第4章【6】

 夜。俺は自分の部屋で一応試験勉強をしていた。

 

 俺だって赤点や追試は避けたい。特別上位である必要はないが、ほどほどにはやっておいて、平均点くらいは取っておきたい。生徒会の他の二人が成績優秀なだけに、こういう時は肩身の狭い思いがする。


 課題の数学の問題を解いていると、ふいに家のインターホンが鳴った。


 誰だろう、こんな時間に? 


 俺は不思議に思いながら、リビングの壁に備えつけてあるモニターを見に行った。


「蛍っ!?」


 映っていたのは蛍だった。レンズをのぞきこみ、髪をいじりながら反応を待ってそわそわしている。


 俺は慌てて家を飛び出し、一階へと急いで降りた。


「どうしたんだ? こんな時間に」


 本当にいつも神出鬼没な奴だ。体調面が気になったが、見たところ心配なさそうだ。


 蛍は俺の顔を見るとほっとしたように微笑み、それから視線をそらした。


「いや、ちょっと話がしたくなったというか。渡したいものがあるっていうか」


 いつもの睨むような目とは違い、視線が宙をさまよっている。なんとなく気まずそうな、言いにくそうな様子である。


 事情はよく分からないが、わざわざ家まで訪ねてきてくれたんだ。家の中に通そうとしたが、


「ううん、そこの公園でいい」


 蛍は俺の家に入ろうとはしなかった。


 そこで俺と蛍はマンションの隣にある公園へと移動した。


 日はすっかり落ちていたが、気温はまだ高く蒸していた。俺たちは外灯に照らされたベンチに座った。


「それで、話っていうのは?」


 俺がたずねると、蛍は視線を下に向けた。その視線の先で、赤い短冊が蛍の手に握られていた。


 蛍はしばらく黙っていたが、やがて覚悟したように「はい、これ」とその短冊を渡してきた。


 外灯の明かりの下で、書かれた文字を確認する。一点一画をおろそかにしない、大人びた綺麗な字だった。




『お父さんの夢が叶って、お母さんと二人で幸せに暮らせますように』 成瀬蛍 




 俺は驚いて蛍の表情をのぞいた。


 ……成瀬蛍って?


 蛍は俺の視線から逃れるようにするりと立ち上がると、数歩進み、外灯の柱に寄りかかった。


「アタシね。本当の苗字は『天野川』じゃなくて『成瀬』なの。成瀬蛍。それがアタシの本名。不思議だよね、同じ苗字だなんて」


 蛍はくすっと笑い、天を仰ぐ。


「アタシのお父さんがね、何度も言うんだよ。『俺が医者になっていれば』ってね。ほらアタシ、病気になっちゃったからさ」


 俺は黙ったまま蛍を見上げている。蛍は遠くの夜空を見つめながら、切なげに言葉を重ねた。


「アタシのお母さんは医者なんだ。アタシ、お母さんも大好きだよ。でも、アタシの病気のせいでお母さんを精神的に追いつめちゃって。だからお父さんは、自分が医者だったら娘の病気を治せたかもしれないし、お母さんの仕事の負担も減らしてあげられたのにって後悔してて。そんな単純な話じゃないのにね。馬鹿みたいでしょ?」


 苦笑する蛍の目の端からは涙があふれ、頬を伝わり落ちていく。


 俺は職員室前の廊下で蛍と口論になった時の会話を思い出した。



――この先あなたは何度も言うの、『俺が医者になっていれば』ってね。それが聞くに堪えないから、このアタシがあなたに勉強させてあげようってわけ。だから感謝なさい。



 あの高圧的で勝ち誇ったような態度の裏に、こんなに悲しい事情があったなんて。真相を語る蛍の声に、涙の色が混ざっている。


 そして、もし蛍の話が本当だとしたら……。


 俺の憶測はある結論にたどり着く。


 しかし、俺は頭を横に振ってその結論を打ち消した。あまりに空想的でありえない話だった。


 ふいに由依の声が耳によみがえる。


 由依は帰りに俺に忠告してくれたじゃないかじゃないか。『蛍が現れて、信じられないような話をするかもしれないが、その時は真剣に聞いてやれ』って。


 俺は立ち上がり、真剣な顔で蛍と対峙した。


 そして、たどり着いた結論を蛍に告げた。


「その話が本当だとしたら――お前は俺の娘なのか?」


 蛍は何も答えない。目からは大粒の涙がぼろぼろこぼれ、何かに必死に耐えるように唇が震えている。


「……っ!」


 蛍は俺の懐に飛びこむと、細い腕で抱きつき、胸に顔を預けて号泣した。


 俺は蛍の細い身体を強く抱きしめ、子供をあやすように蛍の頭を撫でてやった。


「ごめんな、蛍。お前に辛い思いをさせて」


 蛍は顔を上げず、首をゆっくり左右に振る。すすり泣く声に、俺は蛍の苦悩の深さを感じ取り、胸が痛くなった。


 やがて蛍は俺から身を離すと、指の背で涙をぬぐった。


「こんな話、絶対信じてもらえないと思ったけど。あなたは信じてくれるんだね?」


 たしかに信じがたい話だ。けれども、蛍の本気の涙を目にしてしまったら、疑う気持ちがどこかへ飛んで行ってしまった。


「娘の言うことなら信じるしかないだろ」


「フフッ。娘に甘いね。娘だって嘘をつくかもよ。まだ子供だし」


「かもな。でも嘘も受け入れるのが父親なんじゃないのか?」


 俺が父親で蛍が娘であるという実感はまるでない。それに、父親のあるべき姿なんてものが今の俺に分かるはずがない。


 けれども、蛍の真剣な言葉に耳を傾け、蛍の真剣な思いを受け入れることはできる。蛍の心を大切にしてあげたい。


「ん? 待てよ?」


 俺の頭にある疑問が思い浮かぶ。


「俺が蛍の父親ってことは、母親は誰なんだ?」


 すると蛍はすっかり呆れ顔で言った。


「えー、そんなことまで娘に言わせる気? 自分の胸に聞いてみなよ。もう答えなら出ているんでしょう?」


 蛍はカラカラと笑う。憂いの色が薄まった、柔らかい笑みだった。


 俺はある女性の姿を思い浮かべた。


 神秘的な魅力をたたえ、子供の頃から俺の心を引きつけてきた可憐で高貴なお姫様。


 そんな彼女に俺の思いは届くのだろうか? 


「蛍はこの話をお母さんにもするのか?」


「ううん。お母さんには言えないよ。そんなこと言ったらお母さん、きっと混乱するから。お母さんにはこれ以上迷惑をかけたくないんだ。だから、お母さんのことお願いね」


「分かった」


 俺ははっきりとそう断言する。すると蛍は満足そうに微笑んだ。


「ありがとう」


 素直な感謝を告げる蛍。俺はくすぐったくなった。


 それから俺は蛍がくれた短冊に再び目を落とした。


「それじゃ、この短冊も訂正しなくちゃな。『お母さんと二人で』じゃなくて、『お母さんと蛍と三人で』だろ?」


 しかし蛍は黙ったまま、首を縦には振らなかった。


 蛍は寂しそうに目を潤ませ、声をもらす。


「アタシ、たぶんもう長くないから。でも、たとえアタシがいなくなっても、あなたにはどうかお母さんと二人で幸せに生きてほしい。それが今のアタシの切なる願い。だから、頑張ってね、お父さん――今日はそれを伝えに来た」


 今にもまた泣き出しそうな顔で、俺にそう願いを告げて蛍は気丈にも微笑んだ。


「なんだよ、それ……」


 俺の頭が熱くなる。


 常に自由奔放で、突然現れては俺を困らせ続けた蛍。その元気で爽やかなたくさんの笑顔が、俺の中で今もなお輝いている。



――とにかく諦めないこと! 


――あなたの想いが届くと信じて、とにかく頑張りなさい。分かった?



 弱気な俺を明るい未来へ向かわせようと、力強く励ましてくれた蛍の声。はつらつとした蛍の声の響きに俺はどれだけ救われたことか。


 蛍のまぶしい笑顔を、明るい声音を、俺は絶対に失いたくない!


 感情が高いうねりとなって押し寄せる。


「蛍。俺にはいつも『諦めるな』って言ってくれたよな? それなのに、なんでお前が簡単に諦めるんだよ! 想いは必ず届くんだろう? だったら強く願えよ、『生きたい』って! 蛍の想いだって、きっと必ず届くから!」


 俺は押し迫る感情にあらがえず、泣きながら叫んでいた。


 蛍は申し訳なさそうに俺を見つめた。


「環境が変わったんだよ。未知の病に遭遇して、アタシと同じ病気で多くの人が苦しんでいる。お母さんがアタシのためにあれだけ必死に手を尽くしてくれたのに、治らないんだよ? だから、もういいんだ」


「どうして自分のことだけそんなに物分かりがいいんだよ! まだ分からないだろ! 必死になって生きろよ! そうすればいつか必ず………」


「勝手なことばかり言わないでッ!」


 俺の怒りに触発されたのか、今度は蛍が感情を爆発させる。


「……アタシだって悔しいんだよ。でも、この前なんて歩くことすらできなくて……。もう長くないんだなって自覚するしかないじゃん! それに、どうしてあなたに『必死になって生きろ』なんて言われなきゃならないの? あなたこそ必死になって生きてないじゃんッ! 適当なところで諦めて、簡単なところで妥協してさッ! アタシにとやかく言う前に、まずあなたが必死になって生きなさいよッ!」


 蛍は肩で息を切りながら、涙ながらに訴えてきた。


 俺も高ぶる感情を抑えられず、声高に叫び返した。


「ああ分かったよ! 必死になって生きてやるよッ! お前のお望み通り猛勉強して、医者にでも何にでもなってやる! そして大恋愛をして、必ずお前を産む! それから必死に働いて、お前の病気を治して、愛する家族を必ず幸せにしてみせるッ!」


「嘘だッ!」


 感情的になって叫ぶ蛍。純粋な瞳から大粒の涙が落ちる。


「嘘言わないでよ……。アタシは治らないんだよ? 早くに命を落とすと分かっている娘をあなたは産むって言うの?」


 蛍の痛切な響きが俺の胸に突き刺さる。


 ああ、そうか。蛍は不安なんだ。


 自分が病で死ぬかもしれない事実を怖れ、そして、俺にその事実を打ち明けることで、自分がもうこの世に生まれてこられないのではないかと怖れている。


 そんなはずないのに!


 俺は蛍と過ごした数日を思い出す。


 自由奔放で神出鬼没で、わがままで勉強しろとうるさくて、先生には平気で嘘をついて、俺には高圧的なのに天華にはとろけるように甘えて、由依にまで迷惑をかけて、雨に打たれていきなり倒れて、それでいて一途に俺を応援し続けて。


 そんなめちゃくちゃな奴、そう簡単に手放すわけないだろッ!

 

 俺は蛍の震える身体を強く抱きしめた。


「ああ、必ず産む!」


 俺は力強く肯定し、思いの丈をぶちまけた。


「必ずお前を産んで、必ずお前の命を救ってみせる! だからお前も必死に生きろ! 蛍!」


 俺の涙ながらの決意表明を、蛍もまた俺の胸の中で泣きながら聞いていた。


 それから蛍は身体を離すと、俺に疑いのジト目を向けてたずねてきた。


「本当にそんなことができるの? 省エネ主義のあなたに?」


「できる。絶対にやり遂げる。だから蛍も約束しろ。生きることを諦めないって!」


 蛍はためらい、下を向き、それから意を決したように前を向いた。


「……分かった。約束する」


 俺は蛍に拳を突き出してみせた。


 蛍もまたうなずくと俺に微笑み返し、手を固く握って俺の拳を軽く小突いた。


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