第3章【6】

 十二時。アタシは天華ちゃんと一緒に喫茶店を出た。


 ロータリーにはすでに天華ちゃんの迎えの車が待っていた。見るからに高級そうな黒い大きな外国車だ。


 グレーの髪をした運転手のおじさんが差し出す傘に入り、車の中へと促されていく天華ちゃん。小さく手を振る天華ちゃんは清楚でお嬢様らしくて可愛くて、どこか儚げに見えた。


「この雨だもの。送っていくわ」


「ううん、いいの。電車に乗って帰るから」


 アタシは嘘をついて、天華ちゃんと別れた。車の中から遠慮がちに小さく手を振る天華ちゃんに、アタシは大手を振ってみせる。


 本当ならこのまま帰ってもよかったんだけど、雨の香りも久しぶりだったから、もう少し外にいることにした。


 いつもは閉ざされた病院の一室で過ごすばかり。気分転換にはもってこいだ。駅構内の濡れない場所から、そっと空を見上げてみる。すべてを洗い流してくれそうな激しい雨。こんな雨になら、かえって打たれてみたい気がした。身体全体で雨を感じたいとアタシは思った。


 天華ちゃんとは一時間くらいしかいられなかった。


 それでも、すごく楽しかった。


 天華ちゃんはアタシの憧れ。大切な存在。だから絶対に守りたい。


 けれども天華ちゃんはガードが堅くて、なかなか本心を打ち明けてはくれなかった。

 

 SNSの中の天華ちゃんの方が、案外素直に本音を垣間見せてくれていた気がする。直接会った方が話しやすいと思いきや、そうでもないらしい。不思議だけど、面と向かわず距離をとった方が、天華ちゃんはかえって心のありのままを話しやすいのかもしれない。


 アタシは逆だ。なんでも文字に起こすのが面倒だし、行間を読むのも苦手だ。直接会って話した方が誤解を生じなくて済むし、相手の反応も見て分かるから気が楽だ。


 でも天華ちゃんは違う。喫茶店での天華ちゃんは隙がなく、本音を上手に隠し、常にアタシを気遣って話していた。


 きっと学校でもそうなんだろうな。


 生徒会長として前に立つ天華ちゃんは、いつも凛として美しく輝き、誰からも慕われ憧憬を集める存在だ。たとえ苦しいと思うような場面でも、明るく前向きな笑顔で対処してしまうに違いない。


 天華ちゃんは自分で何でもできてしまう人だ。そして、密かに他人を怖れている。だから誰かに頼ったり救いを求めたりするのが下手で、一人で抱えてかえって自分を追いつめてしまう。



――苦しい時は、誰かを頼ってもいいんだよ。



 アタシはその一言を伝えるために、天華ちゃんに会いに来た。この想いだけは、きちんと伝わってほしい。


 駅の改札前に一人立ち、道行く人を眺めてみる。


 きれいな女子大生や、スーツ姿のおじさん。リュックサックを背負った低学年の小学生。みんなどこに行くのだろう? 


 そして、アタシはどこに行けばいいのだろう?


 行く当てもなく立ち尽くし、雨空を眺めながら、喫茶店での天華ちゃんの様子をそっと思い起こす。

 

 さっきの天華ちゃんの反応、可愛かったな~。

 

 アタシは天華ちゃんにある事実を告げた時の可愛らしい反応を思い出し、一人でにやけた。


   〇


「ところで天華ちゃん。天華ちゃんって、誰かに恋をしたことある?」


「ええっ? ないよ、そんなの」


 透き通るような頬をほんのり朱に染め、困ったように否定する。意識して装ったのでない、素の反応だった。


 きっと誰かと恋の話なんてしたことないんだろうな。そう思うと、アタシが天華ちゃんの初めての人になれた気がして嬉しかった。


「実は、天華ちゃんのことを七夕祭りに誘おうとしている男子がいるの、アタシ知ってるよ。きっと天華ちゃんのことが好きなんだね」


 その人はきっと天華ちゃんの苦しみを理解し、救ってくれる人。


 アタシとはたまに衝突するけど、でも実はアタシも頼りにしている大切な人。


 天華ちゃんは赤い顔でうつむき、ぽつりと言葉をもらす。


「そうなんだ。でも、私は行かないかな。塾もあるし」


 しかしアタシはその言葉を聞き入れない。


「ううん、天華ちゃんは絶っ対に行くべきだよ! その人はきっと天華ちゃんの孤独な心を温めてくれる。天華ちゃんみたいにしっかりしてはいないけど、優しくて、案外頼りになる人なんだ。彼なら天華ちゃんの未来を明るく照らしてくれるはずだから」


 そう声に出して、アタシは思わず涙が出そうになった。


 実際には、彼らの未来はけっして明るいものとは言えないだろう。なにせアタシがこんなんだから……。


 でも、アタシの知る未来に至る過程には、きっと綺麗で美しい二人だけの物語がたくさんあったはずだ。一度きりの人生を鮮やかに彩る二人だけの思い出の数々がたくさんあったはずだ。


 だから、天華ちゃんにも素敵な恋をしてほしい。この先ではなく、今、一人で苦しい思いを抱えている高校生の天華ちゃんに恋をしてほしい。


 そして、人を怖れず、天華ちゃんが信頼を置ける優しい存在がそばにいることに早く気づいて、傷ついた心を癒してほしい。


 天華ちゃんは驚いたように目を丸くする。


「蛍ちゃんて不思議ね。まるで私の未来が分かるみたい。どうしてそう言えるの?」


 アタシは言葉に窮する。


「分かるよ。だってアタシ……」


 でも、それ以上は言えなかった。


 できることならアタシだって声の限り叫びたい。真実をありのままに告げてしまえれば、どれほど楽になるだろうと思う。


 けれども、それをしてしまったら、さらに天華ちゃんを追いつめ苦しめてしまう。だから、真実はアタシの胸の中にとどめておこう。アタシが苦しむ分には構わない。


 やがて天華ちゃんに迎えの連絡が入り、アタシたちは喫茶店を後にした。


   〇


 さて、と。


 アタシは駅の構内から踏み出し、外に向かって歩き出した。


 雨はしとどに降り続き、勢いが弱まる気配はない。


 でも、アタシにはそれでよかった。雨を身体で感じたいのだから。


 行く当てなどない、雨に打たれるための歩行。激しい雨がアタシを叩きつけ、髪も制服もたちまちびしょ濡れになる。


 息が苦しい。けれども、こういう仕打ちがこんなアタシにはお似合いだ。


 歩きながら、アタシはお母さんと過ごした温かい日々を思い出す。


 幼い頃から、本を読んでいても文章を書いていても、庭を走り回っていても、お母さんはアタシをよく褒めてくれた。


「蛍。なたには無限の可能性がつまっているの。あなたが強く願えば何だって叶うのだから、あなたの意志を大切にしなさいね」


 お母さんはそう言ってアタシを抱きしめ、あるがままを受け入れてくれた。


 幼稚園の時、アタシは母の日にイラスト付きの手紙を描いた。


「おかあさん。いつもありがとう」


 クレヨンで元気いっぱいに描いた似顔絵は、とうていお母さんには似ていなかったけれど、アタシは一生懸命心をこめて完成させた。


 得意げになって手渡すと、お母さんは幸せそうな優しい顔でとても喜んでくれた。アタシも嬉しかった。


 お母さんは若くして総合病院の院長を引き継いだ女医だった。


 責任感が強く、院長でありながら率先して仕事の最前線に携わり、多くの患者さんの信頼を集め、他の医師からも求められるお母さん。その名声は高く、マスコミにもたびたび取材され、常に注目を浴びていた。


 甘えたい盛りの幼いアタシは、お母さんを独り占めできなくて悲しかった。けれども成長してお母さんの立場が分かるようになると、アタシも自立しようと心がけるようになった。


 アタシからは少し離れた医療の現場で輝き続けているお母さんは、アタシにとってもまぶしい、憧れの存在だった。


 たとえお母さんのようにはなれなくても、せめてお母さんに褒められるようになりたい。少なくとも迷惑をかけないようにしよう。アタシは密かにそう誓った。


 それなのに……。


 お母さんが、自分にも救えない大切な命があると知った時。


 その時から、お母さんの様子が少しずつおかしくなっていった。

 

 アタシの前では何事もないかのように気丈に振る舞うお母さん。けれども強がりな性格ゆえに、お母さんはかえって苦しい胸の内を誰にも打ち明けられず、孤独になってしまう。お母さんの様子がしだいに暗くなっていくことに、娘のアタシが気づかないわけがない。


 お母さんには早く元気になってもらいたい。そして、春の陽だまりのようなあの温かい眼差しをまたアタシに向けてほしい。アタシは今でも強くそう願う。


 視界がだんだんぼやけてきた。


 顔がびしょびしょに濡れてひどい有り様なのは、けっして雨のせいだけじゃない。


 気づけばアタシの目からは大粒の涙が止まらなくなっていた。


 ごほっ、ごほっ。またしても咳が出てきて、アタシはさらに息苦しくなる。


 身体が言うことを聞かず、足も重くなってきて、アタシはうずくまってしまう。


「お母さん……お母さん……」


 とうとうアタシは歩くのを諦め、その場に倒れ伏した。


 無情な雨が倒れたアタシを容赦なく叩きつけ、身体をむしばんでいく。


 いい気味だった。


 アタシは眠るように目を閉じる。もう何の気力も沸いてこない。



「蛍ッ! おい、しっかりしろッ! 蛍ッ!!」



 遠のく意識の中で、何度もアタシの名を叫ぶ声を聞いた気がした。


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