♡38 我慢の限界だ/『どっちが好き』究極の選択を迫るとき、あなたは?
妻はさけた腕にとびつき、何とかしようとはみ出る綿を中へと押しこむ。それでも、どうにもならないと悟ったのか、蒼白な顔をして、
「ヒロくん。あなた、自分が何をしたのか分かっているの?」
そう、問うてきた。
僕は腕がもげかけているくまボンを見て、それから妻の顔を見る。
「すみません」あやまったのだが、
「この人殺しっ」と叫ばれ、頬をべちんと叩かれた。
「くま殺しですよ」
僕は痛む頬をさすりながら、訂正した。かな子さんは、もう一発叩こうとするかのように、手を振りあげる。僕は次の一発をくらう前に、なんとか身をかわして、
「大丈夫、大丈夫ですって。腕は治しますからっ」慌てて提案した。
「ほんとに? ちゃんと治療できる?」
「でもますとも」
大急ぎで裁縫箱を取りに向かう。疑り深い顔をしているかな子さんから、くまボンを受け取ると、ちくちくちくと腕を縫う。ざっくり縫いをしていると、監督者である妻が細目でにらんできたので、丁寧に縫い直していく。脳内BGMでは、母さんが夜なべして的な曲が流れていた。
「ほら、完璧。ね?」
修繕後、彼女に見せると、細かなチェックがあったあと、
「まぁ、許してあげますよ」とのお言葉。
「はぁ、よかったです」ほっとする。でも。
「痛かったですねぇ、くまボンさん。ヒロくんにはもう、二度と近づかないように厳しく言っておきますからね」
で、ぐりんと僕をにらみ、
「もう、彼に触らないでちょうだい。暴力反対!」
と、ぴしゃりと言った。
いつもの僕なら素直に、「はい」と言っただろう。頭だって、ぺこりと下げたはずだ。しかし、この夜は違った。素直どころか、むしろ、むくむくと湧き上がってきた『じぇらすぃ』がついに爆発して、うっかりこんなことを言ってしまったのだ。
「かな子さんって、僕とくまボン、どっちが好きなんですか?」
ハッとしたのは僕だけではなかった。かな子さんまで、ハッとしている。
嫌な予感がした。なんだか聞いてはいけない言葉を言われそうな気がして、慌てて僕は、「いや、なんでもないですよ」と両手を激しく振った。
「くまボンはくまボンですものね。ええ、わかってますよ」
何がわかっているのかわかってないが、とにかく、
「ええ、わかってますよ」と僕は繰り返した。
すると、かな子さんは、少し眉をさげて、
「くまボンさんはスターです。みんなのくまボンさんですよ」
「ああ、なるほど。うん、みんなのくまボンですね」
僕は納得したふりをした。本心では納得も何も、はははと笑い飛ばしたい気持ちだったが。
「でも、そのくまボンは」
と、僕は血迷って言葉を続けてしまった。
「かな子さんのくまボンですよね。世界にひとつだけの巨大ぬいぐるみですから」
かな子さんは、目をぱちくりさせて、
「そうね。この子はマイくまボンさんです」
うなずき、にこりと嬉しそうに笑う。この嬉しそうな笑顔があまりにもハッピーにあふれていたので、「へぇ」と、嫌味たっぷりな声が僕の口からこぼれ出た。
「ずいぶん、大切にしてるんですね」
「うん、とっても大事!」
「僕より?」
ハッとした。言って、ハッとした。僕はどうしちゃったんだ。
でも、口からはつらつら言葉が出てきます。
「かな子さんは僕がいなくても、くまボンがいれば、それでいいんでしょ」
ふっと陰のある笑いが出てしまう。
「ちゅっちゅしちゃってさ。二人の世界で僕はのけ者じゃないですか」
「あのぉ」
と珍しくかな子さんが気づかわしげに僕を見やる。
それでも、僕のうじうじ君は止まらず、
「僕が海で溺れても、かな子さんは助けてくれないんでしょうね」
「そ、そんなことないよ」
握りこぶしを作って、僕を励ますかな子さん。
「ヒロくんは助けてあげますよ」
「でも、くまボンが溺れてたらどうします? そっち行くでしょ」
「えっ」
のけぞるかな子さん。動揺している。僕はふふっと寂しげに笑った。
「いいんですよ。僕が犠牲になりますから」
「ま、待って。くまボンはヒーローですから溺れません。だから、ヒロくんを助けてあげます。ね? ほら、元気出して」
「もし、溺れてたらどうします? くまボンだって調子が悪いときがありますよ」
「そ、そんな。で、でもですよ。ヒロくんは、かな子が助けてあげます。くまボンには他の人が」
「誰もいなかったら」僕はつめよった。
「誰もおらず、かな子さんひとりで、僕とくまボンが溺れていたら?」
「はぅ」とかな子さん。
「そ、それは……」
彼女は悩みだした。体を左右に揺らしている。右にくまボン、左に僕がいるのかもしれない。ゆらゆらと振り子のように揺れている。
「ヒロくんは泳げませんか?」
しばらくして、そう問うてきた。
僕は首を振り、「溺れますね」と断言した。
「じゃ、じゃあ」とかな子さんは、眉間に深いしわを作り、
「ヒロくんを……、うーん」迷い出した。
僕は手をひらひら振り、
「いいですよ。わかってます。僕はくまボンには勝てないんだから」
「え、そんなこと」
「いいんです。どうせ、僕は空も飛べなければ、息止めもせいぜい一分が限度ですよ。稼ぎも少ないし、土日も部活の顧問で忙しいし。もっさりで、視力も悪けりゃ、どんくさいんだから」
どうせ、僕なんて。ふっ。
「ヒロくんは、ヒロくんでしょ」かな子さんが説得にかかる。
「くまボンは、くまボン。ヒロくんは、ヒロくんよ」
「じゃ、僕のこと好き?」
「えっ」
妻はひっくり返りそうになるほど、驚いている。
僕はさらに、
「くまボンが、もしですよ」と、ずいと体をのりだして続けた。
「『かな子ちゃん、僕と結婚して』ってプロポーズしてきたら、どうします?」
――次話につづく
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