♡36 ヒロくんがブチ切れるとき 2/『あなた、やめて』泣き叫ぶ妻に回転マーチ
「いいですか、かな子さん。くまボンは黒タイツ一択で十分なんですよ。それにお着替えも不要です」
真顔で説明する。しかし、妻は腹を立て、
「そんなことないっ。ヒロくんにくまボンさんの何がわかるのよ」
と言い返してきた。それでも負けじと、
「わかりますよ。こいつは放っておかれるのが好きなんだ」
主張した。けれど、
「こいつって誰のこと。くまボンさんですよっ」
般若顔で怒る、美人だったはずの妻。ええい、わからずやめ。
僕はくまボンを引っつかむと、ぶん投げてやった。
「ヒロくんっ」
かな子さんの悲鳴交じりの叫びが響く。
くまボンは壁にぶつかると、ずるりと落ちて床に伸びた。
「なんてことを。ヒロくん、最低です」
わーんと泣きながら、くまボンに駆け寄るかな子さん。くまボンの胸にすがりつき、おんおんと泣きじゃくる。僕はそんな彼女の背後に立つと、死んだ熊と泣き叫ぶ妻を見下ろし、
「ふんっ。ざまーねぇな」
そう吐き捨て、熊にすがりつく妻を強引に引き離した。尻もちをつく彼女をよそに、僕は黒毛が密集する腹を踏んづけると、高笑いを繰り返す。
「ははははは。どうだ、痛いか。はははは」
「いやぁぁ、やめて。許してよ」
「ははははは」
妻の泣き叫ぶ声を聞きながら、僕は熊を踏んづけた。奴はぐじょぐじょによじれ、丸い尻尾はとれて、あっという間にゴミ人形になっていった。
「あなた、やめてっ」
妻は足にすがりついて必死に止めようとしてくるが、僕は止まらない。ずんずんずん。さらに踏み続ける。
「ははははは、はぁ~、ははは」
愉快だ。ああ、愉快だ、愉快だ。
「――ねぇ、ヒロくん。なに笑ってるの?」
ずいっと額がくっつくほどの距離にかな子さんがいた。きょとんとして小首を傾げている。僕はハッとして、自分の頬を叩いた。
「ちょっとあらぬ方へ意識が飛んでいました」
「そう? 突然、『ははは』って笑うからびっくりした」
「すみません、ほんとに」
ぺこり。謝罪する。かなりやばい妄想に憑りつかれていた。
キケン。なんだか自分で自分が怖いんですけど。
くまボンはというと、僕にボコボコにされることなく、ちゃんとソファに座り、相変わらず無表情の死んだ目をしていた。僕の白シャツを着て、チノパンをはき、頭にはなぜか豆絞りの手ぬぐいをかぶっている。ほっかむりってやつか。なんつぅコーデだろう。鬼才のセンスは凡人の僕には到底わかりっこない。
「かな子さん」僕は弱々しくつぶやくと、彼女を抱き寄せた。
肩に顔を埋めると、甘い香りが鼻先をくすぐり、頬には柔らかい髪が触れた。
「あらら、どしたの? ヒロくん、元気ないのね」
「うん」
ぽんぽんと頭を叩かれ、なでなでされる。
「こういうときはね、くまボンマーチを歌うことです」
「は?」がばりと顔を上げる。
かな子さんは「うんうん」となんだか嬉しそうにうなずき、
「いっしょに歌いましょう」
ぴょんと立ち上がってその場で行進を始めた。
ちゃんちゃか、ちゃんちゃん。
ずんちゃか、ちゃんちゃん。
たぁのしぃ、毎日 お日さま、さんさん
歩くの たぁのしぃ 元気に ぴょんぴょん
ぼくもあたしも くまボンもぉ~
みんな 明るく 元気だよぉ
るんるん 歩こう
るんるん 進もう
ほらほら あの子も 笑顔だねぇ
みんな とっても 素敵ぃだねぇ
はいっ ほいっ るんたった
はいっ ほいっ るんたった らららん らん
「ほら、ヒロくんも立って。るんたった、るんたった」
リビングをぐるぐる行進するかな子さん。途中、ソファのくまボンを抱き上げると、ダンスをするように手を広げて、くるくると回転する。
「ほらほら、ヒロくんも。るんたった、るんたった」
ぐるぐるぐる……あっ。
どてんとかな子さんは、カーペットにつまづいて転んだ。
むぎゅとくまボンが下敷きになる。
「あうぅ。びっくりしました」
「よかったですね。くまボンがいて」
僕は本心から、そう言った。やれ。たまには奴も役に立つんですな。転んだ彼女が痛い思いをしないですんだ。
るんたった、るんたった……、マーチまで発表されたのか……
元気に立ちあがり、再び回転しながら踊り歌う妻。僕はのそりと立ち上がり、お付き合い程度に行進を始める。るんたった、るんたった……
「ヒロくん」
「はい?」
ぐいっと熊を押し付けられる。
「踊って。るんたった。笑って、るんたった、ですよ」
「……がんばります」
くるくるくる。
るんたった……、くるくる……どて。
「あらら、ヒロくんまでコケたのね」
「痛い……」
タイツ野郎はなぜか僕をかわしやがった。おかげで顔面からいったじゃないか。なんだよぉ。ちくしょう。負けないもん。ぐずっ。
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