第2話 欲求
達吉は浜辺にいた。浜には松の木が数本生えていて、かんかん照りの太陽がそこに照りつけている。沖では漁船が漁をしている。なんとも平和な光景である。そう思って油断していると、背後で何かが動いた。慌てて後ろを振り向くと、黒い軍服を着たぺシェール閣下がいた。閣下は日本語で挨拶をし始めた。
「ヤアぴすてぃる、元気カネ。イイ天気ダネ」
何か言おうと思うのに、体が動かない。ペシェールの青い目には魔力があるのだろうか。その考えを読んだかのように、ぺシェール閣下は頷いた。
「ソウダヨ、君ハぴすてぃるの真理ヲ犯シタノデココデ余ニうぇーるふーぷデ殺サレルノダ。死ネ!!」
その瞬間目の前で光が炸裂し、達吉は目を覚ました。
達吉は真っ白な部屋で、寝台に寝かされていた。丸い窓からは海が見えて、窓外の景色はなぜか不安定に揺れていた。
「ん??」
達吉は自分が白船に囚われたことを悟った。起き上がろうとすると、頭がまだズキズキする。逃げなくては。しかし、そこへ白衣を着た医者じみた女がはいってきた。歳は25歳くらいか。髪は白いが若々しく、顔立ちも整った、どこか浮世離れした女だった。
“Niv, niv. Co is pikij. Niv deliu co tydiest.”
ふむ。何を言っているのか、さっぱり分からん。忌々しいが、こういう時は、言語をいちから学ぶしかないのだ。知能指数146の自分に、出来んことでは無かろう。
“I am Tatsukichi. You are…?”
“Ferlk?”
頭の悪い女医だ。達吉は自分を指差して繰り返した。
“I am TATSUKICHI. You are…?”
“Mi’d ferlk es fixa.”
ふむふむ。どうやら「ミド・フェールク・エス・フィシャ」と言ったな。多分「私の名前はフィシャ」という意味だろう。達吉は英語帝国主義者であったから、英語の典雅な響きに比べてこれは何だ、と腹を立てた。しかし、しょうがない。彼は何度か自分や相手を指差して確認した。相手の反応を見ると、どうやら正しかったようだ。加えて、相手のことは「ソ」ということも分かった。
しかし、達吉は焦り始めた。便所に行きたくなってきたのだ。便所の場所を聞くには、まずここがどこか聞くしかない。達吉は手を泳がせて漠然とあたりを指しながら、得意の英語でこう尋ねた。
“Where am I now?”
“Miss mol fal kyrdentixti.”
ふむ。「ミス・モル・ファル・キューデンティシュティ」か。大方「ミス」が私たち、で、「モル・ファル」が「〜にいる」、「キューデンティシュティ」が部屋とか病室とかいう意味だろう。
そうこうするうちに達吉の尿意は耐え難くなってきた。今までに知っている中で使えそうな言葉は
ミス:私
エス:〜は
モル・ファル:〜にいる
の3つだ。さらに、さっき初めにこの女医が言った「ニヴ」は制止、または否定のはず。そうすると、3文めの
「ニヴ・デリュ・ソ・テューディエスト」
は”You must not… ”の構文と見て間違いない。寝台から出て行こうとしていたので、「テューディエスト」は行く、ではないか。では、”I must go to the washroom.”はどうなるか。おそらく「デリュ・ミ・テューディエスト・・・」になるのだろう。
しかし、肝心の「便所」が分からない。身振りで伝える方法もあるが、下級武士とはいえ帯刀を許された自分が用便の真似をして便所の場所を聞くなど論外だ。
そのとき、ふとぺシェールの顔が目に浮かんだ。そういえば「フィスティール」と言って殴られたのだった。そうすると「フィスティール」にはネガティヴな意味があるのだろう。ネガティヴな言葉、それは排泄物に関係するに違いない!多分、「クソ」とかそういう意味だろう。この天啓に導かれ、達吉は人生初めてのリパライン語作文を脳内で書き上げ、ほぼ正確に発音した。
「デリュ・ミ・テューディエスト・フィスティール!!」
それを聞くとフィシャ女医はなぜか顔を赤らめてあたりを伺った。少し狼狽している。しかし、誰もいないことを確かめると、女医は達吉の手を取って隣の部屋に連れて行った。これでひと安心、と思った達吉は、連れて行かれた部屋を見て訝った。書見台のある、小さな部屋だ。小さな寝台もある。女医の個室だろうか。
部屋に入って鍵を閉めると、フィシャ女医はためらいがちに
“Mer, selene co fhistirl??”
と確認した。膀胱が破裂しそうになってきたので、達吉は大慌てで頷いた。
フィシャ女医はうれしそうに微笑んだ。
♡ ♡ ♡
その日一日中女医の部屋から聞こえてきた物音について、あえて尋ねる者はいなかった。
白船来航 安崎旅人 @RyojinAnzaki
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