絶対善の定義をしました

@shinwood

第1話

絶対的に正しい、つまり絶対的善の定義を私がどのようにして導いたのかを書いてみます。


私たちは普通、自分の考えたことは正しいと思っています。しかし本当にそうなのでしょうか? ではどのくらい正しいと思っているのか? 命や全財産を賭けても、自分の意見は正しいと言えるのか? そのように自問自答したとき、自分の意見に対して、あまり自信が持てなくなってしまいました。




そして、そもそも正しいとはいったい何なのか?しかも曖昧な正しさではなく、絶対的な正しさとは何なのだろうか?と考え始めました。絶対的な正しさ、つまり絶対的善さえ分かれば、どんな問題でも、この絶対的善に合致してさえいれば、自信をもって正しいと判断できるのです。勿論、それが絶対的に正しい答えだとは限りません。




正しいとは何か?辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。つまり絶対的なあるべき姿があり、それと合致するから本当に正しいと言えるのです。例えば数学の問題が出たとします、その問題にはすでに正しい式と答えがあります。それが正しいあるべき姿です。そのあるべき姿と自分が考えた式や答えが合致していて初めて自分の考えは「正しい」としてマルがもらえるのです。


あるべき姿を考えずに「ただ自分が考えたことが正しいのだ!」なんて少し傲慢すぎると思いませんか。しかし世間ではすべてこうなのです、自分が考えたことが正しいと主張する人ばかりなのです。ですから時に私は「命を賭けてもそう言えるのですか?」と問うのです。皆さんも、時にはこのように自問自答してみてください。




正しさには科学的(論理的)正しさと道徳的(倫理的)正しさがあります。私が求めているのは、道徳的正しさです。道徳的正しさを、一般的に善といいます。


善の意味を辞書で調べれば「善いこと」「道理にかなっていること、また、そのような行為」「道徳的に正しい行為」とあるが、それは説明であり、本当に知りたい善の本質ではありません。ネットで善を調べてみたが、善は人それぞれであり、相対的であるとか、定義できないとか、またいろいろ難しく書いてあるだけで、どれも納得するようなものはなかった。そこで、いろいろと自分で考えていたら、これが善ではないのかというものに辿り着きました。




「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。これら多くの悪に共通するのは、他人(公)のことより自分(私)のことを優先しているということであった。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は自分(私)のことよりも公(みんな)のことを優先する行為である、ということになる、略して“公(みんな)の為”である。私より公を優先する行為、つまり思いやりは時代を超え、民族を超え世界に共通する善である、つまり普遍的なものであろうから、これを絶対的善とした」これは帰納法的証明であり、内包的定義です。




最近ではマザー・テレサの評判はあまり良くないようだが、分かり易い例えとして言えば、マザー・テレサのように自分の私欲を抑えて他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろう。言うならば、この考えは世界共通善ともいえます。




また別の考え方では


「各国にとって最も大切なものは国民の命であろう。この最も大切なものを守ることは絶対的に正しいことである。つまり最も大切な国民の命を守ることは絶対的に正しい事である。逆に言えば、絶対的に正しい事、つまり絶対的善は国民の命を守ることである。つまり、国民、民族の存続、それは種族(民族)保存のことでもある。これは世界の各国民、民族にも共通することであるから普遍性もある、ゆえにこれも絶対的善である」これは演繹的な証明です。


人間の歴史は民族を守る為の戦いの歴史でした。その国民、民族にとって最も大切で、最も正しい行為というのは、その民族の命、財産を守ることなのです。これも時代を超え、国を超えて世界に共通する考えである。ゆえにこれも世界共通善といえるだろう。


これら二つの考えから「絶対的善、つまり絶対的に正しいことは種族(民族)保存であり、公(みんな)の為である」となった。(公の為とは?を参照)




「私より公を優先する事が正しい事である」と言っても、私たち凡人にはなかなか納得しがたい定義である。しかしこの定義をそんなに大げさに考えなくてもいいのです。善にも大から小まであります。我々凡人の善は、お年寄りに席を譲るとか募金をするとか、ボランティアをやるとか、普段我々がやっている小さな親切、思いやりを実行することも”私より公を優先する”ことなのです。


例えば、電車などで席を譲るにしても「自分も疲れている、できれば座っていたい」という自分の思いがある。しかし相手のことを思いやれば、相手の方が大変であろうと、自分の思いより相手の思いを優先して席を譲るのも小さいながらも善なのです。これが善の定義「私より公を優先すること、つまり思いやり」の意味なのです。




「私(自分)の思いより公(相手)の思いを優先するなんて私にはとてもできない」と思いがちですが、私たちは日ごろから何気なく行っているのです。余裕のある範囲でやればいいのです、何も自分のことは考えず他人に尽くすと言うことではないのです。勿論、本当に偉い人たちは自分を捨て、みんなの為にやっておられる人もいますが、私たち凡人は小さな思いやり、小さな親切をやればいいのです。




もともと私の絶対善に対する考えの根本にあったのは・・・・


「ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何十億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、これはいわゆる種族保存である。ゆえに、この大自然の、大宇宙の意志というのは「命を賭けて種族を保存せよ」と言う事であろう。我々人間の知恵では絶対善を決められないのであれば、この大宇宙の意志を絶対善と言わずに何を絶対善と言うのだろうか。ゆえに「絶対善とは種族保存のことである」とこのように考えていたのである。




私には、この絶対善の説明が一番しっくりとくるのだが、これでは他の人たちはなかなか納得しないのです。それで上記のように論理的にも考えてみたのです。しかし、あらゆる生物たちが数十億年もの間、本能の意に従って行ってきたことが、悪であるはずはなく、自分たちにとって正しいからこそ命を懸けて行ってきたと考えるのが道理ではないだろうか。




道徳的正しさは本能から来る感情なのです、論理から来るのではないのです。正しいではなく「善いな~」と言う感情です。この善いと言う感情を正しいと言っているのです。このように論理的正しさと道徳的正しさは全くの別物なのです。ですから道徳的正しさを義しい、または「善しい(ただしい)」と書くのがいいかもしれません。


私は、群れでなければ生きていけない生物たちが、何十億年の時をかけ種族を保存する為に一番確かなシステムとして見つけたのが、自分より公(仲間の群れ)を優先するというシステムではないだろうかと考えています。ですから「公の為」は群れで行動する動物たちにとって共通する本能であろうと思うのです。


群れでなければ生きていけない人間の道徳観も、この種族保存のシステム、本能からきているのではないだろうかと考えています。いや、人に関するすべてのことは、種族保存の為に創られ存在しているのではないだろうかと思うのです。




つまりこのようにも言えるのではないだろうか・・・・何のために生まれたのか、種族保存の為である。何のために生きるのか、種族保存の為である。愛とは何なのか、種族保存の為にある。嫉妬とは何か、種族保存の為にある。芸術とは何の為にあるのか、種族保存の為である、何故、悲しむのか種族保存に合致しないからである。何故、感動し涙を流すのか、種族保存に合致するからである。




私は論理学の内包的定義や演繹的方法により善の定義を導いたのです、恣意的なものではないのです。内包的定義は、帰納法的定義である。私はみんなが道徳的に正しい行為であろうと言うものを数多く考えてみましたが、そのすべてに「思いやり、公(みんな)の為」が含まれていたのです。そしてみんなが正しい行為であろうと思うものには何かしら感動が伴います。理性で考えられた道徳的正しさ、規範(税金を納める、勉強をするなど)にはあまり感動は在りません。 何かしら感動が伴う本能から来る正しさこそ本当の善なる行為なのです。


もし私の善の定義が間違いであると言うならば「多くの人がこれは善なる行為であろう」と認めるもので「私より公を優先していないもの、公の為でないもの」を示せばいいわけです。日本中の誰に聞いてもいいですから、私の善の定義が間違っているというなら、まずそれを示してください。




最後にまとめとして、私が見つけたのは絶対的に正しいことは種族(群れ)保存であり、その群れ、仲間を守るために最も優れていることは「私(自分)より公(みんな)を優先すること」であると言うことです。公は仲間ということです。また敵と思わないものに対しては、それなりの公の為(思いやり)を行えます。


そしてあらゆる社会的問題を考えるとき絶対的に正しいあるべき姿、それは種族(民族)保存であり、公の為なのです。それは社会(みんな)の安寧秩序、平和の存続の為ということです。


そしてそれに辿り着く最高の方法が「私より公を優先すること」なのです。それは「私欲を抑え公の為とみんなで考えること」です。




勿論、私たち人間が考えた結論に絶対的は在りません。私たちは賢さに比例した結論しか出せないのです。例えば知恵、知識を持たない中学生が民主主義のあり方について考えても、それなりの答えしか出せません。しかしそれでも、その人たちが「私欲を少し抑えて公の為」と考えること以上に正しい結論に辿り着ける方法は無いのです。私たちは絶対的に正しい答えは出せないかもしれませんが「私欲を抑え、公の為」とみんなで考えること、これだけは絶対的に正しいことなのです。




私たち生物にとって一番大切なことは群れ、仲間の群れを守ることです。その種族保存の為に最も優れた行為は「私より公を優先する行為」なのです。それは時には自分の命を捨てても群れを守りたいと言う本能的行動なのです。これを人間的な言葉にすれば「愛や思いやり」とも言えます。それが最も優れた行為であるから遺伝子に書き込まれ本能となったのです。


つまり「私より公を優先する行為」は数十億年の試練、検証に耐えて残ってきたのです。数十億年のバックボーンがあるのです。そしてそれは未来永劫変わることのない普遍的なものでしょう。それゆえ「私より公を優先する行為、愛や思いやり」は絶対的善ではなく絶対善であるとして問題はないと思うのです。そしてそれは人間だけでなく、すべての生物に関する一つの「絶対的真理」といえるのではないでしょうか。




皆さん、絶対善はあるのです。絶対的なあるべき姿は「種族保存、社会の安寧秩序」であり、それに辿り着く最高の方法が「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」なのです。あらゆる社会的問題のあるべき姿は「社会の安寧秩序、公の為」なのです。それに合致する考えこそが絶対的に正しいのです。そのためには私欲を抑えて公の為とみんなで考えなければならないのです。あらゆる社会的問題は公の為にあるのです。何事においても私欲を優先していては正しい結論に辿り着ける事はできないのです。

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