第6話
灰色の空の隙間からは、黄昏時の赤が差し込んでいた。
「ユピナはいつも独りでした。何と言うか、浮世離れしていて、あまり周囲と馴染む子じゃなかった。おまけに……他の人よりひと際大きな翼を持っていて、飛行能力も飛びぬけて優秀でしたから、それが周りの嫉妬を買って、余計に孤立していったんだと思います」
空路塔の上でセイルがとつとつと語り出した。
「俺は……自分で言うのも何ですが、ユピナと仲の良い数少ない人物でした。周りが何と言おうと彼女は大切な友人だと思っていましたし、向こうにとって俺もまたそうであると思っていました」
「……それで?」
俺が落ち着いた口調で先を促すと、セイルは一瞬口をつぐんで苦い表情を浮かべた。
「……俺は、ユピナが何を求めていたのかに気付いてやることができなかったんです」
その遠回しな言い草で、俺は何となく察した。要するに、ユピナはセイルに恋愛感情を抱いていたのだろう。しかし、セイルはあくまで彼女のことを友人としてしか見ていなかった。よくある悲恋模様だ。
「で、あんたに拒絶されたことにショックを受けたユピナは家を飛び出したってとこか?」
「そんな、簡単な言葉で片付けられるのは彼女が可哀そうだ」
ユピナを擁護したい気持ちは分かるが、そういう中途半端な優しさが余計にあいつを傷つけるのだろうな。そう思うも口には出さず、軽くため息を吐くに留めた。
「本質はそうだろう。それともそういう話ではなかったか? 解釈に誤りがあるなら言ってくれ」
「いえ、そういう話です。俺では、ユピナの孤独を埋めてやれなかった。それでも、このままいなくなるのも耐えられませんでした」
「それは、いい。正常な感性だ。恋愛対象として見ていないことと、愛していないことは必ずしもイコールじゃない」
「そう言っていただけるとありがたい」
セイルが目で礼をする。こいつは善人だ。だが汚れを知らなさすぎる。それがこの件の遠因ではないかとも思うところだ。
「で、あんたはどうするよ? 思いっ切り拒絶されたが」
するとセイルは、まるで後生大切に持ち歩いていた親の形見を空に投げ捨てるかのような面持ちで答えた。
「俺は、帰ります。きっと今のユピナではこれ以上聞く耳を持ってくれないでしょう」
「賢明な判断だ」
俺は慰めることも、意気地なしと責めることもしなかった。その代わりにこう続ける。
「もし時間と資金に余裕があるなら、日を改めて来てくれ。その時にはあいつの心境もいくらか変わるかも知れない。何なら先に俺の家に来るといい」
「えっ」
セイルは川流れに木片を掴んだような驚きをその目に湛えてこちらを見た。
「いいんですか?」
「いいも何も、あんたは悪い人間じゃないしな。互いに丁度いい所が見つかれば、あいつは立ち直れるだろう。ガキの決心なんて、一晩経って後ろからつついてやれば案外簡単に揺らぐものだ」
「いえ、ですが……」
何か勿体を付けているセイル。
「あ? 何が言いたい?」
「その、あなたはユピナが自分のもとを去ってしまうかも知れないことを、何とも思わないのですか?」
「……」
まるで、さっきの俺とユピナとの間の問答をほじくり返すような質問だった。
「あのな、俺だっていくらかあいつに情は移っている。だからこそ、あいつにとって最善の選択をしてほしいだけなんだ。そこに俺の意見は関係ない。そう、さっきも言った」
「しかし、ユピナが今望んでいるのは、誰かに心から求められることだと、思うんです。損得勘定とか、現実論ではなく、もっと感情的で、何かこう、他の全てを踏み倒してでも自分が選びたいと思えるだけの理由を、誰かから与えられたいと願っている」
「……」
中々どうして的を射た彼の考察に対して、俺は何か気の利いた返事を考えたものの、結局いずれも上滑りしそうで、仕方なく沈黙を返した。
「身勝手な話ですが、今日ケンリヒさんに会って、あなたがユピナを支えてくれるのなら、それも一つの道なのかも知れないって思ったんです。……では、失礼します」
最後にそう言い残して、セイルは外套を羽織るのと同時にオーラ状の翼を広げた。白い燐光を放つそれは宵闇の迫る雨上がりの曇天の下でよく目立ち、濡れた石畳に落とされた白い絵の具のようであった。
それから一足飛びに舞い上がったセイルはたちまち向こうの港町の方へと飛び去ってしまった。
「俺があいつに理由を与えて、果たしていいものかね……」
俺は頭を神経質に掻きながら大きなため息を吐き、部屋へと引き返していった。
そして俺は、すぐに凍りつくことになる。
「ユピナ……?」
未だ暖炉の火だけが寂しく揺れる部屋の中に、ユピナの姿はなかった。てっきり泣き疲れてふて寝しているか、気丈にお茶でも淹れて待っているものかと思っていただけに、背中を駆け上がる嫌な予感はたちまち胸の中で広がっていった。
まさか、と思いつつも、変に思い切りのいい所があるユピナが自棄を起こす様はありありと目に浮かんだ。
俺は反射的に駆け出し、空路塔の階段を駆け下りた。
こんな時、今し方のセイルのごとく空路塔の上から翼を広げて一気に外に飛び立てたのならどんなに……という考えが頭の中を反響する。翼を持たない自分を今ほど恨んだことはそうないだろう。
転がり落ちるように階段をくだり、外に飛び出して浮遊島外縁の草原を駆け、ユピナの姿を探す間、自分が地を這う亀のように鈍間でもどかしい生き物に思えた。
「早まるなよ、ユピナ……!」
やがてユピナの姿を見つけたのは、俺とユピナが初めて出会った地点だった。
浮遊島の端も端であるそこは少しだけ先の尖った岬のようにも見えて、眼下にはくすんだ朱色に染まる空があった。
「ケンリヒさん、どうしたんですか?」
振り返ったユピナは思ったより落ち着いていて、いつもの平坦な無表情を張り付けていた。
「どうしたって、ユピナこそ、こんな所で何をしているんだ」
焦燥感をぐっと堪え、低い声色で問いかける。
「私は……さっき少し取り乱してしまったので、気分転換がしたかったんです。いけませんか?」
「っ……」
そう言われてしまうと返す言葉がない。いや、実際その通りなのかも知れない。俺が勝手に早とちりしただけ。そりゃユピナだって居た堪れない気分だったはずだ。安堵とも拍子抜けとも言えない感覚と共に、肺の中の空気が一度すべて押し出される。
「気が済んだら帰るぞ」
「それは、まだ私はケンリヒさんのそばにいてもいいって意味ですか?」
まるで揚げ足を取るような問いに、若干の煩わしさを飲み下して不器用な笑みを浮かべる。
「あんたがまだここに居たいならそうすればいい。さっきからそう言っているだろうが」
「じゃあ、私が今ここで消えると言ったら、そうさせてくれるんですか?」
冷たい風が胸の奥をすり抜けた。ユピナはその声音にも、瞳の中にも一切の感情を表さず、ただただ凍え切った言葉だけが投げられた。
「なっ、あんた何を……」
「ごめんなさい。少し、あなたに意地悪をしてみたくなってしまいました」
そう言ってユピナは幽かに笑みを浮かべた。それは何か吹っ切れたようなある種不吉な微笑みで、彼女は羽毛みたいに軽く頼りげない足取りで崖の際まで寄って、くるりとこちらを向いた。
「おい、よせっ」
俺の制止は、しかし空しく宙へと掻き消えた。
ふわり、とユピナの半身が後ろへと倒れ込む。アッシュブロンドの髪が重力を失ったかのように舞い上がり、祈りを捧げる聖女も顔負けの安らかな表情で目を瞑る。
そして少し遅れて彼女の体は重力に絡め捕られ、虚空の底へと落下していった。
「ユピナ!」
弾かれたように崖際に駆け寄る。そして俺は――なぜ一切の躊躇もなくそうしたのか分からなかったが――とにかくよく分からないまま、飛んだ。
足場のない空中に放り出された体はみるみる落ちていく。
風を切るごうごうとした音の波の中、仰向けになって落ちていくユピナの姿を捉えた。
直感的に体勢を変えて、胴体を垂直に近づけ、俺はハヤブサのごとくユピナめがけて落ちていく。
落ちて、落ちて、もはや飛んでいた。
俺は生まれて初めて空を飛んだのだ!
浮遊島を支える大きな雲の器の下から太陽が覗き、朱色の夕陽が俺たちを照らし出す。
そして遂に、ユピナをこの腕の中に引き寄せた。
「ケンリヒさん……!」
ユピナが目を大きく見開いてこちらを見つめた。
「馬鹿野郎がっ……!」
まず第一声に、死んでも言っておきたかった言葉をぶつける。
そして、
「勝手に消えて、いい訳がないだろう! いいか、一度しか言わない。俺のそばにいろ、ユピナ。生きて、悩んで、色んなことを経験して、たくさん間違って、それで笑って死ね。俺もあんたと一緒にそうする。互いに気の済むまでそうしていればいい。いや、そうさせてくれ!」
落下する勢いに任せて、俺は一気にまくし立てた。
まだ少し理性の残った言い回しだった。それでも、俺の本心は誤魔化しようもなくユピナの存在を必要としていたことを、ここで伝えることができた。
そうは言っても、このままでは二人とも死ぬんだがな。
と、呑気な諦観に口もとを緩めた時だった。
白く、視界が埋め尽くされた。
まばゆい白光が二人を包み込み、やがてそれは一対の翼となる。
ユピナの背中から現れたそれは、彼女の背丈を優に上回るほどの大きな大きな翼だった。
そして奈落まっしぐらの自由落下は緩やかに止まり、ユピナは決して落とすまいとして俺の体を強く抱きしめた。
「今度こそ気が済んだか?」
分かり切った答えを、あえて促す。
「ごめんなさいっ……ごめんなさい……っ!」
ユピナは涙声でしきりに謝った。どうやら正気に戻ってくれたようだ。いや、気が晴れたと言った方が正しいか。
「もうこんな馬鹿なことはしませんからっ……もう少しだけ、あなたのそばに居させてください」
「ああ」
俺もユピナの背中に手を回した。そのときにふと思いついて、彼女の翼に触れてみる。鳥の翼のように実体はない。煙を掴んでいるかのようだ。しかしそれは陽だまりのように仄かに温かくて、ユピナの生命をそこに感じた。
何て見事な翼なのだろう。セイルのそれよりも、いや、今まで見たどの翼よりも大きく美しい。夕焼けの黄昏色でさえも、彼女の純白の羽を染めることは叶わない。
この翼の白さを、守ってやらねばならないと思った。そしてユピナがこの翼を大きく広げて、光の下で自由に羽ばたける、そんな日を迎えさせてやりたいと思った。
それは翼を欠いた俺自身の幸せでもあり、救いでもあるのだから。
「綺麗な羽だな」
自然と口を突いて出た言葉に、ユピナは耳元でくすぐったそうに笑った。
fin.
俺は君の手を掴めない。雲の上の島で、俺だけが翼を持たないから。 西田井よしな @yoshina-nishitai
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