小笠原由依の憂鬱
第2章【1】
翌朝、俺は職員室へと直行した。
「『進路希望調査』を提出しに来ました」
森岡先生の元へと一直線に進み、プリントを両手にしっかりと持って差し出す。
森岡先生はほんの一瞬表情をほころばせたが、すぐにいつもの毅然とした凛々しい顔へと変化した。
俺が提出したプリントへと目を落とし、顔をしかめる。
「成瀬。これはお前の本心か?」
ギロリと鋭い目を向ける森岡先生。
疑われるのも無理はない。なにせ俺の第一希望には『医者』と書かれているのだから。今までそんなそぶりを見せたことは一度もない。
「ええ、一応」
ちなみに第二希望は『IT関連』、第三希望には『産業デザイナー』と書いた。将来の方向性は見事にばらばら。我ながら支離滅裂だと思う。
昨日の帰りに駅前の本屋に立ち寄り、職業が紹介されている冊子を立ち読みした。その結果がこれだ。実現可能かどうかは別にして、とりあえず少しでも興味が沸くものを並べてみた。
森岡先生はもう一度プリントの内容を目で追い、それから目線を上げて俺に厳しく言い放った。
「お前が真剣に考えた結果なら受け取ろう。だが、もし誰かに言われて書いたのなら、考えを改めた方がいい」
驚いた。俺の軽薄な考えを見抜かれた気がした。
たしかに第一志望を『医者』と書いたのは、蛍の影響が大きかった。これまで医学の道など考えたこともなく、今でも実現可能だとはとうてい思えない。
けれども、たとえ蛍の押しつけであったとしても、あの熱量で迫られるとないがしろにできない気持ちになるから不思議だ。
何かきっと理由があるのだ。俺を医者にしようと蛍がもくろむ、深い理由が。
その理由にたどり着くための進路。俺にはそんな選択肢があってもいいのかもしれない。
それに、本心を言えば、俺は特に将来なりたいものなんてない。だったら『医者』でも何でも変わりはないだろう。
もちろんそうとは言えないので、俺は答えないでいた。
すると森岡先生が厳しい言葉を重ねた。
「受験はそんなに甘くない。医学部ともなればさらに困難を極めるだろう。精神的に辛い時期もきっと訪れる。そんな時に支えになるのは、お前の意志だ。お前の意志が確固たるものならば、どんな困難も乗り越えていけるだろう」
そして俺にプリントを突きつけ、さらに低い声で念を押す。
「もう一度聞く。これはお前の意志か」
俺は固い表情でぐっと息をのむ。
その時、またしても奴が突風のように現れた。
「はい! 成瀬君の意志です! どうしても医者になりたいって、ずっと言っていましたっ!」
「天野川蛍ッ!?」
俺が驚いたのは言うまでもない。
蛍は適当なことを平然と言ってのけると、プリントを突きつける森岡先生の手首を両手でつかみ、引っこめさせた。そのプリントは受け取れません。どうぞそのままお納めください。そんな意思表示だった。
さすがの森岡先生も目を丸くしている。当然だ。あまりに神出鬼没すぎる。
だが森岡先生は蛍の顔を見やり、それから俺を一瞥すると、一人合点してうなずいた。
「なるほどな。惚れた女のためか」
口元に意味ありげな笑みを浮かべる森岡先生。
……あの、盛大に勘違いしていませんかね?
「これもまた青春の一つの形か。いいだろう、受け取ってやる。お前の一途な思い、次の試験で証明して見せろ」
森岡先生は俺を励ますように言い、最後にふっと表情を和らげた。
「楽しみにしている」
すると、俺の隣で蛍がにこやかに明るい声を響かせた。
「ありがとうございますっ!」
勢いよく頭を下げる蛍。つられてポニーテールが踊るように弾んだ。
お前はいったい俺の何なんだ!?
〇
二人で一緒に職員室を退室する。
廊下に出るなり、俺は抗議の声を上げた。
「あのなあ! お前、何なわけ!?」
唐突に現れて、先生にまで適当なことを言って。あまりに自由奔放すぎる。
しかし蛍は俺の声などどこ吹く風。嬉しそうに俺の肩をぽんっと叩く。
「ちゃんと医者になる決心をしたんだ。えらいじゃんっ!」
「べ、別に書くことがなかったからそうしただけだ。本当になろうとは思っていない」
俺は断固異を唱える。
しかし蛍は俺の言葉に耳を貸さず、カラカラと笑っている。
「『惚れた女のため』だもんねー。それじゃあ必死に頑張るしかないね」
蛍は楽しげにからかってくる。はっきり言って不服だった。
「俺は別にお前に惚れたわけじゃ……」
「分かってるって。惚れた天華ちゃんのため、だもんねー」
にひひっ、といたずらな笑顔を弾けさせる蛍。俺を困らせようと意図的に片想いの相手の名前を出してくるのだから、余計にたちが悪い。笑顔だけなら美少女なのに、性格が残念でならない。
俺はごまかすように話題を変えた。
「それよりお前、俺のスマホを早く返せ!」
「それなら安心して。電源は切ってあるし、変な使い方もしない。約束する。だから、あなたもアタシとの約束を守って。そうしたら、ちゃんと返すから」
蛍は真剣な眼差しで答えた。なぜこいつは人の物を勝手に奪っておいて、平然と主導権を握って話を進めてしまうのだろう? しかも俺は正式に約束をした覚えはない。
たまらず俺は疑問をぶつけた。
「どうしてお前はそうまでして俺に勉強をさせたがる? しかも、なぜ医者なんだ?」
「それは前にも話した通り、あなたの意志だからよ。この先あなたは何度も言うの、『俺が医者になっていれば』ってね。それが聞くに堪えないから、このアタシがあなたに勉強させてあげようってわけ。だから感謝なさい」
あまりに高圧的な物言いに俺は閉口した。
「で、昨日は勉強した? どれくらい?」
「昨日は進路を考えていたから、たいしてやってない」
「ブー。それじゃ返せませんー」
不満げに頬をふくらませ、腕をクロスして×印を作って見せる蛍。まるで俺の人生が不正解であるかのような言い様である。許されるなら、もちのように白い蛍の頬を引っぱたいてやりたい。
「なんならアタシが家庭教師してあげよっか?」
ふふん、と俺を試すような視線を向けてくる蛍。どこまでも上から目線な奴だ。
「まさかお前……成績いいのか?」
「ううん。悪くはないけど、良くもないかな。美術はすごくいいけど」
「お断りだっ!」
俺が蛍とそんな不毛な会話をしているところに、ちょうど近づいて来る人影があった。
「あら、おはよう。礼、それに蛍ちゃん」
真宮天華だ。
天華は今日も麗しく、俺の心を容易に弾ませる。朝から珍しく天華に会え、しかも声までかけてもらえた。案外今日はいい日なのかもしれない。
どうやら天華も職員室に用があったらしい。
「二人で何を話していたの?」
天華は探るようにたずねてきた。天華の無自覚な上目遣いに、俺は不覚にもドキッとしてしまった。
そんな俺の反応を見逃さなかったのか、蛍が含みのある声を返した。
「ムフフ。実はね、天華ちゃんの話をしてたんだー」
「私の話?」
蛍はそう言って意味ありげな視線を俺に送ってきた。おいよせ。見ろ、天華が不思議そうに俺を見上げてきたじゃないか。
俺は慌てて否定した。
「違うんだ。俺たちは進路の話をだな……」
へえ~、と疑いの目をじっと注ぎ続ける天華。俺は思わず目をそらしてしまう。
「怪しいんだ」
天華は可愛らしいジト目でそう告げ、肩をすくめた。
「まあいいわ。それより礼の進路って決まったの? 以前は何にもやりたくないって感じだったけど」
げっ、天華に見抜かれていたのか。
すると蛍が能天気な声で答えた。
「医者になるんだって」
こら! と俺は慌てて蛍を制す。
その横で、天華が驚いたように目を見開いた。
「そう、医者になるんだ……。なれるといいわね」
天華は爽やかな微笑を浮かべ、俺を励ますように言う。
ほんの一瞬、天華の表情が曇ったような気がした。
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