天野川蛍は約束する

第4章【1】

 どのくらい眠っていたのだろう。


 目を開けた途端、白い無機質な天井が視界に入り、アタシはいつもの病室に戻って来たのだと理解した。


 天井だけじゃない。壁もカーテンもすべてが白で統一された、他に色のない部屋。一人にしては広すぎるこの病室は、自分に特別に与えられたものだ。


 なぜって? それは、自分がこの総合病院の院長の娘だから。きっとお母さんが無理を通してこの部屋をアタシにあてがったに違いない。


 ベッドに寝かされていた上半身を起こそうとして、思わず咳きこむ。調子がいい時なら簡単にできる動作が、今は息苦しい。なんとか身を起こすと一度静止し、深く息を吐いて呼吸を落ち着かせる。


 仕切られたカーテンの向こうでお父さんの声がする。



 俺が医者になっていれば……。

 


 アタシは悲しい気持ちになる。


 お父さんはいつもそう。アタシの前では明るく振る舞うくせに、陰ではいつも負い目を感じている。


 お父さんはこの総合病院の事務員として働いている。それだって立派な仕事だ。それなのにお父さんは、自分が医者であれば、と後悔を何度も口にする。


 それでアタシの病気を治せるとでも思っているのか。はたまた、お母さんの仕事をもっと手伝ってあげられると考えているのか。どちらにせよ、今さら無理な話だ。


 だったらどうして初めから努力して医者にならなかったのかと、お父さんをなじりたくなる。元気な頃のアタシには「勉強しろ!」「時間を有効に使え!」とよく叱っていたくせに。


 アタシだってそれなりに努力している。その努力を認めてくれないのは、やっぱり悔しい。


 それじゃあ高校時代のお父さんはどのくらい努力していたのかと思って様子をのぞいてみたら、すごくマイペースで、自分だってたいしてしてないじゃん! て言いたくなった。


 それで「勉強しろ!」「医者になれ!」ってさんざん言ってやった、おかげですっかり気が晴れた。


 本当は医者になんかならなくてもお母さんと結ばれるのに、医者にならないと認めてもらえないみたいな嘘までついてしまった。これでお父さんが少しはやる気になってくれたらいいのだけど。


 ところで、お父さんの話し相手は誰だろう?


 また由依さんだろうか?


 由依さんはお父さんの幼馴染だ。


 お父さんとは仲がよく、私にもいつも優しく接してくれる。今となってはお父さんが愚痴をこぼせる唯一の相手だ。


 アタシは足をベッドの外に出すと立ち上がり、カーテンを開けた。案の定、お父さんと由依さんが椅子に座って話をしていた。


「蛍ちゃん。具合はどう?」


 アタシに優しい眼差しを向ける由依さんの顔が、夢の中で出会った女子高生の頃の由依さんの顔と重なる。もう黒縁眼鏡でもツインテールでもない。年はとったけれども、ずいぶんと綺麗になった。


 夢の中で、アタシは過去の世界にいた。


 そして、古い校舎の屋上で、由依さんはアタシの前でぼろぼろと泣きながらお父さんへの苦しい想いを叫んだ。


 他の同級生と結婚した今でも、きっとお父さんのことが好きなんだろうな。そう思うと複雑な気持ちになる。


 人を愛する気持ちは尊いものだ。


 けれども、結ばれない人に想いを寄せ続けて幸せになれるのだろうか? それとも、大人になればもう割り切れるものなのだろうか?


 高校生の私には、そういうのはまだ分からない。ただ由依さんを見ていると、切なく胸が締めつけられる。


「ありがとうございます。調子は悪くないです。それよりお父さん。お母さんは?」


「お母さんなら院長室で休んでいるよ」


 それを聞いて、アタシの心に不安が広がった。


 自分のことよりお母さんの状態の方が心配になる。お母さん、誰にもけっして弱さを見せないから。


 本当はお母さんが精神的に不安定になっていることくらい、娘のアタシはとっくにお見通しなんだけどな。そんなんだから、お父さんもお母さんに気を遣って、お母さんには愚痴をこぼさず由依さんに何でも話すんだよ。


 アタシは時々心配になる。


 お父さんとお母さんが愛情で結ばれているのは、なんとなく分かる。


 でも、二人はどこまで分かり合えているの? 夫婦なのに、お互い好き同士なはずなのに、二人の間に本当に距離はない? アタシは気がかりで仕方がない。


 アタシの暗い表情を気にかけてか、お父さんが微笑みかけてくれた。


「お母さんなら大丈夫だ。お前は自分の身体を治すことだけ考えていればいい」


 うん、とアタシは素直に答える。

 

 お父さんの気遣いはありがたい。でも、そうはいかない。


 自分のことだけ考えていればいい人生なんて、きっとない。


 お父さんのこと、お母さんのこと、由依さんのこと――少なくともアタシが迷惑をかけ続けている人たちには、この先いっぱい幸せになってほしい。


 そのためにアタシができることは何だろう?


 もちろん病気を治すことができれば、それがベストだ。けれども、お母さんがあれだけ躍起になっても難しいのだから、その望みはきっと薄い。


 だからアタシは考える。アタシがいなくなった後に、残された人たちが悲しまなくてすむ方法を。


 アタシは歩き出そうと足を出し、たちまちよろめいてしまった。すぐに二人がアタシを支え、ベッドに座らせてくれた。情けなくて苦笑する。こうも足に力が入らないとは思わなかった。歩くことすらできないなんて……。


 アタシが再びベッドに横になると、由依さんがそっと布団をかけてくれた。


 アタシは静かに目を閉じる。


 きっとアタシの命はもう長くない。


『生きたい』とどんなに強く願っても、アタシの夢はきっと叶わない。


 だから神様にお祈りする。




――どうかアタシの分まで、大切な人たちの夢を叶えてあげてください。


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