第3章【7】
家へと向かう車の中で、私は蛍との会話を思い出していた。
自由で天真爛漫で、裏表のない蛍。だから言いたいことを明け透けにぶつけてくる。おかげで別れた今でも心がざわついて落ち着かない。
――天華ちゃんて、本当は人と接するの苦手だったなって。こんなふうに私と話をするのも、本当は好きじゃないでしょ?
――素直に従わないと、後が怖いと思うんでしょう? でも、そうやって他人から与えられた役割を演じ続けていたら、いつか人間なんてみんな嫌いになるんじゃないかなって。
喫茶店ではずいぶん無遠慮なことを言われてしまった。しかも相手は確信を持っているのだから、たちが悪い。
勝気な瞳をきらきらと輝かせ、はっきりとした口調で堂々と言い放つ蛍の顔が思い浮かぶ。あの自信は容易には揺らぎそうにない。
蛍の言葉は、私に中学時代の記憶を蘇らせた。
けっして思い出したくない、私の黒歴史。
〇
中学時代、私は都内の女子校に通っていた。お嬢様学校として世間から認知されている、古くから名の通った名門校だった。
家から通うには遠かったが、送り迎えをしてくれる大人を母が手配してくれたおかげで、一時間以上かかる距離でも通うことができた。
駅からの桜並木を横目に見ながら正門をくぐった時の誇らしい気持ちは、今でも忘れられない。
生徒はみな優秀で、どんなに難しい問題でも当たり前のように解いてしまう。私はみんなが天才に思えた。そして、私はとんでもない場違いなところに来てしまったのではないかと不安になった。
母もまた私と同じ不安を抱いたようだった。
母は中学受験が終わっても私を塾に通わせ続けた。私の意志はたずねられなかった。私も当然そうするべきだと思っていたし、塾の効果もあって私は成績上位者に名を連ねることができていたから、中学生の私は母の方針に何の疑いも持たなかった。
事件が起きたのは中学三年生の時だ。
私は声楽部に所属していた。全国大会の常連校として有名だったため、部員が大勢いた。声楽部を目指してこの学校を受験した生徒も多かったのだ。
中高一貫校なので部長は高校三年生なのだが、中学生を取りまとめる『中学部長』という役職が別にあり、その役割を私が担うことになった。顧問の先生からのご指名を受けたのだ。先生に期待されているという事実が嬉しくて、私は張り切っていた。
しかし、それをよく思わない同級生がいた。
今でも名前を思い出したくないその人は、同級生であるにも関わらず、何かと私の上に立ちたがった。そして事あることに私に注文をつけてきた。
「真宮さん。最近仕事遅くない?」
「真宮さん。後輩たちがたるんでいるんだけど」
彼女が言葉にするのはたったそれだけ。ほんの一言、二言、誰も見ていないところで手短かに攻撃してくる。それだけでも責められた私は辛い気分に沈んだ。
しかし、彼女が私に向けた敵意は、そんな生易しいものではなかったのだ。
裏ではもっとひどいことをSNSに好き勝手に書かれていると知った時、私は驚愕した。そして、こんなにも悪意に満ちた人間がいるのだと知って、恐怖した。
しかも悪意は拡散していく。仲間だと思っていた人が私から離れていき、しだいに孤立していく。気づいた時には、私は一人、悪意の沼底に突き落とされていた。
先輩の中には私の状況に気づいて優しく接してくれる人もいた。しかし、それがかえって反対派の同級生たちの憎悪の炎に油を注ぎ、私への中傷は陰でさらにエスカレートしていく。完全に悪循環だった。
一方、母もまた私をさらに束縛した。
医学部を目指すならと専門の塾を見つけ、私を通わせた。私の意志は関係ない。すでに決定事項だった。
心に余裕があれば素直に感謝できたかもしれない。しかし、この時期は部活で心を痛めていて、母の思いやりをあまり嬉しく思えなかった。反抗期も手伝ってか、心が棘立って気持ちが悪い。とにかく休みたいの一心だった。
私には理解者というものがいなかった。完全に孤立して、どうしていいのか中学生の私には分からなかった。
私はしだいに人間というものがあまり好きではなくなっていった。
みんな自分の勝手な思いを満たすためだけに生きていて、人の気持ちを少しも考えない。そんなふうに思えて仕方がなかった。
ついに私は学校に通わなくなった。
はじめ母は私をなじった。学校に行かないなんてとんでもない。勉強が遅れたらどうするの。生まれて初めて母に怒鳴られたのもこの時期だ。
しかし母は、私の不登校の理由が部活動にあると分かると、学校に飛んで行った。そして顧問を呼びつけ、担任と喧嘩をし、ついには校長ともやり合った。
娘が不登校になった責任は学校にある。学校は娘に対していったいどう償ってくれるのか。詳しくは聞かされていないけれども、どうやらそんな話になったらしい。家に帰ってきた母はそうとう荒れていた。あんなに激昂している母を見るのも初めてだった。
あんな学校ならもう行かなくていい、と母は私の転校を決めた。
私の人生における大きな岐路であったにも関わらず、相談はされなかった。
寂しい気持ちはもちろんあった。けれども家族に迷惑をかけている後ろめたさもあって、私は何も言えず、ただ受け入れざるを得なかった。
こうして内部進学の道を断たれた私は、地元の南高校へと進学した。
〇
よほど疲れた顔をしていたのか、運転手の民安さんが気遣って声をかけてくれた。
「天華様。ご気分がすぐれませんか? もう少しゆっくり走りましょうか」
「ありがとうございます。大丈夫です」
もう過去に目を向けるのはやめよう。
これまでだって、何度も自分にそう言い聞かせてきたではないか。過去を振り返ったところで、暗い気持ちになるだけだ。
高校に入っても部活動をする気にはなれなかった。本当は生徒会長になるつもりもなかった。けれども他に立候補者もなく、私を後押ししてくれる同級生たちの勢いにもあらがえず、流されるまま大きな役職についてしまった。
内心びくびくしていたけれど、高校生ともなるとみな少しは大人になるのか、あるいは女子校とは女子の質が違うのか、過ごしにくさは感じなかった。
むしろ応援してくれる人の多さに驚き、私は少しずつ自信を回復させていった。おかげで今ではやってよかったと前向きな気持ちで取り組めている。
流れゆく車窓の外に目を向けてみる。
こんな雨の中、ずぶ濡れになりながら、雨合羽をかぶった人が猛スピードで自転車をこいでいる。よほど急ぐ事情があるようだ。
そう言えば、私に恋をしている男子がいる、と蛍が言っていたっけ。
どうやらその男子は私を七夕祭りに誘おうとしてくれているらしい。いったい誰だろう?
嬉しさよりも、申し訳ない気持ちの方が先に心に広がっていく。
だって、私が恋をするはずがない。
誰かを好きになるなんて、今の私には考えられない。
なぜなら、悔しいけれども蛍の言う通り、私は本質的にはあまり人を好んではいないのだから。
ようやく車が家に到着する。
雨の影響で道路が混みあっており、いつもより時間がかかってしまった。
建物の中に入ると、玄関で母が待ち構えていた。
「天華さん、ずいぶん遅かったですね。昼食はもう出来ていますから、早くすませてちょうだい。急がないと塾に間に合わなくなりますよ」
「分かりました、お母様」
私は母に素直に従うと、手洗い場へと急いだ。私のスケジュールは完全に母に管理されている。母の思い描く通りに動かないと、また機嫌を損ねかねない。
日曜日なのに父がいないのは仕事のせい? それともまた愛人のところ?
そう疑問に思ったけれども、口に出せるはずもない。
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