第2章【3】

 五時間目。

 

 世界史の先生が小気味よくチョークの音を響かせ、黒板に呪文のようなカタカナを羅列している。

 

 机の上には空欄だらけのプリント。クラスの連中はピンクやらオレンジやらのペンを巧みに使い、その空欄に人名やキーワードなどを必死に埋めていく。

 

 俺も同じく作業をしながら、由依と交わした昼間の会話をふと思い出す。



――私は礼に幸せになってほしい。だから礼は身分違いの恋にしばられて高校生活をふいにするより、自分に合った相手と結ばれるべきだ。



 由依の訴えかけるような真剣な眼差しが、頭から離れない。

 

 由依は俺に幸せになってほしいと言ってくれた。そして、叶わぬ恋にとらわれるべきではない、と。

 

 わざわざ弁当まで作ってきて、俺と話をする機会を設けて。そうまでして俺に正しい道を示そうとしてくれた。

 

 現時点で俺が天華に想いを寄せていることを知っているのは、由依や海斗など、ごくわずかな人数に過ぎない。今ここで俺が諦めて身を引けば、誰も傷つくことなく、何事もなかったかのようにまた平穏な毎日が訪れる。

 

 天華と一緒に過ごせるだけで羨ましい、と海斗は言う。たしかに俺は望み過ぎなのかもしれない。出過ぎた恋心など抱かず、ただ一緒にいられる幸せを楽しめばいいのかもしれない。

 

 はっと現実に立ち返る。

 

 黒板はすでに世界史の用語で埋め尽くされている。どうやら俺が考え事をして手を止めているうちに、授業はだいぶ進んでしまったらしい。俺は慌てて空欄にそれらしいワードを書きこんでいく。

 

 勉強も恋愛も、ほどほどが良いのかもしれない。

 

 こうして取り組んでいる世界史のプリントだって、今からではきっと追いつかない。


 天華への想いもそうだ。身の丈に合わないお姫様に必死になったところで、いったい何をつかみ取れるというのだろう? そもそも必死になるのは俺の省エネ主義に反するじゃないか。


 俺は諦めて手を止めると、頬杖をつき、目を閉じた。


   〇


 俺が初めて天華を見かけたのは、いつのことだったろう?


 俺が住むマンションの、大通りを隔てた真向かいに真宮総合病院はそびえている。


 幼稚園の頃だったか、母親の手を取って病院の敷地内を歩いている天華を見かけた記憶がある。うちのマンションのベランダから遠目に眺めただけだったが、母親や看護婦たちに向けた幼い笑顔がキラキラとまぶしかったのを覚えている。


 小学校の頃の記憶はもっと鮮明だ。


 天華はよく黒い車に乗せられて小学校に向かっていた。天華は私立の小学校に通っていた。俺と由依が並んで歩道を歩いていると、天華を乗せた黒い車がよく通り過ぎていった。


 車の中の天華は上品で少し気取って見え、自分が知っている女の子たちとはまるで違った。


 俺がぼんやり見とれていると、由依がよく俺に注意してきた。


「また見とれてる~。ダメよ、あの子はお姫様なんだから。バカ礼は見ちゃいけな

いのっ!」


「お姫様?」


「そうよ。この辺で一番のお姫様なんだって! ママが言ってた」


 えっへん、と胸を張って答える由依。まるで自分だけが知っている秘密だと言わんばかりに得意げだ。


 いつも特別で俺たちとは住む世界が違うお姫様。真宮天華は、小学生の俺にはミステリアスで神秘的な存在だった。

 

 だが中学生になると、天華をあまり見かけなくなった。


「あの子、都内のお嬢様学校に進学したらしいよ」


 一年生の時、由依がそう教えてくれた。


 由依は、この先成長するからと大きめのセーラー服に身を包んでいた。だが小柄な由依にはセーラー服の丈はやや長すぎた。由依がツインテールにし始めたのもこの時期だ。


「礼、残念だったな。お姫様にもう会えなくて」


 由依は俺をからかうように言ってきた。


 俺は拍子抜けした。と同時に、妙に納得もした。『都内のお嬢様学校』という甘美な響きは、彼女にぴったりと当てはまりすぎていた。


 登下校の道端でさえ、俺たちとはもう交わることがない。お姫様は遠い異国の地に旅立ってしまったのだ、と俺は思った。

 

 しかし高校生になった時、真宮天華は俺と同じ南高にいた。


 入学式の日、新入生代表として登壇した天華を見た時の衝撃はいまだに忘れられない。


 新入生代表の式辞を高らかに読み上げ、恭しく礼をする天華を目の当たりにしながら、俺は自分の目を疑わずにはいられなかった。


 どうしてあのお姫様がここに?


 白いブラウスの首に細いタイを締め、濃紺のジャケットへと制服を変えた由依がその理由を教えてくれた。


「あの子、都内のお嬢様学校に内部進学できたのに、そうしないで地元の高校を選んだんだって」


 そして冷ややかに一言添える。


「向こうで何かあったのかもね」


 由依の言う『何か』が何を指すかは分からない。


 ただ、そのままいれば自動的に高校に進学できるものを、わざわざ受験して地元の公立高校に戻ってきたのだから、あまり良い理由ではないのだろう。そうせざるを得ない暗い『何か』があったのだ、と俺は推測した。

 

 だが、そんな俺の暗い予想をまるで感じさせないほど、真宮天華はいつも清いきらめきを放っていた。


 入学して間もない様子見の段階では、天華に近づける同級生はいなかった。


 都内のお嬢様学校に通っていたという看板に偽りのない、抜きんでた学力を備えていることは、共に授業を受けてすぐに分かった。


 それに、あの光り輝くような美貌の持ち主でもある。


 容易には近づけない雰囲気が天華にはあり、なんとなく彼女を遠巻きにする空気が教室内にも漂っていた。


 天華もまた進んで前に出るようなそぶりを見せなかったため、やがて天華には『孤高の人』という位置づけが与えられ、しばらくは同級生から距離を置かれる存在であり続けた。


 だが天華の持つ、人を統べる天賦の才は、学校行事を通してすぐに発揮された。


 合唱コンクールでも文化祭でも、天華は控えめながらも建設的な意見を述べてクラスに貢献し、しだいに誰からも必要とされる存在となっていった。


 そしてクラスメイトと会話を交わす機会が増えるにつれ、天華はしだいに『孤高の人』ではなくなっていった。


 こうして、かつて謎のベールに包まれていた孤高の少女は、もっと身近に開かれた高貴なお姫様として、憧憬と共に支持を集めていったのである。やがて天華が生徒会長にまで上りつめるのも自然な流れだった。


 もともと天華のミステリアスで神秘的な雰囲気に惹かれていた俺は、さらに憧れの気持ちを強めていった。


 そして、俺にも転機が訪れる。


 今年の二月、生徒会副会長として当選してしまった俺は、書記の由依と一緒に初めてきちんと天華と向き合った。肌寒い、放課後の生徒会室だった。


「よろしくね。成瀬君、小笠原さん」


 俺たち二人に会釈する天華。そうして軽めの挨拶を交わすと、天華は顎に手を添えて少し考えるそぶりを見せ、こう提案した。


「成瀬君は小笠原さんのことを『由依』って呼ぶのよね? だったら、私のことも『天華』って呼んでほしいな。せっかくこうして仲間になったわけだし、その方が親近感がわくでしょう? ……駄目、かな?」


 天華は俺に上目遣いで同意を求めてくる。俺は気恥ずかしくて、ためらった。


「本当にいいのか? 名前で呼んでも」


 俺が由依を名前で呼ぶのは、それまで幼馴染として積み重ねてきた日々があったからだ。他の女子を、まして高貴なお姫様を簡単に呼び捨ててしまって良いのだろうか? 


「ええ、いいわ。お願い」


 混じり気のない純粋な瞳をまっすぐ俺に向け、天華は微笑を浮かべている。


 それなら、と俺も覚悟を決める。


「これからよろしくな、天華」


「こちらこそ。礼」


 天華はまぶしい笑顔を嬉しそうにほころばせた。


「ありがとう。でも、ちょっぴり恥ずかしいね」


 頬をほんのり朱に染めて照れくさそうに笑う天華。


 その天使のような微笑みに、俺の心はぎゅううっと握られてしまった。


 ただ由依だけは天華を名前で呼ばず、今でも『生徒会長』と呼び続けている。


   〇


 ぽかり、と頭を叩く柔らかい感触で目が覚めた。


 振り返ると、海斗が丸めたプリントを手に持っていた。どうやらそれで俺の頭を叩いたらしい。


「いつまで寝てんだよ。もう授業終わったぜ」


 チャイムが鳴っても起きないんだもんな、と呆れたように言う海斗。それから丸めたプリントを広げ、はい、と俺に手渡した。見ると空欄がすべて埋められていた。


「世界史のプリント。お前の分まで俺がしっかり授業を受けといたからよ。今度なんかおごれよ」


「サンキュー」


 俺はありがたく受け取るとクリアファイルに綴じ、スクールバッグに入れた。


 海斗は後方の座席からさらに身を乗り出し、俺にたずねてきた。


「ところでどうだったんだよ? 昼休み」


 海斗は興味津々といった様子で目を輝かせている。海斗は世話好きないい奴だが、何かと首をつっこみたがる。


 別に隠すことでもないので、俺は正直に打ち明けた。


「弁当を買わされた」


「え? 買わされた? 弁当を? どんな?」


 海斗にとっても予想しなかった回答だったのだろう。それにしても質問が多い。


「だから、由依が作ってきた弁当をすっかり食べ終わった後で、五百円請求された」


 たちまち海斗が笑い出す。


「やっぱり面白いわー、小笠原。そうだ! 俺も今度弁当を作ってきてもらおーっと」


 海斗は思いつきを楽しそうに口にする。けれども由依が海斗のために弁当を作ってくる姿がまるで想像できない。


 そう思ったが、あえて口にはしないでおいた。


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