第2章【4】
放課後になって生徒会室に行ってみると、会長席で天華がプリントに目を通していた。
天華は俺が姿を現すと顔を上げ、満足げな笑みを向けてきた。
「昨日は由依と二人で部活を回ってくれてありがとう。由依が作ってくれたこの報告書、完璧ね。さすがだわ」
天華が感心したように深くうなずく。
それもそのはず。由依は丹念に細かくチェックシートを記入していたし、それをさらに丁寧に清書して完成させたのが、今天華が手にしている報告書だ。由依のことだから、きっと抜かりのない質の高い物に仕上げているはずだ。
俺は荷物を机に置くと、天華に言った。
「それなら由依を褒めてやってくれ。きっと喜ぶから」
そうね、とうなずく天華。だが、表情は不思議と冴えない。
「どうした?」
俺がたずねると、天華は少し言いにくそうに、そっと打ち明けた。
「由依って私とあまり話したがらないのよね」
「そうか? 仕事の打ち合わせとか、よく話しているように思うけどな」
「仕事の話はね。でも、由依にははっきりとした境界線があるみたい。その境界線を向こうは踏み越えてこないし、こっちにも越えてほしくないみたいなの。だから、由依とはちょっと距離を感じている、かな」
意外だった。
生徒会室で一緒に作業をする二人を目にしても、そうは感じてこなかった。
ただ、言われてみれば思い当たる節がないでもない。
天華は由依を名前で呼ぶのに、由依は天華をいまだに『生徒会長』と呼ぶ。そういう距離感が天華には気になるのかもしれない。
「大丈夫だよ。由依は誰に対してもコミュ障なだけだから。普段はツンとしていても、褒められたら案外デレたりするんじゃないか」
「私にデレられても」
天華は困ったように笑う。つられて俺も笑った。
「彼女、礼には心を許しているわよね」
「まあ、幼馴染だし。昔からの腐れ縁だな」
「そうかしら? 私は礼の人柄のおかげだと思っているけど。礼って、さりげなく優しい気配りができるから。由依も安心するんじゃないかしら」
天華にそう評価されると素直に嬉しい。でも、ちょっと気恥ずかしくて、天華に褒められた喜びは表に出さず胸の内にとどめておいた。
天華は立ち上がると窓の方を振り返り、遠くを見やった。
「私も礼みたいに、由依ともっと仲良くなりたいんだけどね。でも、女にはいろいろあるから」
そう言われてしまうと返事のしようがない。俺は話題を変えた。
「ところで、天華は蛍の連絡先を知らないか? あいつ、いまだに俺のスマホを返さなくて困っているんだ」
朝の様子だと、蛍が望む一方的な『約束』を俺が本当に守らない限り、返ってくる気配はない。だが、俺の所有物は当然俺の手元にあるべきだ。早急に返却願いたい。
天華は外の景色から目を離すと向き直り、黒い長髪を細い指で触り始めた。
「まあ、知らないことはないかな」
「知ってんのか!?」
驚いた。二年の教室はおろか放課後に学校中を探しても見つからなかった幽霊のような相手と、天華は連絡が取れるらしい。
思い返せば、蛍は天華にだけは最初から心を開いていた。やはり天華のカリスマ性のなせる業か。
天華は眉を寄せ、言いにくそうに答えた。
「ええ。でも、蛍ちゃんにはどうしても返せない事情があるみたい」
「事情ねえ」
それなら、俺にもどうしても返してほしい事情があるんだがね。このままだと誰とも連絡が取れないし、海斗が時々教えてくれるサイトを検索することもできない。
しかし、そんな俺の思惑を見透かしたように、天華がすまし顔で言う。
「でも、礼にとっても無い方がいいんじゃないかしら? いやらしい画像を見なくてすむしね」
「その話は忘れてくれ」
俺はひどく恥ずかしい思いがした。
天華はふふっと笑みをこぼすと、軽く腕を組み、顎に手をそえて考える。
「私もそろそろ手放さないと駄目かな。スマホをやめた途端、偏差値が10も上がったなんて話もあるみたいだし」
天華のことだ。きっと塾でそんな話を吹きこまれたに違いない。
生徒会活動のかたわら、熱心に塾にも通い続けている天華。その上、学校のテストでも常に一番であり続けている。
天華のまぶしい笑顔の陰に、いったいどれほどの努力と苦労があるのだろう。すべてを完璧にこなす才能と強い精神力は、俺にはとうてい真似できない、まさに神の所業のように感じてしまう。
きっと天華にはそれだけ頑張れる尊い理由があるのだろう。でなければ、これほどの高い意欲を維持し努力し続けることはできないと思う。
「ところで、天華は進路どうするんだ?」
俺は急に思いつき、たずねてみた。
「私?」
天華はとまどい、言いよどむ。
「……私はもう、家が、ね。医者になるしかない家系だから」
そう話す天華の表情には、確かな強い覚悟と、わずかな寂しさのような色が混ざり合っているように感じた。
「だから、母にもスマホはもうやめろって言われているの」
ちょっぴり舌を出し、肩をすくめてみせる天華。
なるほど。どうやら塾ではなく家族の入れ知恵のようだ。
だが俺は、弊害ばかりに目を向けて文明の利器を全否定する風潮には、つい抵抗したくなってしまう。
「その必要はないさ。大事なのは意志の力だろ? 意志が強い天華なら、無理に手放さなくてもスマホとも上手に付き合えるって」
俺は森岡先生に言われた言葉を思い出していた。
――お前の意志が確固たるものならば、どんな困難も乗り越えていけるだろう。
俺はたいして意志が固くはないから、つい流されてしまう。誰かから連絡が来ればすぐに既読したくなるし、いいサイトを教わればつい見たくなってしまう。
だが、天華が貫く『意志』の力はダイヤモンドのように強固なものに違いない。こうと決めたら最後まできちんとやり遂げる意志の力が、天華にはきっと備わっている。だから、自分に無理に強制をかける必要はない。
しかし、俺の言葉はかえって天華の表情を曇らせた。
「意志の力、ね」
誰に向けるともなく独りつぶやく天華。そして、
「私の意志なんて、関係ないもの」
冷え切った細い声が、吐息のようにもれた。
俺の聞き違いだろうか? はっとして天華の表情をうかがうと、瞳はハイライトが消えたように陰り、いつもの清らかな笑みも今は光を失っているように感じられた。
生徒会室に気まずい沈黙が流れる。こんな時、他に誰かいてくれたら。
「そう言えば由依の奴、なかなか来ないな」
俺は由依の存在をとっさに思い出した。その言葉で我に返ったのか、天華の表情にいつもの柔和な光が戻った。
「彼女なら今日は来ないんじゃないかしら?」
「どうして?」
俺がたずねると、天華の瞳がまっすぐに俺を捉えた。知らないの? とまるで俺の罪をとがめるかのように。
「だって彼女、五時間目に保健室に運ばれたって聞いたから」
そんな話、俺はまったく聞いていない。
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