第1章【3】

「どうしたんだよ、礼。元気ないじゃんか」

 

 翌日。昼休みの食堂で、トレイを持ってぼんやり列に並んでいると、田島海斗が俺の後ろに続いて声をかけてきた。


「元気なさそうに見えるか?」


「見える見える」


 少しも悪びれず正直に答える海斗。今日のランチがとんかつ定食だと知り、屈託のない笑顔を弾けさせている。バスケ小僧らしい短髪で、はつらつとした表情がよく見てとれた。

 

 元気がない、か。


 そりゃそうだ。昨日はさんざんだったからな。

 

 生徒会室で一人くつろいでいたら、いきなり謎の美少女が飛びこんできた。蛍と名乗る彼女は唐突に「勉強しろ!」「医者になれ!」とわめき散らし、挙句の果てに俺のスマートフォンを奪って去ってしまった。


 しかも密かに想いを寄せている真宮天華に、俺が眺めていたグラビアアイドルの画像を見せつけやがった。


 おかげで蛍が去った後も天華からは氷のように冷たい目を向けられ、ここは北極圏かと思われるほどの寒々しい空気のなかで、残りの生徒会活動を行うはめになってしまったのだ。


 俺の恋を応援するようなそぶりを見せておきながら、この鬼畜の所業である。


 天野川蛍。


 いったいどこの誰なのか? さっさと見つけ出して、苦情の文句を一ダースほど浴びせてやりたい。


 海斗はそんな俺の苦労も知らず、能天気に声をかけてくる。


「ところで昨日教えたグラビアアイドル見たか? 凄かっただろ」


「ああ。まったく見なきゃよかった」


 俺はうなだれながら、食堂のおばちゃんからカレーライスを受け取った。


「なんだよ、つれないな」


 続けて海斗が不服そうにとんかつ定食をトレイに乗せた。俺たちは空いている窓側のテーブルへと移動した。


「その画像を天華に見られた」


 あちゃー、と大げさに天を仰いでみせる海斗。どうやらその一言で俺の気まずい事情を察したらしい。


「オーケー。真宮には俺からも言っておくよ。礼はそういうの普段見ないし、何より真宮一筋だって」


「やめてくれ。余計なことは言うな」


 俺は迷惑そうにカレーライスに食らいつく。ひひっ、とからかうように笑う海斗。


 海斗はいい奴なのだが、なにかと余計な世話を焼きたがる。


 そもそも省エネ主義の俺が生徒会副会長なんぞをやっているのも、海斗のせいなのだ。


   〇


 今でもけっして忘れはしない。あれは小雪が舞う一年生の二月だった。


「聞いたか、礼。真宮天華が生徒会長に立候補するらしいぜ」


 休み時間。教室で背を丸めてうとうとしていると、海斗が俺の前の席に座り、話しかけてきた。


「ああ、そうらしいな」


 その話なら風の噂に聞いていた。『生徒会長』というポジションはまさに真宮にこそふさわしい。誰も異を唱える者はいないだろう。


「礼、副会長に立候補しろよ。そうしたら真宮とずっと一緒にいられるじゃんか」


 海斗の表情から察するに、どうやら冗談ではなく本気でそう提案しているらしかった。まるで俺には他の選択肢はないとでも言いたげである。


 だが俺は一蹴する。


「俺がそんな面倒なことするわけないだろ」


「だよな。だから俺が代わりに礼の名前で立候補届を提出しておいた」


「は? ……はあァッ!?」


 俺は思わず席を立ち、教室中に驚きの声を響かせてしまった。海斗は「俺に感謝しろよ」とばかりに得意げな顔でふふん、と鼻を鳴らした。


 たちまち周囲の目が俺に集まる。俺はごまかすように咳ばらいすると、好奇の視線をさけるように、つとめて冷静に座り直した。


「勝手なことすんな。そもそも本人でもないのに受理されるわけないだろ」


 俺は声をひそめて言う。


「いや、それが案外すんなり受理されちまってよ。『ちょうど立候補者がいなくて困っていたんです』だってさ」


 海斗も俺に調子を合わせ、誰も知らない秘密を打ち明けるかのような小声でそう教えてくれた。


 俺はがっくりと脱力した。それでいいのか選挙管理委員会。


 まあいい。俺なんてどうせ落選するに決まっている。学校のために頑張りたいという立派な志を持った誰かがこの先立候補し、俺は辱めを受けるだろう。海斗にはお詫びにジュースでもご馳走になろう。


 そう踏んでいたのだが、とうとう最後まで対抗馬が現れず、俺は信任投票にかけられた。


 そしてテキトーにしか考えていない過半数の生徒から信任されてしまい、ついに生徒会副会長に任命されてしまったのだった。


   〇


「まあ元気出せよ」


 最後のとんかつ一切れを頬張りながら、海斗がのんきに俺を励ます。


「真宮に見られたのは災難だったけどな。でも、なんだかんだ言って昨日も最後まで一緒に仕事をしていたんだろう? 許してくれているんだって。真宮も」


「だといいけどな」


 生徒会は今、部活動の備品調査に追われている。各部が春に申請してきた予算が正しく使われているかどうか、備品を確認しながらチェックする仕事である。


 天華はこの仕事を早く片づけ、ひと月後に迫る期末試験に余裕をもって臨もうとしていた。だから、たとえ天華が俺を許していなくても、手だけは借りたいはずだった。


「でも、いいよなー」


 食事を終え、牛乳パックにストローを差しこむ海斗。背を伸ばすため、昼休みに牛乳を飲むのが海斗の日課だった。


「何が?」


「だってそうだろ。あの南高のプリンセス、真宮天華と放課後に二人きりだなんて。贅沢の極みだよな。羨ましい」


 海斗はそう言って牛乳を強く吸いこむ。紙パックが一気に凹んでいく。


 きっと海斗の言う通りなのだろう。


 真宮天華の人となりを思い浮かべてみる。


 お嬢様感にあふれる艶やかなロングストレートヘア。彫刻のように美しい顔立ち。宝石のように輝く知的な瞳。そして息をのむような均整の取れたプロポーション。


 総合病院の一人娘という裕福な環境に生まれ、学力は常に一位をキープ。そのくせスポーツも万能で、コミュニケーション能力にも長け、同性からも憧憬の的として圧倒的に支持されている。立ち振る舞いは常に気品にあふれ、まるで光の粒子を振りまくかのようだ。


 万人には近寄りがたい、まさに神に選ばれし崇高なる姫君。それが真宮天華なのである。


「二人きりだからって、特に何もないけどな」


 まったく脈がないことは、ここまで一緒に過ごしてきた俺が一番よく分かっている。平凡な庶民の俺と高貴な家系の天華とでは、住む世界が違い過ぎる。


 『高嶺の花』という言葉があるが、天華という『花』は見上げた天空の遥か高みに咲いている。俺にはとうてい届きそうにない。


 俺はどうして真宮天華を好きになってしまったのだろう? 結ばれない恋と知りながら、それでも秘めた想いは募っていく。なんとなく、みじめな気持ちになる。



――とにかく諦めないこと!



 ふいに、蛍の声が耳によみがえった。



――あなたの想いが届くと信じて、とにかく頑張りなさい。



 俺は思わず舌打ちしそうになった。昨日のあいつの声に励まされるなんて。


 海斗は俺の言葉を聞くと椅子を前へと動かし、身を乗り出してきた。目を輝かせ、表情は真剣そのものだ。


「いいか、礼。たとえ今は何もなくても、一緒にいれば、いつかきっと何かがある。とにかく目の前の仕事を一つひとつ丁寧にこなしていけ。礼の努力を真宮はきっと見てくれている。そしていつか、真宮は礼を一人の男として認めてくれるはずだ」


「そんなものかね」


 俺は頬杖をつき、半信半疑の思いで耳を傾ける。


 俺の疑いの気持ちを海斗も感じ取ったのだろう。海斗は疑いを晴らすべく、さらに強い口調で念を押した。


「礼。人生には大切なことがある。それは『自分に期待感を抱くこと』だ。自分への期待感を失った時、人生もまた色を失う」


 海斗はバスケを愛している。しかし、選手としてはさほど背が高くない。それでも毎日のように練習に汗を流し、日課の牛乳も欠かさない。


 それはひとえに海斗が自分に期待感を抱いているからなのだろう。もっとバスケが上手くなれるはず。もっと背も伸びるはず。そんな期待感が、海斗の人生を鮮やかに色づけているに違いない。


「だから礼も期待感を抱き続けろ。いつか真宮と結ばれる、って」


 俺は大きくうなずいた。


「いいこと言うな、海斗」


「だろ?」


 へへっと笑い、得意げに親指を立てて見せる海斗。


 やっぱり海斗はいい奴だ。俺のことを気にして、こうして温かい声をかけてくれる。


「ありがとな、海斗」


「どういたしまして」


 海斗は大げさな身振りを添え、うやうやしく頭を下げた。それから俺たちは笑い合った。


「で、その『いつか』はいつなんだろうな」


「はやるな、礼。『いつか』はいつかだ」


 海斗は同情ぎみに俺の右肩にぽん、と手を置いた。


 食堂に予鈴が鳴り響く。午後の授業まであと五分。


 やべっ! と海斗が慌てた声を発し、俺たちは教室へと急いだ。

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