第3章【3】

 灰色の雲が空に重たく広がっている。今にも降り出しそうな空模様だ。

 

 天気予報では梅雨入りが報じられていた。この先あと一週間は雨続きかもしれないと思うと、憂鬱な気分になる。


「雨が降らないうちに帰るとするか」


 スクールバッグにノート類を適当に詰めこみ、帰り支度を急ぐ。置き傘もしていなければ、折りたたみも持参してはいない。雨に降られてはたいへんだ。


「なんだ、礼? 今日は生徒会はないのか?」


 海斗もまた後ろの席で、俺と同じようにボストンバッグに荷物を適当に放りこんでいる。海斗はこの後部活があるようだ。


「ああ。生徒会の仕事は一段落したし、今日はエントランスに寄ったら帰る」


 現在エントランスには七夕の短冊が置かれている。


 生徒は短冊に願い事を書き、用意された提出用の箱の中に収める。それを生徒会がとりまとめ、笹に飾りつけていく。


 天華曰く、れっきとした生徒会の仕事なのだそうだが、俺は教員に雑用を押しつけられたのではないかと疑っている。


 短冊を一人で用意してしまったと天華に告げると、彼女はきれいな瞳をさらに輝かせ、感嘆の声をもらした。


「礼が全部一人でやったの? すごいじゃない」


「別に暇だからやっただけだ。たいしたことじゃない」


「そんなこと言って、けっこう大変だったでしょう? やっぱり頼りになるわね、礼は。ありがとう」


 天華は優しい微笑みを浮かべながら俺に賛辞の言葉を送ってくれた。こんなに素直に喜んでくれるなら、たとえ雑用であってもやってよかったと心から思えた。


 短冊は今朝になってエントランスに設置した。だからまだ提出は少ないだろうが、どんな様子か気になっていた。


 海斗と二人で教室を出る。俺はエントランス、海斗は体育館。行く先はそれぞれ異なるが、気持ちが急いているのは二人とも同じだ。


「そういや今年の七夕祭りはどうするんだ?」


 海斗がふいに思いついたようにたずねてきた。


「七夕祭り?」


 地元の神社では毎年七夕祭りが開催されている。


 周囲の商店街が盛り上げようと積極的に参加しており、この辺りでは一年を通じて最も盛大なイベントだ。出店も多く、浴衣姿の男女でにぎわい、華やぐ初夏の風物詩として地元の人たちから愛されている。


 廊下を歩きながら、海斗が急に俺の首に右腕を回してきた。


「なあ、礼。今年一緒に七夕祭りに行かないか?」


「行かない」


 俺は即答した。なぜ俺がそんな面倒なことをしなければならないのか。まして海斗と二人きり。俺にその気はない。


「つれないなあ。俺たち親友だろ? 俺と礼と真宮と小笠原。四人で行けば楽しいと思うけどな」


 俺はエントランスに差しかかる廊下の角を曲がろうとして、立ち止まった。


 それは確かに楽しそうだ。


 俺の心が揺れるのを察してか、海斗がさらに攻勢に出る。


「真宮の浴衣姿、見てみたくないか? きっと綺麗だぜ。見ないと一生後悔するかもな」


 俺の耳元で海斗が誘うようにささやく。


 天華の浴衣姿なら、海斗に言われるまでもなく綺麗だろう。いったい天華はどんな浴衣を選ぶのか。髪はロングのままなのか、それともアップに束ねるのか。天華が浴衣姿で参道を歩けば、きっと誰もが振り返ってしまうに違いない。


 しかし一方で、勝手な妄想に流されない冷静な俺もいる。


「いや、由依は誘えば来るかもしれないけど、天華はきっと来ない」


 天華はいつも塾で忙しそうにしている。七夕祭りは期末試験後とはいえ、土曜日に開催される。天華のことだ。午後の授業がない土曜日は塾へと早くに出かけ、夜遅くまで勉強しているだろう。


 だが海斗も簡単には引かない。


「いいか、礼。考えてもみろ。俺たちの青春が何事もなく終わっていくのを、ただ指をくわえて見ているだけでいいのか? 真宮との仲が深まるかもしれない一大イベントを、行動すら起こさず無駄にしてしまっていいのか? いいワケないよなっ! とりあえず真宮を誘ってみようぜ! 当たって砕ける後悔は、当たらないで砕けもしない後悔よりも気分が晴れるってもんだ! いざ行かん、七夕祭りへ!」


「その話だと、どのみち俺は後悔することになるな」


 しまった、と悪びれずに笑う海斗。海斗にしたって、俺が天華に当たったら砕けると思っているのだろう。嘘でもいいから、俺が後悔しないですむ希望にみちた話が聞きたかった。


 海斗は体育館に続く廊下をまっすぐ進み、俺はエントランスへと角を曲がる。海斗とはここでお別れだ。


「とにかく、真宮と小笠原を誘っておいてくれ! 頼んだぞ、礼!」


 海斗は快活にそう叫ぶと、廊下を駆けていく。


 やれやれ、と俺は肩をすくめる。そう一方的に頼まれてもね。


 まもなくエントランスが見えてきた。


 そして、今度は神出鬼没なあの女子が俺を待ち構えるように立っているのを見つけた。


 相手もまた俺の姿を見とめると、いつもの勝気な顔でにっと口角を上げた。


「げっ、天野川蛍」


 俺は会った瞬間うなだれた。もう嫌な予感しかしない。


「なにその対応。失礼ね」


 蛍は不満げに腰に手を当て、怒ったように白い頬をふくらませる。


「行けばいいじゃない、七夕祭り」


「聞いていたのか」


「あれだけ大きな声で話していれば、聞こうとしなくたってしぜんに耳に入ってくるよ」


 蛍が苦笑する。それもそうか、と俺も納得する。海斗が大きな声ではしゃぐからいけないのだ。


「アタシからもお願い。ぜひ天華ちゃんを誘ってあげて。天華ちゃんには羽を伸ばす日が必要なんだ。そうしないと、きっと息がつまっちゃうから」


「まるで天華のことが分かっているみたいに言うんだな」


「そりゃあね。天華ちゃんはアタシの大切な人だから。すべてとは言わないけど、だいぶ理解してはいるつもり」


 どこか誇らしげに胸を張る蛍。その自信はどこから来るのだろう? 天華と蛍が出会ってまだ数日のはずだ。いつの間にそんな深い仲になったんだ?


「それより」


 蛍がふいに俺に疑いの目を向けてきた。


「大丈夫? 意気地なしで面倒がりなあなたにちゃんと天華ちゃんを誘える? アタシがついていてあげようか?」


「余計なお世話だ。それに、まだ七夕祭りに行くと決めたわけじゃない」


「ほらそういうトコっ! やっぱり意気地なしで面倒がりじゃん!」


 蛍がもう目も当てられないと大げさに嘆いてみせる。悔しいが、何も言い返せない。


 蛍は怒ったような目で俺をにらんだかと思うと、にこっ、と急に表情を変えた。爽やかな笑顔だった。


「大丈夫! 天華ちゃんだって、きっとあなたから誘われたら悪い気はしないって。天華ちゃんへの恋に進んでいきたいんでしょう? だったら自信を持って!」


 純粋な励ましに俺はとまどってしまう。


 思えば蛍と初めて出会った日もそうだった。


 俺に天華への恋を諦めるなと説き、思いが届くと信じて頑張れと励ましてくれた。


 なぜだろう? 


 海斗すら俺には無理だと思い、自分自身でさえあまりの不釣り合いさに諦めかけている天華への想いを、なぜこうも蛍は一途に応援し続けてくれるのだろう。



――まあね。あなたと天華さんが結ばれてくれないと、こっちも困るわけだし。



 今さらながら、蛍の言葉が引っかかる。蛍の魂胆がまるで分からない。

 

 ただ、こうして俺を励まし応援してくれる存在がいるという事実は、俺の気持ちを明るくしてくれた。

 

 蛍は短冊が置かれた机に近づくと、何色もの短冊を手にし、俺に示した。


「あなたは何色の短冊がアタシに似合うと思う?」


 蛍は俺を試すような、期待感に満ちた瞳を光らせている。俺は少し考えてから答えた。


「赤かな」


 まさか蛍の挙動からレッドカードが思いついた、とは言えない。


 蛍は赤色の短冊をまじまじと見つめた。


「赤かー。情熱の色、目標達成の色だね。いいかも! じゃあ赤にする!」


 幼い子どものような無邪気さで蛍は喜ぶ。色占いで判断するあたり、いかにも女子という感じだ。


 蛍はペンを手にし、願い事を書こうとしている。


「んー、なんて書こうかなー」


 すると、そこに由依が姿を現した。


 由依は蛍の姿を目にすると、いきなり声を荒らげた。


「ちょっとアンタッ!」


 蛍は声に飛び上がり、大きく目を見開いた。


「やばっ! アタシ、そろそろお邪魔するねっ!」


「こら、待ちなさい!」


 由依の制止など聞くはずもなく、蛍は慌てて逃げていく。駆け足は早く、運動が得意ではない由依ではとうてい追いつきそうにない。


 蛍は距離を取ると一度振り返り、俺に大きく手を振った。


「またねーっ!」


 そして再び逃げていく。笑い声が混ざり、案外楽しそうだ。

 

 どうやら由依もまた蛍の被害にあっていたらしい。憤然とした様子で腕を組み、眉を吊り上げている。

 

 そして、むすっとした顔を俺に向けた。


「……それで、あいつ礼に何か言ってなかった?」


「何かって?」


「私のこと」


 不機嫌そうにつんと鼻を高くして、由依はたずねる。


 俺は首を横に振った。


「いや、由依のことは何も。勉強しろってうるさいけどな」


 すると由依はほっとしたように表情を和らげた。


「そう。それならいい」


「いや、よくないだろ」


 それから二人で短冊の提出用の箱を開けてみた。すでに中に入っていた数枚を取りまとめ、由依が大事に保管する。それから、用務員の人が笹を持ってきたら飾りつけよう、と二人で確認し合った。


 由依ももう帰ると言うので、二人で昇降口までやって来る。それぞれ靴を履きかえ、再び落ち合う。


 外はあいかわらず灰色の雲が広がり、いつ振り出してもおかしくない空模様だ。


「礼。傘持ってる?」


「いや、持ってきていない」


「私、折りたたみ持ってるから、雨が降ってきたら入れてあげる」


「そっか。ありがとな」


 俺と由依は横に並び、一緒に校舎を後にした。


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