心からの『ありがとう』をあなたに贈ろう

第5章【1】

 七月に入り、いよいよ期末試験が近くなってきた。


 俺は気持ちも新たに勉強に励んでいた。蛍とあんな約束をしてしまった手前、もう手を抜くわけにはいかない。


 教室の休み時間に英単語帳を開く。そんなことをしたのは高校に入って初めてだった。


 海斗も不思議そうに俺をからかってきた。


「どうしたんだ、礼? 熱でもあるのか?」


「今日から本気で頑張ろうと思ってな。目標もできたし」


 すると海斗は俺の額に手を当ててきた。


「おかしい。熱はないな。じゃあ昨日どこかで頭をぶつけたとか?」


「うっさい。あっちへ行け」


 俺は迷惑そうに海斗の手を払いのけた。海斗はおかしそうに笑う。


「冗談だって。勉強ができれば真宮も礼のことを見直すかもしれないな。ま、せいぜい頑張れよ」


 海斗はそう言って俺を励まし、ぽん、と肩を軽く叩いてきた。


「『せいぜい』は余計だ」


 海斗に言われるまでもない。勉強にも恋にも全力で向かっていこうと決めている。


 もちろん、いきなりうまくいくはずはない。試験までは日が浅く、天華との接点もしばらくはない。


 それでも俺は、やり遂げなければならない。


 俺の意志の強さが試されている。これは俺自身との戦いでもあるのだ。


   〇


 期末試験が終わった七月六日。放課後。


 昇降口には多くの生徒の姿があった。


 試験が終わればもう夏休みはすぐそこだ。


 嬉しそうに会話を弾ませながら帰っていく生徒もいれば、さっそく部活のユニフォーム姿になって駆けていく生徒の姿もある。ようやく試験から解放されて、みな喜びに満ちた表情をしていた。


 そんな生徒の嬉しそうな顔を横目に見ながら、俺は生徒会の一員としてエントランスに集まっていた。


 俺も試験後の解放感にもっとひたっていたかったが、そうもいかない。今日中にやらなければならない生徒会の仕事が残っていた。


 天華と由依は今日の数学の答えについて、熱心に会話を交わしていた。いつもなら聞き流してしまう俺だが、今日は二人の会話に加わってみた。


「どうしたんだ、礼? 今回はやけにやる気じゃないか」


 由依が驚いたように目をしばたたく。海斗にしろ由依にしろ、学生の俺が勉強するのがそんなに珍しいかね? ……まあ、珍しいか。


「俺もやる気になったんだよ。意志が固いうちに頑張らないとな。そのうち由依を抜かしてやるから、覚悟しとけよ」


「言ったな。じゃあ今回の成績で負けた方が、勝った方にジュースおごりね」


「いいだろう。その話、乗った」


 俺は言いながら、さすがに今回は負けているだろうと予測していた。これまでこつこつと努力を継続してきた由依に、最近始めたばかりの俺が容易に敵うはずがない。


 でも、俺はそれでいいと思う。負けからはい上がる方が、これまで怠けていた俺にはちょうどいい。


 由依にはしばらく俺のライバルになってもらって、俺をリードしてもらおう。そしていずれは、学年一位の天華とも肩を並べるような存在になっていたい。


 俺と由依のやり取りを聞いていた天華が、ぽつりと声をもらす。


「『意志』が固いうちに、ね」


 俺と由依は顔を見合わせ、それから二人そろって天華の表情をのぞいた。


 天華は我に返ると、いつもの柔和な笑顔に戻った。


「それじゃ、そろそろ短冊を飾りつけましょうか」


 その場を取り繕うような天華の明るい声に従って、俺たちは作業に取りかかった。この短冊の飾りつけという雑用のような生徒会の仕事が終わらない限り、俺たちは今日帰れない。


 無心に取り組むこと一時間、俺たちはついにすべての短冊を飾り終えた。


 そして最後に、俺たち自身の短冊を互いに見せ合った。


 まずは天華が水色の短冊を取り出す。



『将来医者になって、大切な命を守ってあげたい』 真宮天華



「いかにも天華らしい願い事だな」


 誠実な天華の人柄がよく表れた、流麗な文字だった。俺はその達筆に感心し、由依もまた納得顔でうなずいた。


「私にはこれしかないから。もう宿命みたいなものね」


 天華は眉を寄せて苦笑する。


 次は由依の番だ。由依はピンク色の短冊を選んでいた。



『生徒会長を名前で呼びたい』 小笠原由依



 天華がはっとして由依の顔をのぞく。


 由依はほんのり頬を朱に染め、気恥ずかしそうに目をそらし、口を尖らせた。


「私もそろそろ生徒会長を名前で呼びたいなって。それだけ」


 ぼそっとそうつぶやく由依。


 天華は由依の手をぎゅっとつかむと、瞳をキラキラと輝かせて由依に迫った。


「私は大歓迎よ。さあ由依、私の名前を呼んで。今すぐ『天華』って呼んで!」


「そう迫られると、かえって言いづらいよお」


 顔をさらに赤くしてうろたえる由依を、天華は期待に満ちた瞳でわくわくしながら見つめている。


 天華に歩み寄ってくれて、ありがとな。由依。


 俺は二人の関係が変わっていくのを実感した。この二人ならもう大丈夫だろう。


 そして最後に、俺は黄緑色の短冊を取り出した。



『生徒会のメンバーで七夕祭りに行きたい』 成瀬礼



 俺は天華にもっと近づきたかった。


 いつか近づくのではなく、『今』そうしたかった。


 俺たちはいつも将来を見るよう大人たちに促される。将来の進路を急かされ、そのために今何をするべきなのか、理屈で言いくるめられてしまう。


 けれども俺たちに大切なのは『今』だろう。


 そして『今』俺たちを突き動かすものは、理屈ではなく感情だ。感情を閉じこめて自分に嘘をつくような生き方はしたくない。


 俺は天華と一緒に過ごしたい。


 生徒会室で過ごす日々もかけがえのないものだが、もっと天華の特別になりたい。ただ憧れているだけの存在にはなりたくない。


 だから俺は天華を七夕祭りに誘いたかった。


 生徒会だけでなく、この前海斗が提案してくれたように、四人で行くのもいい。天華と並んで祭りを歩く。想像しただけで楽しく、胸が弾んでくる。


 由依が天華に歩み寄ったように、俺も天華との関係をさらに一歩踏みこみたかった。


「いいんじゃない?」


 賛成してくれたのは由依だ。


「試験も終わり、生徒会の仕事も一段落したんだもの。打ち上げも兼ねて、パーッと遊びたい気分。天華は?」


 天華はようやく由依に名前で呼ばれて嬉しそうに目を輝かせたが、しかしその後うつむいて、申し訳なさそうにつぶやいた。


「ごめん、私は無理かな。明日は塾があるから」


 天華の表情に暗い影が差す。


 けれども俺は引かなかった。強引すぎるのはよくないが、俺だって好きな人に全力で挑みたい。蛍とだって、そう約束したのだから。


「天華はここまでずっと頑張ってきたじゃないか。息がつまりそうになる日だってあったはずだ。だから、苦しい思いをたくさんした分、思い切り発散する日もないとな。一年に一度のお祭りだ。いくら母親が厳しくたって、きっと分かってくれるさ」


 俺は天華を諭すように優しく言った。


「礼がどうしてそれを……?」


 天華は驚いたように目を丸くする。小さく空いた唇がわずかに震えている。


 天華が家庭の話や苦しい胸の内を俺たちに明かしたことはない。


 けれども、俺はもう天華の苦しみを知っている。


「俺が何も知らないと思っているのか? 天華が塾の宿題に追われて寝不足だったことも、目が回りそうに忙しかったことも、母親が厳しすぎることも、俺は全部知っている。だから誘うんだ。たまには俺たちと一緒に羽を伸ばそうぜ、天華」


 俺は蛍が天華と交わしていたSNSの内容を目にしている。そう仕向けたのは蛍だ。


 おかげで俺は天華が表面的には満たされているように見えながら、実は陰で苦しみや悩みを抱えているという事実を知った。


 そうして蛍は俺に天華を託したのだ。



――アタシからもお願い。ぜひ天華ちゃんを誘ってあげて。天華ちゃんには羽を伸ばす日が必要なんだ。そうしないと、きっと息がつまっちゃうから。



 蛍の想いを俺だって無駄にはしなくない。俺が天華の力になれるのなら、精一杯尽くしてあげたい。


「天華自身はどうなんだ? 俺たちと一緒に行きたくないか?」


 俺は天華を見つめ、返事を待った。


「いいんじゃない? お母さんには生徒会の仕事で風紀を見回るために七夕祭りに行くとでも言っておけば」


 由依もそう言って俺を援護してくれた。


 天華は黙りこんだ。


 それから天華はその場にあった赤い短冊に手を伸ばし、ペンで文字を書きはじめた。



『私も二人と一緒に七夕祭りに行きたい』 真宮天華



 俺たちに短冊を見せ、はにかんだ笑顔をこぼす天華。そして、赤らんだ顔を下に向け、俺たちにお辞儀をした。


「誘ってくれてありがとう。ぜひご一緒させてください」

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