第4章【2】
俺は病院の廊下の椅子に腰を下ろし、蛍が部屋から出てくるのを待っていた。
激しい雨の中、力なく道路に倒れ伏している蛍を見つけた時は、気が動転してワケも分からず蛍の名前を何度も叫んでしまった。幸い駅からほど近く、異変に気づいた近隣の人が救急車を手配してくれた。
真宮総合病院に担ぎこまれる蛍を見送り、俺はとっさに由依に連絡を入れた。由依はすぐに電話に出てくれた。
それから俺は病院の裏手にある緊急外来の出入り口で由依と落ち合った。真宮総合病院が住んでいるマンションの真向かいにあるため、由依が到着するまでそう時間はかからなかった。
二人で薄暗い廊下を進み、蛍が寝かされている病室の前までやって来る。
俺たちは中には入らず、廊下の壁際に置かれたベンチに並んで腰を下ろし、蛍が出てくるのを待った。
「すまないな。急に呼び出してしまって」
「まったくだ。しかも天野川蛍のことだったなんて」
由依が蛍に何をされたかは分からないが、あまり良好な関係とは言えそうにない。
蛍はあの性格だし、由依は自称コミュ障だ。相いれないのはなんとなく想像がつく。
とはいえ非常時にはこうして心配してきてくれるのだから、最悪の関係というわけでもないようだ。
「蛍の着替えまで持ってきてくれてありがとな。本当に助かったよ。どうしていいか分からなくて困っていたら、ふと由依の顔が浮かんで、気づいたら連絡してた」
「うん……。そういうの、いいと思う」
由依はぷいと顔を背けてしまう。機嫌を損ねているのかと思ったら、案外そうでもなさそうだ。組んだ指をもぞもぞと動かし、なんだか落ち着かないでいる。
二人で並んでじっと待つ。
日曜日で外来がやっていないせいもあり、一階奥の廊下に人通りはほとんどなく、すっかり静まり返っている。
やがて由依が重い口を開いた。
「アイツ、身体が弱いんだ。この間もすごく咳きこんで苦しそうだった。もしかしたら喘息とか、そういう持病を抱えているのかもしれない」
由依は深刻な顔でそう教えてくれた。
蛍は雨に打たれる前に、天華と一緒に喫茶店にいたはずだ。もしかして天華との間に何かあったのだろうか?
俺は天華に電話をかけてみた。天華なら何か事情を知っているかもしれない。しかし天華に何度電話をかけてみても、残念ながらつながらなかった。
俺と由依は蛍の回復を待ちながら、黙ってベンチに座っていた。
やがて一人の看護師が、俺たちを気遣ってか声をかけてくれた。
蛍は点滴をうった状態で眠っており、点滴がすんで目が覚めたら帰っていい。俺たちはそう聞かされ、ほっとした顔を見合わせた。
点滴が終わるまでまだ一時間はかかると知らされ、俺たちは誰もいない広いラウンジへと移動した。
雨は小降りになっていた。灰色の空の向こう側に薄い光が漏れている。ラウンジの照明は抑えられていたが、それでも十分明るく、窓の外に咲く青や紫のあじさいが色鮮やかに映えていた。
俺と由依は自動販売機で紙コップの飲み物を買い、窓側の席に向かい合って座った。
俺は、蛍と天華が密かに交わしていたSNSの内容を思い出した。
「なあ由依。最近、天華とうまくいってるか?」
思えば由依と二人きりで話をするのは、弁当をご馳走になったあの昼休み以来だ。同じマンションに住む幼馴染でありながら、ゆっくり話をする機会はあまりない。
――由依とはちょっと距離を感じている、かな。
いつか生徒会室で天華はためらいがちに俺に打ち明けてくれた。その時の天華の遠慮がちな声が、耳の奥でよみがえった。
「天華、お前と距離を感じているみたいだぞ」
すると由依は顔を上げ、恨めしそうな目で俺を見た。そして、はあーっと深いため息をついた。
「やれやれ。蛍の次は生徒会長か。……礼、言っておくけど、たまには私のことも思いやってくれていいんだぞ」
由依は呆れたように眉根を寄せる。
俺ははっとした。
ベッドに横になっている蛍の容体はもちろん心配だ。それに、苦しい本音を巧みに隠して過ごしている天華のことも気になる。
けれども、俺はいつもそばにいる由依の存在こそ一番に気にかけるべきではなかったのか?
いつも当たり前のようにそばにいて、変わらない日常を長く共にしてきた幼馴染。だから、もう何でも分かっているような気になっていた。
――礼に頼りっぱなしだな、私。
生徒会の仕事を一緒にしていたある日、俺は由依にそう言われた。俺も由依を妹のように感じてきたし、心のどこかで由依の言葉を都合よく肯定していた。
でも、本当は違う。むしろ逆なのだ。頼り過ぎていたのは俺の方だったのだ。
生徒会の報告書だってきちんと完成形を作り上げたのは由依だった。それなのに、俺は由依の苦労を思いやらず、労いの言葉もろくにかけてやらなかった。
弁当にしたってそうだ。由依の気持ちをもっと大切にしていれば、俺がとる行動だって変わっていたはずだ。それなのに、俺は由依の優しさに甘えるばかりで何もしてやらなかった。
俺は素直に謝った。
「そうだよな。ごめんな、由依。他の女の子の心配ばかりして」
俺の表情をのぞく由依の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。由依は眼鏡を外し慌てて袖で涙をぬぐうと、こらえるように下を向いた。
由依の方が小さく震えている。どうして由依の気持ちをもっと考えてこなかったのだろう? 今さらながら罪の意識にさいなまれる。
「俺たち昔からずっと一緒だったよな。だから俺、由依といるとすごく安心するんだ。それでつい由依に頼ってしまって。由依の言う通り、もっと由依のことをちゃんと思いやるべきだった」
由依は再び涙を袖でぬぐい、首を静かに横に振った。トレードマークのツインテールが悲しげに揺れている。
「礼にとって私がそういう存在なら、それでいいんだ。私だって礼といるとすごく安心するし、礼につい甘えてしまう。……でも、礼がいつまでも私のそばにいるわけじゃないってことも、ちゃんと分かっているから」
由依はそこまで言ってから、涙があふれる目で俺に微笑んでみせた。
「礼の気持ちはもう知っている。……私のことを思いやってくれて、ありがとう。おかげで私は大丈夫だ」
「由依……」
泣いた目を俺からそらし、テーブルの紙コップを手にして喉を湿らせる由依。そのいじらしい様子に、俺も胸がつまる。
由依は再びテーブルに紙コップを置き、俺に言った。
「生徒会長のことは分かった。私のせいで生徒会長が悩んでいるのなら悪いもんな。こっちでなんとかする」
俺は黙ってうなずいた。
由依ならきっと天華との関係を改善できるに違いない。由依は人づきあいが苦手かもしれないが、他人の苦しみを自分のことのように感じられる優しさを備えている。由依を信じよう。
看護師さんに言われた一時間がまもなく経過する。
俺たちは立ち上がり、紙コップを片づけると、再び蛍が眠っている部屋の前へと戻った。
ベンチに座って待つこと数分。ついに蛍が廊下に出てきた。俺たちは蛍の元へと駆け寄った。
「大丈夫か!? 雨の中で倒れていたからびっくりしたんだぞ!」
たちまち俺の中に安堵の気持ちが広がっていく。
もし由依の言う通り持病を抱えているのなら、もっと身体を大事にしないと駄目じゃないか! ……安心したら、今度はそう叱り飛ばしたい気持ちも芽生えてきた。
「あなたが運んでくれたんだ。ありがとね。アタシも気づいたら病院の様子がいつもと違うんでびっくりしたよ。景色が全体的に古いからさー。って、そりゃそうか」
俺と由依はきょとんとした顔を見合わせた。蛍が何を言っているのか、よく分からない。もしかしたら意識がまだ朦朧としている状態なのかもしれない。
「ところで、なんだかすごい恰好をしているな」
俺は蛍の全身を眺め、驚きの声をもらした。
「替えの服を友達が持ってきているからって看護師さんから渡されて、着てみたらこんな服だった」
蛍の表情にも困惑の色が浮かんでいる。
蛍が身にまとっているのは、白と黒を基調とし、細部にレースのフリルをあしらったゴシックロリータ調の衣装だった。
とまどう俺と蛍をしり目に、由依は眼鏡の奥の瞳を怪しく光らせ、淡々と話し出した。
「可愛いでしょう? アンタと私とじゃ身長が違いすぎるし、サイズも合わないけど、それならスカート丈も長いから着られるだろうと思って。それに、その服は私が着るよりアンタが着た方が断然絵になるから。グッジョブ、私」
由依はすかさずスマートフォンを取り出し、ぱしゃりと写真を撮る。さすがの蛍もとっさには反応できず、声にならない短い悲鳴を上げた。
「これ、由依さんの嫌がらせでしょう!」
蛍は恥じらいを振り払うように赤い顔で抗議する。
まあ、元気そうだな。
由依とやり取りをする蛍の様子に、俺はようやく安心感をおぼえた。
〇
それから、俺と由依は病院を後にした。
「蛍。本当に送っていかなくて大丈夫か?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。お医者様ともうちょっと話してから帰るから、二人は先に行って。今日はありがとう。それから、心配をかけてごめんなさい」
蛍はそう言って深々と頭を下げた。
俺はさらに蛍に声をかけようとしたが、由依が何かを察したのか、軽く首を横に振って俺を制止した。
雨はもうすっかり上がり、夕焼け色の空が広がっている。
歩きながら、由依が俺にたずねてきた。
「なあ、礼。人が目の前から急に消えたと言ったら、礼は信じるか?」
「はあ? なんだそれ?」
「例えば、ただの女子高生が目の前で急に異世界に飛ばされたり、逆に異世界から現代世界にやって来たり。そういう話を礼は信じるか? ってこと」
由依は真剣な顔で聞いてくる。
俺はふっと微笑すると、由依を優しく諭した。
「それは由依が好きなアニメの世界の話だろ。現実と空想を混同しちゃいけない」
由依は真面目だけど、感性が独特だ。さっきの衣装にしたってそう。そういうところは由依はまだ幼い気がする。妹のようで可愛い由依の個性ではあるけれども。
由依はちょっぴり残念そうにうつむき、今度は拗ねたようにスマートフォンをいじり始めた。
「そうだよな。悪かった」
スマートフォンの画面を眺めながら、素直にうなずく由依。
由依が見つめる画面には、ただ無機質な病院の廊下が寂しく写し出されている。
たしかに撮ったはずの蛍の姿が消えていたなんて、俺が知るよしもない。
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