第3章【2】
天華に「明日から」と言われても、放課後になると俺はいつも通り生徒会室に来ていた。
天華は塾。由依は欠席。
となれば、必然的に俺はただ一人この生徒会室を独占できる。
学校という公共の場で、自分だけの隠れ家的なスペースを持てるというのは、なんという贅沢だろう。
俺は登山部の備品調査の際に教わったコンパクトバーナーでケトルに火をかけ、湯を沸かした。そしてドリップタイプのコーヒーのフィルターの口を開け、湯を注ぎこむ。コーヒーの芳醇な香りがたちまち生徒会室に広がり、俺の鼻をくすぐった。
俺はあらかじめ用意していたミルクと砂糖を入れ、マドラーでゆっくりとかき回すと、熱々のマグカップを慎重に口へと運んだ。
「はあ~、至福」
コーヒーを味わいながら、俺は独り満足する。
普段は仕事に追われるだけの殺伐とした生徒会室で、日常から解放され、一人優雅にコーヒーをたしなむ背徳感が、味わいをさらに深く格別なものにする。俺は目を閉じ香りを楽しみ、コーヒーを口に含んで愉悦にひたった。
心ならずも、次の仕事が舞いこんできてしまった。
だったらなおのこと、束の間のこの休息を贅沢に味わおうじゃないか。
俺はスクールバッグから漫画を取り出した。ある黒ずくめの組織によって小学生の姿に変えられた高校生探偵が、事件の真相を暴いていく国民的な人気作品だ。最近発売された新刊を、俺は海斗から借りていたのである。
俺は椅子にふんぞり返り、手にした漫画を広げた。ああ、極楽。
その時だった。
突如として生徒会室の扉が騒がしく開け放たれ、招かれざる客が、俺の優雅な非日常をぶち壊しにやって来た。
「はいはい。あなたが持つのはこっちね」
「天野川蛍ッ!?」
蛍は俺の手から漫画をひょいと取り上げると、代わりに英単語帳を俺に持たせた。
唖然とする俺にお構いなく椅子にどっかと座りこむ蛍。さらに目ざとく机上のコーヒーを見つけた。
「へえ、今日はドリンクのサービスもあるんだ。あなたにしては気が利くじゃん。アタシにも入れてよ」
「へっ。誰がお前になんか何か入れてやるか」
すると蛍は頬をぷっくりと膨らませ、がばっと立ち上がると生徒会室の扉を勢いよく押し開き、大きな声で叫んだ。
「先生、大変でーすっ! ここでコーヒーを飲みながら漫画を読んでいる生徒がいまーっ、フガッ!」
「分かった分かった。入れてやるから」
俺は蛍の口をなんとか塞ぐと、蛍の身体を生徒会室に引き入れた。背丈の割には案外身体が軽いのな。
蛍はムスッとした顔で俺に問いただした。
「……入れてやる?」
「いえ、入れさせていただきます」
「たいへんよろしい。入れたまえ」
満足げにうなずく蛍。どこまでも調子に乗る奴だ。
俺が再び湯を沸かしてコーヒーを入れている間、蛍は奪い取った漫画に真剣に見入っていた。
こいつ、静かにしていれば美人なんだけどな。
蛍はどことなく天華と通じるところがある。特に目元のあたりが似ている気がする。すべてを見透かすように澄んでいながら、時おり好奇心を映し出すように輝く瞳。
性格こそ天華は控えめで、蛍は勝気と対照的ではある。だが、蛍がどことなく漂わせている品のよさは、不思議と天華に重なる。品性は美人の共通項なのだろうか。
きっと蛍も育ちがいいんだろうな。蛍の白い肌を目にしながら、俺はそう思った。
「お嬢様。お待たせいたしました。コーヒーが入りました」
「うむ。褒めてつかわす」
優雅にマグカップに口をつけ、目を閉じ深く味わう蛍。これではまるで俺が執事で蛍が主ではないか。いつの間にこんな上下関係が出来上がったのか、不満でならない。
「ねえ、お菓子はないの?」
「しまった、その手があったか! ……じゃないっ! いつまで居座る気だっ!?」
「アタシがこれを読み終わるまでね」
蛍は再び漫画に目を落とし、それから俺の非難めいた視線に気づいて顔を上げた。
「何? 文句あんの? 大丈夫、あなたの分までアタシがちゃんと続きを読んでおいてあげるわ。だから安心して、あなたは英語の勉強に没頭しなさい」
蛍は暴君の理論を平然と言いのける。あまりに理不尽すぎて開いた口がふさがらない。
「あのなあ。そろそろ俺のスマホを……」
「はい、そこ! 黙って集中!」
俺が言いかけた途端、威勢のいい声が飛んできた。
「いい? アタシがいなくなったら、あなたは独りぼっちで寂しい思いをするでしょう? だからこのアタシがここにいて、あなたが勉強する姿をきっちり見届けてあげるって言ってんの。ああ、なんて優しいのかしらアタシ。あなたも感謝なさい」
蛍はうっとりと自分に酔った顔で俺を叱咤する。完全に俺の監督気取りだ。
俺はげんなりしながら英単語帳を手に取った。「苦虫をいったい何匹噛みつぶしたらこんなにひどい顔になれるのだろう?」というくらい、今の俺はかなり渋い顔をしているに違いない。
俺はすっかり抵抗をあきらめ、心を無にすることにした。どうせ蛍が漫画一冊を読み終えるまでの辛抱だ。蛍も満足すれば帰っていくだろう。
それから十数分後。蛍が大きく伸びをした。
「面白かった~っ! いいわね、漫画の主人公は。どんな不可能でも簡単に可能にしちゃうんだから」
蛍はようやく漫画を読み終えたらしい。目をきらきらと輝かせ、興奮気味に漫画の内容を俺に語って聞かせる。おかげで俺は読まずして犯人が分かってしまった。いったいどうしてくれるんだ。
蛍はよほど機嫌がよかったのか、俺のスマートフォンを取り出すと、漫画と一緒に返してきた。
「これ、ありがとね」
俺はびっくりした。人質のように捕らえられていたスマートフォンが無事に帰還し、こうして俺の手の中に収まっている。俺の目尻から思わず涙の粒がこぼれそうになった。
「やっと返ってきた~っ! ……ってあれ? 動かないぞ?」
「ああ、それ。電池が切れちゃったみたい」
こともなげに蛍は言う。それってつまり、お前が勝手に使っていたってことじゃないのか?
「本当は、今日はそれを返しに来たの。アタシのミッションも終わったしね」
「ミッション?」
蛍の口から飛び出した単語に俺はひっかかった。
「そう。アタシのミッション。こっちはもうコンプリートしたから、後はあなたが気づくかどうかだね」
蛍はふふっ、と笑みをこぼす。含みのある言い方が気になるが、真相を教える気はないらしい。
蛍はおもむろに立ち上がった。
「あなたも大変ね。恋も進路も、手に届きそうもない大きな目標を掲げてさ。でもね、その方がやりがいも大きいでしょ? あなたにはぜひ夢を叶えて、人生を輝かせてほしいな」
蛍は俺を労わるようにそう言うと、明るい笑顔を弾けさせた。純粋で混じり気のない、澄みわたった青空のような爽やかな笑顔だった。
「ああ」
俺は素直にうなずいた。うなずかされてしまった。
じゃあね~、と手を振って部屋を出て行く蛍。突然吹き荒れた嵐がようやく過ぎ去っていった。
一人きりになって、俺は冷めたコーヒーを飲んだ。
「あいつ、性格さえよければモテたんだろうな。実に惜しい」
それから俺はコーヒーを入れ直し、しばらく漫画を読みふけった。そして読み終えると、蛍と同じように大きく伸びをした。たしかに蛍が絶賛する通りの面白さだった。
やがて俺は職員室へと出かけ、色紙を大量にもらってきた。それから再び生徒会室に戻り、裁断機で切り始めた。大量の七夕の短冊を作るためである。
「やれやれ。これも天華のためだ」
普段は省エネ主義の俺だが、今日は労力を惜しまない。これさえ終われば、今度こそ生徒会にも安息が訪れるだろう。そうすれば天華も心おきなく試験勉強に集中できるはずだ。
その後しばらく黙々と短冊づくりに没頭した。
最終下校時刻が近づき、ふと窓の外を見やると、生徒会室にも夜の闇が迫っていた。俺はほとんどの作業を一人でやり終えると、荷物を片づけて下校した。
蛍の言う通り、独りぼっちの作業はもの寂しかった。
〇
夜、俺はベッドに横になり、充電を終えたスマートフォンを眺めていた。
どうして電池がなくなっていたのだろう?
何日も経っているのだから当然と言えば当然だが、蛍が何かに使ったのではないか、と俺は疑っていた。
どうせ動画でも見ていたのだろう。生徒会室でのあの横柄な態度を思い出し、俺はそう予想した。
だが、閲覧履歴を確認したところ、動画を見ていた気配はなかった。もっとも履歴は簡単に消せるのだが。
「あいつ、いったい何に使ったんだ?」
気になったが、下の階から家族に呼ばれると、俺はそれきりスマートフォンを放置してしまった。
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