第2章【5】
由依は校舎の屋上に来ていた。
五時間目の開始を知らせるチャイムが鳴り響いている。本来いるべき場所は教室であり、こんなところではない。
由依を屋上へと連れ出したのは蛍だ。
なぜ授業を抜け出してまでこんな奴と一緒に過ごさなければならないのか。由依は苛立ちを募らせていた。
「もう授業が始まっているんだけど?」
「いいんじゃない? 別にアタシには関係ないし」
蛍はあっさりと切り捨てる。
次の授業は英語だ。
今日の分の予習はちゃんとしてある。昨日の下校中に蛍につかまって気分を害し、家に帰って礼の分の弁当箱も洗って不快感が増し、その後落ち着かない気持ちを抱えながらなんとか予習した英語だ。だから、なおのこと今日の授業には出たかった。
「それで、用件って何? 早く終わらせてほしいんだけど」
強い風が吹き、由依は髪を抑えた。
昼休みにいた中庭は校舎に囲まれているため、それほど風は吹かない。けれども、ここは屋上だ。日差しも照りつけるし、風を遮るものもない。
そして目の前には蛍の姿。
蛍もまた風に髪やスカートを揺らしながら、勝ち誇った目で嫌な笑みを浮かべている。
美人でスタイルのいいところが、またムカつく。腕も足も白く長く伸びて、いったいどんな食事をすればそんな細身を維持できるのだろうか? この屋上は私を不快にさせるもので溢れている。
蛍がおもむろに口を開く。
「アタシ、昨日由依さんにお願いしたよね? もう成瀬礼には近づかないでほしいって」
たしかに蛍はそう言っていた。ふらっと現れたと思ったら、いきなり一方的に理不尽な要求を突きつけてきた。
なんなんだコイツは? 蛍は不快感と共に強烈なインパクトを由依に与えた。だから忘れるはずがない。
「そんな勝手なお願い、私が聞き入れると思う?」
由依は蛍から目を背けず、まっすぐ言い返した。
普段は自分から会話の輪のなかに入っていくことはできないけれども、話しかけられれば答えることくらいはできる。
それに、周囲とうまくコミュニケーションはとれないかもしれないけれども、売られた喧嘩を買ってやるくらいの気概はあるつもりだ。
蛍は眉を吊り上げ、むっとしていた。
「昼間のアレは何? アタシへの当てつけ?」
「いいえ、アンタのことなんて頭にないから。ただ私は誰の指図も受けず、ただ私でいたいと思っただけ。だから、私のやりたいようにした。それだけよ。それとも何? まさかアンタ、成瀬礼のことが好きなわけ?」
意地悪な、棘のある言葉だとは自覚している。それでも感情が荒い波のように高くうねって、抑えることができない。
しかし、蛍は由依の嫌味を耳にしても、なおも平然としている。フッと笑みをこぼし、由依を見すえる。
「そうね。好きよ。成瀬礼は私にとって、とても大切な人。でも、恋愛感情じゃないけどね。由依さんと違って」
蛍の言葉が由依の胸に突き刺さる。
蛍は胸に手を当て、どこか苦しそうに、なおも言葉を重ねる。
「由依さんはこの先もずっと成瀬礼のことが好きなの。たとえ他の人と結婚したとしても、その思いは消えることはない。でも、それは辛いことだから。だからお願い。この際だからきっぱり諦めて。由依さんもその方が幸せになれると思うから」
「うるさいッ!」
風が吹く青空に、由依の叫び声が悲しく響く。
由依は涙をぼろぼろと流し、蛍に訴えた。
「ご忠告ありがとう、なんて言えると思う? 礼のそばにずっといたのは私なんだよ? それなのに、礼が好きなのは生徒会長なんだってさ。おかしいと思わない?私には礼が必要なんだよ、昔からずっと!」
由依がすがるように必死に叫ぶ。
由依が嗚咽する声を、蛍も切なげに聞いていた。
「天華ちゃんは由依さんと仲良くしたいと思っている」
「……嘘。生徒会長は他人を必要としていない。だから、そんなことを言うはずがない」
「たしかにそう見えるかもしれない。でも違うんだ。天華ちゃんは本当は孤独で強がりだから。だからアタシ言ったんだ、『苦しいことがあったら何でも言ってね』って。そうしたら、いろいろ相談された。本当だよ?」
蛍はこれが証拠と言わんばかりにポケットからスマートフォンを取り出して見せる。
しかし由依はさらにカッとなって泣き叫んだ。
「あいつに苦しいことなんてあるはずないッ! 苦しいのは私だッ!」
悲痛な叫びが虚空にこだまし、由依はその場に崩れた。
蛍もまたうなだれ、由依を寂しげに見下ろした。
「……そうだね。ごめんね、由依さん」
突風が二人を冷たく吹きつける。
その時――。
蛍が急にごほっ、ごほっと咳きこんだ。
息がつまりそうなほど激しい咳をくり返すと苦しそうに胸を押さえ、膝を折り、背を丸めてその場にうずくまる。目には涙まで浮かべている。先ほどまでの勝気な蛍はもはや影もなく、ただ辛そうに地に伏す儚げな少女の姿があるばかりだ。
由依は涙でにじむ目を大きく見開き、恐るおそるたずねた。
「アンタ、もしかして身体が悪いの? 大丈夫?」
心配そうに見つめる由依に、ようやく蛍が顔を上げてみせた。白い額はひどく汗ばみ、頬を涙で濡らし、口元も汚れていた。
「大丈夫……。でもごめん、もう無理。アタシ行くね」
蛍は苦痛をこらえるように気丈に微笑んでみせた。まるで由依に心配をかけまいと強がっているようだった。
「行くって、どこに?」
由依がそうたずねた瞬間、蛍の身体が白光に包まれた。まぶしさのあまり由依は目を閉じ、顔を右の手のひらで覆った。
そして再び目を開いた時、蛍の姿はもうどこにもなかった。
由依はすっかり脱力すると、その場で意識を失った。
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