第1章【4】
南高では、六時間目が終わると生徒全員で掃除をする。
教室や廊下はもちろん、視聴覚室や多目的ルーム、体育館にいたるまで、それぞれ割り当てられた場所へと散っていく生徒たち。行かなければ放送で呼び出される辱めを受けかねないため、みんな素直に従っている。
六時間目終了のチャイムが鳴り、先生が教壇から去って行く。クラスの連中は教科書やノートをいそいそとバッグに詰め、椅子を上げると机を教室の後ろへと運んでいく。
「ようやく古文が終わったァ」
前の座席であくびをしながら大きく伸びをする海斗。苦行から解き放たれた喜びを全身で表している。
それにしても、古文の文法ってどうしてやるんだろうね? 『もしもし亀よ』の歌に合わせて「るーらるーすーさすーしむずじむー」と覚えたものの、それが何を意味するのかいまだに分からない。
それより作品のストーリーの面白さや、登場人物の魅力などを教えてもらった方が興味が持てる気がする。たとえば作者が少女時代『源氏物語』オタクで、あまりの読みたさに等身大の仏像を彫ってしまったとか。そういう話の方が身近に感じられて親しみが持てるし、少しは役に立ちそうだ。もっとも、日常生活の雑談としてだが。
机を運びながら、海斗がすねたように言う。
「いいよな、礼は。教室掃除で」
「海斗は?」
「トイレ」
たしかにトイレ掃除はあまりイメージが良くない。当番制なのでいずれ回ってくるが、教室担当でよかった、ととりあえず喜んでおく。
机を運び終えると海斗と別れ、一人掃除用具庫へと向かう。掃除用具庫は廊下の突き当りにあり、モップや箒、バケツや雑巾などが整然と置かれている。
廊下に沿って二年生の各教室が並んでいる。俺は歩きながら、その一つひとつの教室に顔を出して回った。
もちろん、天野川蛍を見つけ出すためである。
そろそろスマートフォンを奪われてから一日が経過する。早く取り返さなければ。いたずらに使われてはたまらない。
しかし俺の期待に反し、蛍の姿はどの教室にもなかった。他の生徒たちは慣れた手つきで真面目に掃除をこなしている。蛍ならきっと掃除などせず、クラスの連中と一緒になって話に華を咲かせているだろう。目立ってすぐに見つかるはずだ。
俺は最後の望みを突き当りの教室に託し、中をのぞきこんだ。
すると、聞きなれた落ち着いた声が俺に呼びかけた。
「礼。うちのクラスに何か用か」
声のする方へ目線を少し下げる。
モップの柄を両手で持った女子が、不機嫌そうにこちらを見つめていた。
幼馴染の小笠原由依だった。
童顔のツインテール。黒縁の眼鏡はゲームやアニメ好きの影響か、はたまた日々の読書の賜物か。小柄で背も低く、高二にしては幼く見える。そのくせ外見とは不釣り合いに豊かな胸元。
由依とはずっと同じマンションに住んでいて、これまで兄妹のように接してきた。
「いや、ちょっとな」
俺は由依の言葉を軽く受け流しつつ、教室の奥を見やる。
しかし、ここにも蛍はいなかった。他の場所に掃除に行っているのか、あるいは本当に三年生なのか。とにかくこの近辺にはいないようだ。あの勝気なじゃじゃ馬はいったいどこにいるんだ?
「いいのか、掃除しなくて。みんな教室で待ってるんだろ?」
由依は非難めいた目を俺に向け、優等生ぶった物言いをする。
「そういうお前こそ、俺に構ってないで掃除したらどうだ。手が止まってんぞ」
俺もすぐに言い返す。
たしかに由依をよく知らない人には物静かな才女に映るだろう。控えめで口数は少ないが、英語や漢字の小テストではしっかり点を取るタイプ。やるべきことはきちんとやる、でも教室では目立たない、隠れた努力家的な存在。
だが実際は大雑把で、手が抜けるところは案外適当にやっている。それに物静かなのは単に恥ずかしがっているだけ。つまり、こいつは人とのコミュニケーションが苦手なだけなのだ。だから、ひとたび打ち解けた相手にはけっこう甘えてきたりもする。
由依はそそくさとモップを小さく動かしながら、ぼそっと小声で言った。
「昨日はごめんな。生徒会に行けなくて」
実は由依は生徒会書記でもある。
俺が生徒会副会長になりそうだと困惑していたら、じゃあ私もやるよ、と由依も一緒に立候補してきた。驚く俺に、由依は平然とこう言いのけた――だって内申点が良くなるだろ。推薦もらえるかもしれないし。
オタク気質さえ隠していれば、ただの地味な優等生である。それに書記もまた対抗馬がいない信任投票だった。由依は演説もそつなくこなし、なんなく当選したのだった。
俺は肩をすくめると、由依をなだめた。
「家の用事があったんだろ。なら仕方ないさ。それに、今日は天華が塾のテストで来られないって言ってたし。お互い様だろ。気にすんなって」
「それはそうだけど」
由依は俺に一度はうなずいて見せ、しかし顔を上げると一言つけ加えた。
「今日はちゃんと行く」
「分かった。じゃあ放課後、俺と一緒に部活を回るか」
「だな」
たった二字。でも、由依のやる気は十分伝わってきた。
またな、と言って俺は教室を後にする。残念だがここにも蛍はいなかった。
去って行く背中から、
「ありがとう」
と小さな声が聞こえた気がした。
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