隙間男
三津凛
第1話
今年は盆休みも夏休みもなかった。連休なんて、夢のまた夢。
「暇だった去年が懐かしい」
オカキヨが微かに日焼けした頰を向ける。
彼女は若干ブラック臭のする不動産会社で働いている。土日祝日出勤は当たり前、というかそうでないと不動産に人は来ない。その分平日休みなのだけれど、その休みも週一日という。
「そっちもなかなかエゲツないでしょ」
オカキヨはまるで同志を見るような目つきで私の方を覗き込む。ぼんやりと目の下に広がるオカキヨの隈を眺めて、この子も色々大変なんだな、と改めて思った。
「まぁなんてったって、3Kの職場ですから……」
私は自嘲気味に答える。まだ大学が福祉系の学校だったから救われる。
「モリコが福祉なんて、笑える。まぁ、学んだことをそのまま職業にしたってことなんだろうけどさ」
オカキヨは少し棘のある言い方で嗤った。なんとなく、缶ビールを掴む指先も荒んだように見えてくる。
この子も溜まってんなぁ、と私は上目遣いによく動く唇に向かって思う。
「それを言ったら、オカキヨはなんの関係もない不動産じゃない」
「まぁそうだけど」
自分のことを突っ込まれるのには弱いのか、オカキヨは途端に黙る。
たった1年の間に随分変わってしまったなぁと自分でも思う。学生時代の友達とは、ほとんど会わない。こうしてオカキヨとたまに休みがあった日だけ、一人暮らしを始めた私の部屋で酒を飲みながら溜まった老廃物を押し出すように延々と愚痴を言い合う。
「去年の今頃はまだ夏休みだよ、リア充よりも、暇な学生の方が憎いわ」
ベコッと缶ビールを凹ませながら、オカキヨが笑う。
「まぁ、そうねぇ」
私は曖昧に頷いて、調子を合わせる。確かにそうだ。たった1年前なのに、随分と遠くまで来てしまったような物哀しさがある。
「また明日は仕事なんて、憂鬱」
「あはは、分かる」
オカキヨは眠そうに欠伸する。昼過ぎからずっとこんな調子だ。カーテンを開け放したままの窓はもう真っ暗になっている。
オカキヨはまだぶつぶつと言っている。
そんなに嫌なら辞めればいいじゃん。
喉元まで出かかった言葉を無理やり飲み込む。魚の小骨が刺さったようなような不快感だけが胸に残る。デトックスのための休日が、他人の愚痴で塗りつぶされていく。
私は気を紛らわせるためにテレビをつける。暗転した画面と白塗りの顔がいきなり映る。
「びっくりした」
オカキヨが素っ頓狂な声をあげる。
「あぁ、心霊番組だよ」
「モリコはこういうの好きだもんね。私はパス」
オカキヨがチャンネルを変えようとしたので、私はその手を叩く。
「見ようよ」
「えー」
「文句あるなら帰れば」
自分でも知らないうちに険のある声が出た。オカキヨは大人しくなって、テレビに見入るふりをした。私も冷えた空気から目をそらすために見入る。
隙間男。
都市伝説の類の話みたいだった。あらゆる部屋の隙間に、男が身を潜めている。1人でいるときに、誰かの視線を感じる。だが誰もいない。どこにもいない。
女優がベッドと壁の隙間を覗き込む。そこには緑色の顔をした男が挟まっている。
そこで再び画面は暗転する。
「なにこれ」
オカキヨが顔をそらす。私はわざとらしい演出がおかしくて笑った。
「面白いじゃん」
「嫌だよ、なんか気持ち悪くなってきちゃった」
オカキヨは缶ビールにも手をつけずに立ち上がる。
「なに、帰るの?」
「うん。もう遅いし」
「気をつけてね」
オカキヨは逃げるように帰って行った。片付けもされずに置きっ放しになった缶やつまみの類を眺めて私は急に疲れを感じた。
テレビはまた別のドラマを流し始めた。さっきの隙間男は結局どうなったのか。
明日もまた仕事なんて、憂鬱。
オカキヨの言葉を思い出して私も憂鬱になる。ふと目線をベッドにやる。
ベッド下の暗がりと、わずかに空いたベッドと壁の隙間に気を取られる。
確か、同じような都市伝説に友人が夜泊まりに来た後でしきりに外出しようと誘うというものがあった。主人公が一緒に外出した後で、友人が真っ青な顔で斧だか包丁を持った男がベッドの下に潜んでいた、と言うのだ。
よく分からない暗がりというのは、それだけで不気味だ。それが生身の生活と密着したものであるならなおさらだ。私はあのテレビを見た後で、ベッド下の暗がりを覗いて見る気にはなれなかった。
シャワーを浴びて、再び戻って来ると今度はベッドと壁の隙間が不気味に思えた。
隙間男。
ドラマの内容が勝手に頭の中でリフレインされていく。
なんてことない暗がりと隙間に囲まれた生活。そこから息を殺して見つめてくるもの。それと視線を合わせようとする女優の後ろ姿、白いうなじ、横顔、張り詰めた鼻先。暗がりに挟まる緑色の隙間男。
私はそっとベッドと壁の隙間を覗き込もうとしてやめた。そして、思い切りベッドを壁に向かって押し込んだ。そう重いベッドではない。思い切り押せばぴったりと壁につくと思っていたのに、意外なほどベッドは動かなかった。
何かが挟まったようで、一向に動かない。だがあの暗がりを覗く気にはなれなくて延々と私はベッドを押し続けた。すると段々硬い押し心地だったものが柔らか味を帯び出して、ベッドも微かに壁際に近づいていくようだった。私は脚を踏ん張って、さらに力を込めた。
思い切り押し込んだ途端に、何か硬いものが折れるような音が隙間からした。それと同時に、
「ぐええっ」
と鶏を絞め殺すような叫び声がベッドと壁の隙間からした。私は一瞬だけ手を止めて、さらに押し込んだ。抵抗は一気になくなって、ベッドは壁際にぴったりと隙間なく引っ付いた。私は暗がりのなくなったベッド際に満足して、横になった。
翌朝目が覚めてみると、なんだか異様な生臭さに目眩がした。目が覚めたのだって、自然な覚醒ではなくてこの異様な臭いのせいだった。
私は静かにベッドを手前に引きずって、わざと隙間を作った。意図的にできた暗がりに目を凝らす。
そこには1人の男が挟まって、死んでいた。
隙間男だ。
でもこの男は確かに暗がりの隙間にいるけれども緑色ではなかった。ただの生身の人間だった。異様な臭いはこの男からしていた。
あぁ、いっそのこと本当に都市伝説の隙間男だったら良かったのに、と思った。生身の人間ってやつは面倒だ。
臭いは残るし、粘膜やら体液やらも一度ついたらそうそう綺麗には取れてくれない。
それになにより、もうこんな部屋には居られない。仕事の合間をぬって不動産屋に通い、手続きをして諸々の費用を捻り出すことを考えただけで泥のような面倒臭さでいっぱいになる。あぁ、その前に警察に連絡しなければならない。なんて言おう。今日は出勤できそうもない。なんて言おう。
あの時思い切りベッドを押し込まなければ、どうなっていたのだろう。男がぺしゃんこになる前に、私の方が殺されていただろうか。
それよりも、どうやって男はこんな隙間に入り込んだのだろうか。
今となってはどうなるものでもない。
私は自分の視野が次第に壁際に、それよりも狭い隙間に追いやられていくような錯覚に陥った。
あぁ、電話をしなければ、電話をしなければ、電話をしなければ……。
なんて言おう、なんて言おう、なんて言おう……。
次第に視界が暗転して、私は気がつくと暗がりの中にいた。首がつかえて息がしづらかった。不自然な格好で膝を抱え顎が胸にぴったりとついている。両脇からの圧迫感で内臓が浮腫んでいるように感じた。
慣れてくると自然と物音が耳に入ってくる。足音がしたかと思うと、間近で聞き知った声が聞こえてくる。
「やだ、隙間が空いてるじゃない……昨日の怖いやつ思い出しちゃう」
オカキヨの声だった。
喉が締まっていて、私は上手く声を出せなかった。
微かな振動で、オカキヨがどこかに手をかけたのが分かった。私は自分がどこにいるのかを悟った。
ベッドと壁の隙間に挟まっているのだ。オカキヨのやろうとしていることは分かった。
思い切り押し込まれる。まず私の骨が抵抗する。さらに押し込まれる。内臓の浮腫みが激しくなる。やがて骨は脆くなって、健康な腕力に負ける。
「ぐええええっ」
私は最期に鶏を絞め殺すような叫び声を聞いた。
再び視界は暗転する。
隙間男 三津凛 @mitsurin12
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