第3章【4】

 日曜日。

 

 昨晩からの冷たい雨は今もなお降り注ぎ、暗い街を静かに湿らせていく。

 

 真宮天華は喫茶店の窓側の席に座り、人を待っていた。

 

 白いシャツに薄手のカーディガン、紺のロングスカート。茶色い革のショートブーツ。けっして今風の可愛らしい服ではないと自覚している。けれども、落ち着いた衣装の方が目立たなくていい。


 全国に展開しているチェーン店ではなく、地元に古くから根づいている品のいい喫茶店。時々家族に連れられて利用したことのある店だ。店内にはジャズが流れ、明るすぎないライトがかえってモダンで洗練された雰囲気を醸し出している。


 ここなら同級生に会う心配はない。そう考えて天華が指定した店だったが、見わたすとご年配の方が数名。若者の姿はなく、かえって浮いていないかと、ちょっと心配になる。


 雨に濡れた窓の景色をぼんやり眺める。


 あの子はいったいどんな格好でくるかしら?

 

 店員さんがティーポットを運んでくる。そして目の前で傾けて見せると、ティーカップに紅茶を注いでくれた。

 

 どうぞごゆっくり、という声に軽くお辞儀をし、紅茶にミルクと砂糖を加える。疲れ気味の脳には甘い紅茶の方が染みわたる。ティースプーンで混ぜ、口に運ぶと、柔らかい優しい味が広がった。

 

 腕時計に目をやる。淡いピンクの文字盤の上で、時計の短針がまもなく十一時を指している。まもなく約束の時間だ。


 そろそろ来てもよさそうだけど……。


 天華は店内を見渡してみる。もう何度そうしただろう? 落ち着かない。


 母に頼んで捻出してもらった時間だった。本来なら家で勉強していなければならない。午後からは塾の授業も始まってしまう。だから、あまりゆっくりもしていられない。


 友達と喫茶店に行くと母に告げたら、渋い顔をされた。遅れた分は後でちゃんと取り返す。そう固く約束させられて、ようやく解放された。


 もう高校二年生なのだから、もう少し娘を信頼して自由を与えてくれてもよさそうなものだけど。母はとにかく私を管理したがる。


 それも母親の愛情表現、と自らを納得させて、もう一度紅茶を口にふくむ。少し砂糖を入れすぎたかもしれない。思いのほか甘くなってしまった。


 扉の鈴がカランと音を立てる。私も顔を上げ、音のした方を見やる。


 すると、私を呼び出した張本人、天野川蛍が私を見つけて表情を明るくした。


「天華ちゃん、お待たせ。もしかして待った?」


 蛍は駆けこむように席に座る。


「ううん、私も今来たところ」


 つい調子を合わせてしまう。目の端でそっと腕時計を確認すると、約束の時間ぴったりだった。つまり蛍には少しも非はなく、問題なのは私の方。


 人に誘われるなんてめったにないから緊張する。


 蛍に誘われたその日から、ずっと心が落ち着かなかった。今日だって服選びからそわそわしてしまって、二十分も早く喫茶店に着てしまった。


 それなのに。


「蛍ちゃん、日曜日なのに制服なの?」


 蛍はいつもと変わらず制服のままだった。


「そうだよ。これが一番しっくりくるからね」


 平然と蛍は言う。


 もしかしてこの後部活でもあるのかもしれないと思い、たずねてみたら、「ないよ」と即答されてしまった。どんな服を着ていけばいいのか、なかなか決断できずにいた私の方が馬鹿みたいだ。


「天華ちゃんの私服、可愛いね」


「そ、そう? ありがとう」


 思った通り、休日に女の子と会うと必ず私服の話題になる。この後何を言われるのだろうと、私は内心ハラハラする。


「その服、天華ちゃんによく似合ってる。そういうシンプルな服だと、天華ちゃんの素材のよさがよく映えるね。もしかして天華ちゃん、自分のプロポーションに自信を持ってる? そうじゃないとなかなか着れないよ、そういうの」


 蛍はカラカラと笑う。きっと悪気はないのだろうけど、私の心は少しざらついた。私は両手を小さく振り、慌てて否定する。


「ううん、そんなことない。蛍ちゃんの方がスタイルいいし」


 実際、蛍はスリムで恰好よかった。身体のラインがくっきり出るような細身の衣装だってきっと似合ってしまうに違いない。


 蛍は爽やかな笑みを振りまいている。素材がいいのはむしろ蛍の方だ。体型だけでなく、笑顔もはつらつとしてまぶしくて、抜群に可愛いと私は思う。


「ごめんごめん。こういう話、天華ちゃん苦手だったよね」



――え? 



 蛍の急な謝罪に、私はとまどう。


 蛍の力のある目がまっすぐ私に向けられている。なんでも見透かされそうな、澄んだ瞳。私は思わずたじろぐ。


「どうしたの? 蛍ちゃん」


 私の中で不安感がむっくりと立ち上ってくる。


「いやね。天華ちゃんて、本当は人と接するの苦手だったなって。こんなふうに私と話をするのも、本当は好きじゃないでしょ?」


 頭をガツンと殴られたような衝撃って、きっとこういうのを言うのだろう。天野川蛍は嫌な子だ、と改めて認識する。


「そんなことないよ。どうしてそう思うの?」


 私は体裁を取り繕い、ティーカップを口に運ぶ。手が震えそうになるのを、なんとかこらえる。


 ふいに、中学校の頃の嫌な思い出が脳裏をかすめる。


 けっして思い出したくない、暗い記憶。


「だって、初めてアタシと会った時も、ちょっと無理している感じがあったし。それに由依さんともうまくいってないんでしょう? だから塾を理由に生徒会の活動をなるべく控えて、あまり顔を合わせなくてすむようにして。そういう様子を見ていると、本当は人と接するのが苦手なんだろうなって」


 私は驚きのあまり大きく目を開いたまま硬直した。


 蛍がどうして私の心の深層に容易に踏みこめるのか、不思議だった。


 私は高校ではそれなりにうまくやれていたはずだった。


 蛍はどうして私が無理をしていると感じたのだろう? 


 いきなり名前に「ちゃん」をつけて呼んだから? 


 蛍と初めて出会った時、彼女は危険だと私は直感した。初めから馴れ馴れしかった蛍に、しぜんと警戒心を抱いたのかもしれない。


 だから私が蛍に「ちゃん」づけで呼んだのは、親しみの情の表れというよりも、自己防衛の本能が働いたためとも言えた。


 とにかく、私はこうして蛍との良好な関係を築いたはずだった。


 しかし蛍は奪い取った礼のスマートフォンを介して、こう連絡を寄こしてきた。



――『苦しいことがあったら何でも言ってね』



 びっくりした。


 まだ出会ったばかりなのに、私の秘密をいきなり暴かれた気がした。そんなそぶり、一度だって見せたことはないのに。

 

 もちろん、蛍の社交辞令の言葉に過ぎないのかもしれない。誰に対しても同じ言葉を伝えている可能性だってある。


 ただ、私の苦しみに目を向けて気遣うような言葉を発してきたのは、蛍が初めてだった。


 他の人たちはみな、私がいつも完全に満たされていて、苦しみなど微塵もないように思いこんでいる。


 それでついSNSを通して蛍に軽い悩みを送ってしまった。生徒会の女の子とあまりうまくいっていないって。そういう話を蛍が欲しているように感じたから。


 それから数日暗い会話が続き、ついに『ちゃんと会って話がしたい』と送られてきてしまった。


 だから今、私は蛍とこうして対峙している。

 

 蛍が注文したオレンジジュースが運ばれてくる。蛍はそれを嬉しそうに受け取り、飲んでは美味しそうに頬を緩める。


 彼女は天真爛漫で、自由を楽しんでいる。私には真似できない生き方。ちょっとうらやましい。

 

 私が否定しないで黙っていると、蛍はさらに言葉を重ねた。


「天華ちゃんの大変さはアタシにも分かるよ。医者になるのは親の願望だから。生徒会長になったのは、みんなにそう望まれたから。素直に従わないと、後が怖いと思うんでしょう? でも、そうやって他人から与えられた役割を演じ続けていたら、いつか人間なんてみんな嫌いになるんじゃないかなって。そう思っただけ」


 蛍はひとしきりしゃべると、ずずっ、とオレンジジュースを飲んだ。


 こんな女の子は初めてだ。


 たいていの女子は面と向かっては言わず、陰で何人かと盛り上がる。一対一でこんなに無遠慮にずけずけと言葉をぶつけてくる女の子は、少なくとも私の周りにはいない。


 言い返さないといけない。そう直感が働いて、私は蛍ときちんと向き合う。緊張で身体が少し強張る。


 蛍の顔は確信に満ちていて、輝いて見える。


 けれども、蛍の目から見えている世界が、本当の世界の真実とは限らない。


 私は蛍の気分を害さないように気を配りながら、やんわりと否定する。


「ううん、そんなんじゃないわ。たしかに医者を目指しているのは、生まれた環境によるところも大きいけど、私も本当になりたいと思っているの。それに、生徒会長にしてもそう。自分から立候補したんだもの、誰かに望まれた役を演じているつもりはないわ。それに、私のことを応援してくれる人たちだってたくさんいるから。誰も嫌いになんてならないよ」


 私は同意が得られるよう、蛍に微笑みかけてみる。


 半分は本当で、半分は嘘。


 たしかに蛍の言う通り、他人が怖くて嫌いになる時もある。そうした暗い気持ちが土台になって、私の行動が形作られている面もあるだろう。


 けれども、私だって何でも従順に従っているわけではない。受験勉強にしろ生徒会長の仕事にしろ、たとえ与えられたものであっても、やり切れば達成感だって得られるし充実した気持ちにもなれる。


 それに、応援してくれる人たちがいるのも事実。だから私は頑張れる。


 蛍はオレンジジュースをすすりながら、きょとんとした顔を私に向けた。オレンジジュースは早くも残り少なくなっていた。


 「そっか。ならいいんだ」

 

 よかった。蛍の方から引いてくれた。


 緊張の糸がほぐれ、肩からすっと力が抜けていくのを私は実感した。

 

 蛍はふと窓の外を見やった。


 雨脚はしだいに強さを増し、窓を激しく打ちつけている。雨粒によってゆがんだ世界が窓の外に広がっていた。


 蛍は再び私に向き直り、おもむろに語り始めた。


「アタシのお母さんはね、アタシの意志をすごく尊重してくれるんだ。『あなたが強く願えば何だって叶うのだから、あなたの意志を大切にしなさい』って、いつもそう言ってくれる。でもね、それはお母さんが過去にあまり自分の意志を尊重されてこなかったからみたいなんだ。だから娘のアタシには、自分の意志を大切にしてほしいんだって」


 自分に注がれた愛情を噛みしめるように蛍は言う。


 私は蛍のお母様に共感をおぼえた。


 自分と同じ苦しみを娘に味わってほしくないという、お母様の温かい愛情が感じられる。きっと優しい方なのだろう。


 そして同時に、なぜ蛍がこうも自由奔放にあけすけに発言できるのかも分かった気がした。


 蛍はきっと家庭であまり否定されてこなかったのだ。蛍が放つどんな言葉でも肯定され、どんな意志でも尊重され受け入れられた。だからこうも自由に、何でも自分が正しいように振る舞えるのだろう。


「素敵なお母様ね」


「でしょう! アタシ大好きなんだ、お母さんのこと!」


 蛍は屈託のない満面の笑顔で母への好意を表現した。


 正直、うらやましいと思った。私はこれほど純粋に母への好意を示せるだろうか? 胸が切なく締めつけられる。


 さりげなく時計に目をやると、思ったより時間が経過していた。遅くとも十二時にはお店を出ないと。


「蛍ちゃん。今日私を呼んだのは、こういう話をするため?」


 もし他に本題があるのだったら、早く切り出してもらわないと。少しでも遅れると、母が何と言って私をとがめるか分からない。


 すると蛍は瞳に強い光を宿し、はっきりとした口調で言った。


「天華ちゃん。あんまり自分を追いつめすぎないで。その性格が将来きっと大変な事態を招いてしまうから。苦しい時は、誰かを頼ってもいいんだよ。今日はそれを伝えに来た」


 未来のことなんてだれにも分からない。


 それなのに、蛍はきっぱりと断言して少しも揺るがないでいる。


 その確信はいったいどこから来るの? 


 聞いてみたかったけど、蛍があまりに悲しそうな顔をするから、何も言えなくなってしまった。


 ただ、彼女は心から私のことを気遣ってくれている。


 その温かい気持ちだけは、ちゃんと伝わってきた。


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