たちに任せておきなさい。それに、塾を休んでいいはずがないでしょう。勉強が遅れたらどうするのです?」


 とうてい許されないという厳格な緊張感が漂いはじめ、私は委縮した。


「でも」


「でも、何です?」


 反論を認めない、腹の底からわき上がる怒りをこらえるような母の声。これ以上踏み出したら、きっと母は怒りを抑えきれなくなる。私は押し黙るしかなかった。


「諦めなさい」


 ぴしゃりと言い捨てられてしまう。私はきゅっと唇をかみしめる。


 やはり母の許しは得られない。母には私の気持ちはとうてい理解されない。


 部屋に戻り、沈んだ気持ちでスマートフォンを握りしめる。


 やっぱり明日の七夕祭りには行けない。二人にそう連絡を入れないといけない。


 けれども私の指は重くて文字を打ちこめず、私はベッドに身を投げ出すと、静かに泣いた。


   〇


 七夕祭り当日。俺たちは神社の鳥居の前で待ち合わせをしていた。


 駅から神社へと続く商店街には出店が並び、賑わいを見せていた。小さな子供たちがはしゃいで走り回り、浴衣を着た若い男女が初夏の風情を楽しんでいる。夕方よりも少し早い時間帯なのに、酒に酔ってすっかりできあがっている大人もいる。

非日常的な盛り上がりに、俺の心もしぜんとわき立ってくる。


「おまたせ、礼。待った?」


 声のした方を振り返る。すると、赤い下地に花柄をあしらった浴衣を身にまとった由依が、緊張した面持ちで立っていた。


「お前、眼鏡は?」


「今日はコンタクトにしてきた。それに、髪型も変えてみた」


 由依はいつもの黒縁眼鏡を外しており、ツインテールも封印して、髪をアップにまとめていた。


「どう、かな?」


 俺の反応をうかがうような上目遣いに、俺は不覚にもドキッとした。


「大人っぽくて、いいんじゃないか」


 俺は気恥ずかしくなって、そっけなく、でも素直な感想を口にした。


「……ありがと」


 由依もまた照れくさいのか、頬を朱に染め、つんとした態度でそっぽを向いた。


 そこにまた一人加わった。


「えっ、小笠原っ!?」


「げっ、田島海斗。どうしてアンタがいるのよ?」


「いやーびっくりしたーっ! 眼鏡かけていないから誰かと思ったよ。でも、こっちの方が断然イイよ! 学校でもそうしろよっ!」


「この格好は今日限定だから。ってか私の質問に答えろ」


 まあまあ、と俺は由依をなだめ、天華を待った。


 遠くの空に茜が差しはじめ、涼気をはらんだ夕暮れの風がそっと吹く。人通りはさらに増え、たくさんの明るい笑い声が祭りをますますにぎやかに盛り立てていく。


 俺たちはしばらく待ち続けたが、天華は一向に姿を見せない。通り過ぎていく人たちの顔に天華が混ざっていないかを目で探し、着信がないかスマートフォンを何度も確認する。


「真宮の奴、遅いな。時間に遅れるタイプじゃなさそうなんだけどなー」


「連絡もないなんて絶対におかしい。もしかして何か事件に巻きこまれたのかも」


 海斗と由依が口々に言う。不安は大きく膨れ上がっていき、ついに俺はじっとしていられなくなった。


「悪い。俺、ちょっと駅の方を見てくる!」


 俺は押し寄せる人の流れに逆らって駆け出した。


「礼、待って! 私も行く」


「その恰好じゃ走れないだろ! ここで待っていてくれ!」


 こうして俺は海斗と由依をその場に残し、駅へと急いだ。


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