第1章【5】
放課後。
生徒会室の扉を慌てて開くと、案の定、由依が先に待っていた。長机の前の椅子に座り、静かに本を読んでいる。
「わりィ。遅くなった」
俺は謝りながら、スクールバッグを肩から下ろす。
「そだな」
由依は本から目を離さず、感情の起伏に乏しい平坦な声を返してきた。
由依が読んでいるのはどうやら少女小説らしかった。表紙にはお姫様がイケメンの騎士たちに取り囲まれた、美麗なイラストが描かれている。
「どんな本を読んでいるんだ?」
「異世界に飛ばされた主人公の女子高生が実は一国の姫で、その姫に思いを寄せる若い騎士たちがこぞってアピールしようと活躍したら、国が救われていたって話」
なるほど。どうやら俺には分からない世界のようだ。
由依はアニメのキャラクターが好きで、スクールバッグにも男の子のぷちキャラのラバーストラップをいくつもぶら下げている。俺には何の作品のどんなキャラクターなのか、皆目見当がつかない。
「どうせ礼には分からない」
けげんな顔をしていたからか、由依にすっかり思考を読まれてしまった。
「悪かったって。機嫌直せよ」
俺はなんとか由依をなだめようと試みる。
俺にしたって遅れるつもりは少しもなかったのだ。
〇
俺は終礼の後、急に担任に呼び止められた。
俺の担任は森岡真子先生という。
髪を肩のあたりで束ね、いつも清楚なスーツ姿でいる。年は三十半ばくらいだろうか。何事もきっちりと行う隙のない先生で、時に厳格でもあり、一部の生徒からは『軍曹』の愛称で慕われている。もちろん表立ってそう呼ぶ生徒はいない。
「成瀬。『進路希望調査』がまだ出ていないようだが」
それもそのはず。なにせ提出すべき『進路希望調査』は、今も俺のバッグの奥底に眠っているのだから。蛍がめちゃくちゃに書いてしまったあのプリントを、そのまま出せるはずがない。
「すいません。無くしました」
本当は無くしてなどいないのだが、説明するのも面倒なので観念した。
森岡先生は呆れたように腕を組む。
「そんなことだろうと思った。それなら、なぜ言いに来ない?」
「無くしたと気づいたのが昨日の放課後だったので」
「だったら今朝言いにくればいいだろ」
森岡先生は威圧的な目で凄み、さらに言葉を重ねる。
「新しいのを用意しておいてやる。この後すぐに職員室に取りに来い」
踵を返し、颯爽と教室を離れていく森岡先生。
「ありがとうございます」
俺が森岡先生の言葉に素直に従い、職員室へと飛んで行ったのは言うまでもない。
〇
こうして俺は生徒会の活動に遅れてしまったというわけだった。
由依はようやくキリが良くなったのか、本にしおりを差しはさんだ。そして、俺に顔を向けた。
「大丈夫だ。別に機嫌も悪くない」
それからチェック用のシートを抱え持ち、立ち上がる。
「じゃ、行くか。昨日の分まで働かないとな」
由依は密かに気にしていたのだろう。
由依は責任感が強く、頑ななところがある。昨日の遅れを取り戻そうと、静かに燃えているようだった。
こうして俺たちは部活動の備品調査へと歩き出した。
もしかしたら、部活を回っているうちに天野川蛍を目撃するかもしれない。俺は内心そんな期待を抱いていた。
〇
まずは校庭へ。
今日はサッカー部の活動日だ。
六月上旬とはいえ気温は高く、運動をしていなくても汗ばんでくる。グラウンドに立つと、強い日差しに加え下から湧き上がってくる地熱も感じた。今からこんなに暑いと、いったい夏はどうなってしまうのだろう?
はつらつとした声を上げながらショートパスをくり返す部員たち。その横に立つジャージ姿の女子に、俺は声をかけた。
ボールがいくつあるか、そのうち何個を新しく買い足したのか。ほかにもストップウォッチ、ウォータージャグ、ポールの数など、備品が申請通りあるかどうかを確認していく。
ごまかそうと思えばできてしまうかもしれないが、万が一嘘の申告がばれると部費を削減されかねない。そういう危機感を抱かせ、生徒会の目が行き届いていると印象づけるための視察でもある。年度当初の予算案を各部が適当に作ってきたら、それこそ学校の会計はたちまちパンクするだろう。今日の活動はその予防策なのだ。
俺とマネージャーが話をする横で、由依がチェックシートの項目一つひとつにレ点を入れていく。暑いのに文句の一つも言わず淡々と任務をこなし、実に健気だ。
続けて体育館へ。
そこではバドミントン部が熱のこもった練習をしていた。
なんでも空調を入れてはいけないらしく、体育館は蒸していた。しかも大会で使うシャトルは新品でなければならないという制約まであり、備品がやたら多い。
ここでも俺が部長に話を聞き、横で由依がチェックシートを埋めていく。由依の頬はすっかり赤らみ、顔は汗ばんでいた。一言も発しないが、さぞ暑がっているに違いない。
それから校舎の多目的ルームへ。
近づくにつれ、百人一首の歌が朗々と響いてきた。次に見るのは競技かるた部だ。
かるたと聞くと雅な世界を連想するが、競技かるたはスポーツそのものだ。備品をチェックしている間に何度か札が飛んできて、たびたび俺たちを驚かせた。
札や着物、札を読んでくれる専門の機械など、かるたならではの備品も多く、素人には分からないものも複数ある。それでも由依は一つひとつ疎かにせずちゃんと記入し、丁寧に作業をこなしていく。
その後もいくつかの部を回り、今日の活動は終了した。
〇
「ふう。大変だったな」
俺は生徒会室に戻るなり、椅子にどっかりと腰を下ろした。
けっきょく蛍には遭遇できず、またしても空振りに終わってしまった。もしかして部活に所属していないのか?
「でも礼のおかげでだいぶ進んだな」
由依も先ほど座っていた椅子に腰かけた。そして机上のスクールバッグからハンドタオルを取り出し、そっと汗を拭く。
「俺のおかげ?」
「うん。礼がうまく話をしてくれたおかげで、シートがきれいに完成できた。これで生徒会長への報告書もきちんと書けそうだ。私だけだったら、きっとうまくいってない」
「それは由依が丁寧に書いてくれたからだろ。由依のおかげだって」
「書記が丁寧に書くのは当たり前だろ。今回は礼と一緒で助かったよ。私、コミュ障だからさー。初めての人と話すの苦手なんだよ。だから、一人だったらきっと上手くいってない。礼に頼りっぱなしだな、私」
由依が苦笑する。
はたしてそうだろうか?
今回はどう考えたって由依の努力の成果だろう。俺はそれぞれの部の連中から話を聞き出していただけで、最終的にそれをまとめて丁寧に仕上げたのは、まぎれもなく由依の努力の成果だ。
しかし、由依は俺に頼っていると言う。
たしかに俺は幼馴染として昔から由依の面倒を見てきた。見た目のあどけなさも手伝って、今でもつい妹のように接してしまう。
でも、だからこそ由依の成長もよく知っている。由依は寡黙に誠実に努力を積み重ねてきた。もっと自信を持っていい。
「いや、由依のおかげだろ」
「いーや、礼のおかげだ」
由依はけっして譲らない。昔から一度頑なになると容易には聞かない性格なので、このままでは平行線をたどるだけだと俺は悟った。仕方なく、俺は由依に提案した。
「じゃあ、二人のおかげってことにするか。俺も頑張ったし、由依も頑張った。それでよくないか」
「そだな。私たち二人のおかげ、だな」
由依は噛みしめるようにそう言うと、くすぐったそうに笑った。その温かい笑みに俺もなんだか癒された。
由依はバッグから水筒を取り出すと、飲み物をふたに注いだ。それから俺にそっと差し出した。
「飲むか」
「ありがとう。いただくよ」
俺はありがたく頂戴し、一気に飲んだ。由依は照れくさそうな、とても優しい顔をしていた。
それから俺たちは最寄り駅まで一緒に帰り、そこで別れた。
〇
由依は礼と別れてから、大通りに面した歩道を一人歩いていた。
夕日に沈む町並みは薄暗く、由依の気持ちを不安にさせる。
誰かにつけられている――?
由依は危険な気配を感じて怖くなった。
礼がいてくれたら安心だったのに。買い物して帰るから、と別れを告げられた時、私もご一緒していいか? と聞き返せばよかった。
気になって、後ろを振り返ってみる。
幸い人通りがまったくないわけではない。家路に急ぐサラリーマンの姿もちらほら。それに同世代の子たちの姿もある。
あれ? 南高の子、だよな?
由依は後方に同じ制服を着ている高校生の姿を見とめた。
美しい少女だった。
髪をポニーテールでまとめているため、小顔がいっそう小さく映える。色白で、身体はすらりと細い。同じ制服かと思ったが、よく見ると細部が微妙に異なっていることに気づく。違う学校の生徒だろうか?
つい見とれて足を止めてしまった。いけないと思い、再び歩を進める。
しばらくして、由依のスマートフォンが振動した。礼からだった。
『後ろを見て』
由依は画面に映し出された文字に誘われるように、後ろを振り返った。
すると、先ほどの美少女が由依のほとんど真後ろに立っていた。
心臓が止まるかと思うほどびっくりした。危うく悲鳴を上げそうになる。
「待って」
美少女は由依を見下ろし、不敵な笑みを浮かべている。
「こんばんは、由依さん。ちょっとお話いいかな?」
彼女の高圧的な態度に気おされて、由依はただ静かにうなずいた。
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