♡51 マドンナに迫る変態/『お前のためだろ』メガネは砕け血の味がした

 僕は勇敢に立ち向かい、見事、朝倉先輩を悪漢飯田から奪還することに成功した。


 ……と、言えたらかっこいいのだけれど。現実はメガネが壊され、顔面の左側をひどく殴られた。これを第一ラウンドとしようか。


 あれは放課後、テニスコートの前だった。テニスコートは通学路沿いにあって、人気な部活でもあったから、部員や練習を見学して声援を送っている生徒がいつも多くいる。その道で、僕はいきなり飯田先輩に背後から蹴られ、つんのめると同時に顔を殴られたのだ。


 一瞬、すべてが真っ暗になった。それから気づいたときには、陽の沈みかけた空が視界に広がっていた。といっても、メガネ不在だと、ぼやけて色があるくらいにしか見えなかったけれど。


 僕は、もう皆さんご存知のように、平和主義者である。何事も穏便に済むことに越したことはないし、自分が折れて済むなら、べこりと折れてやることもやぶさかではない。我慢して済むなら我慢するし、耐えられるものは耐えてみせようとする。


 だから、殴り合いのケンカなんて数えるほどだ。一番激しいやつでも、あれはたしか幼稚園の年長組のときにやったひと騒動くらいで、きっかけは忘れたが、ぺちんと叩いて、ぽかぽか殴って相手が泣いて、ついでに僕も泣いたというアレが最高だ。せいぜい、そんなもんなんだ、僕は。


 なんで、まぁ、くだくだ述べたが、ケンカは弱い。それに耐性もない。ひっくり返って天を仰いだ僕は、ただただ唖然として、頬に手をやるだけ、立ち上がることすらできなかったんだ。


 周囲には人だかりがすぐにできた。皆、やいやい言っていたが、どうやら飯田先輩を応援している声のほうが多いようだった。ケンカより、むしろ、イジメとでも言った方がいい状況なのに、僕は「マドンナに付きまとう変態」レッテルを貼られたようで、観衆の目はひどく冷たかった。


「てめぇ、誰の女に手ぇ出してんだ」

 と言ったのは飯田先輩だ。

「誰の女に」の女というのはこの場合、朝倉先輩のことだろうとは思ったが、僕は自分に非は一切ないと断言できたので、ムカッとした。


 でも、ムカッとしたところでスーパーマンに変身できるわけもなく、僕はむくりと上半身を起こすと、相変わらず痛む頬に手をやって、黙っていた。その態度はややふてぶてしかったのだろう。ヤジが飛び、飯田先輩のボルテージが上がったようだった。ポキポキと音が鳴る。指を鳴らしたんだろうか。


 古典的なケンカ野郎だな。僕はメガネがないので、さっぱり見えないのだが、それでも危険は察知した。なんとか腰をあげて防御の体制をとるか、もしくは逃走しようと思ったのだが、残念なことに足は力が入らず、腰も弱々しくへたり込んだままだ。


 まずいな。どうしよう。僕はガタガタ震えた……こともないが、ひやりとした恐怖を味わっていた。すでに顔はジンジンしているし、尻もちをついたおかげで、手やひじ、腰や尻や、なぜか踵まで痛かった。


 と、パリンと音がした。まいった。落ちて転がっていた僕のメガネを割られたらしい。げらげらと笑い声。最悪だ。メガネは一個しか持ってないんだ。授業もテレビも、道路標識すら、なんにも見えなくなるじゃないか。


 飯田先輩がなぜ、こうも突然、僕に殴りかかるほど怒っているかというと、数日前に朝倉先輩といっしょに下校したことが原因なんだ。あのとき、誰かが見ていて、彼に告げ口したようだ。


 デートしていた。と、言ったのか。

 それとも、変な一年が付きまとっていた。と、伝えたのか。


 正確なところは分からないのだが、とにかく彼は怒っていて、今まで蠅ぐらいの扱いだった僕を、まともに意識し始めたらしい。朝倉先輩も、もしかしたら、何か火をつけるようなことを彼に言ったのかもしれない。


 実際に起こったことは、下校時に道路の真ん中でうずくまっている朝倉先輩を見つけ、声をかけると、

「お腹がすいて歩けません」

 というので、クレープとタコ焼きを買って食べ、それから、

「ブランコしたい」

 とのことだから、公園へ行き、そこで遊んでいた小学生と鬼ごっこやかくれんぼ、何だか分からないが複雑で独特な遊戯を楽しんで、夕暮れ前には帰ったというだけのことだ。


 非常に健全でさわやかな出来事。暗くなる前には帰宅したし、途中までだったけれど、朝倉先輩を送り届けもしたんだ。


 それに、家庭のちょっとしたトラブルまで話せば、帰宅後、部活帰りの妹に、「晩御飯まだ?」と偉そうに言われたので、プチキレして、「茶漬けでも食べろ」と言ってやったら、ギャーギャーわめくので、こっちも疲れていたこともあり、ぴしゃりと厳しい態度に出た。その言い合いに、幼い弟が恐れをなして大泣きし、その声がうるさいと妹がますますキレ始め、僕もイライラして三人で泣いてわめいての大騒動になったのだが、そんなことはどうでもいい。とにかく、僕は殴られるようなことはしていない。


 少なくとも、飯田先輩に殴られるいわれはない。彼としては「彼女」に手を出したと言いたいのだろうが、すでに朝倉先輩に振られているはずなんだ。むしろ、「マドンナに付きまとう変態」は彼、飯田たくやのことで、決して僕ではない。だから、力を振り絞って、立ち上がり、彼と対峙しなければならないのだ。分かっている。分かっちゃいるが足が立たん。


 小鹿のような非力さだったが、欠片でもいいので男気を見せようとした。が、ダメだ。痛いし、恥ずかしいし、なんだか僕が悪者扱いなもんだから、心も挫けてきてしまう。


 そうこうしているうちに、飯田先輩にもう一発殴られ、髪を引っ張られた。ガクンガクンと頭を激しく揺さぶられ、脳みそがシェイクして吐きそうになるし、ハゲそうになるし、口は血の味がして気持ち悪い。


 血の混ざる唾液を飲み、目をあけようとするが、気分の悪さが勝って視界は真っ暗になるばかりだった。ちかちかと浮遊している白い点が危険信号のように点滅して、まぶたの裏なのか、それとも薄目を開けた現実の中なのか分からないが、とにかく揺れていた。


 何か彼に言ってやりたい。でも、言葉が出てこずに、代わりに血の味を喉に流し込む。硬く口を閉じて、こぶしを握り、とにかく耐えようと僕はしていた。


 と、「きゃー」という叫び声がした。それまでも、叫び声はしていた。高い声、低い声。誰かが先生を呼びに行く声も、ちゃんと聞こえていた。


 でも、この「きゃー」だけは耳がすばやくキャッチして、心が場違いなほど陽気に跳ね上がった。


「なにやってんの、たくちゃんっ」

「うるせーな。おめぇのためだろ?」


 朝倉先輩だ。彼女が、そばにいる。

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