♡35 ヒロくんがブチ切れるとき 1/『タイツは脱がさないで』卑猥な光景に絶句

 かな子さんの等身大くまボンに対する溺愛ぶりは、すさまじかった。くまボンラブが、奴の登場によって爆発してイッチャッタかんじのすさまじさなのだ。


 家では常にずるずると奴を引きずって歩き、お風呂にも入れようとするので、脱水が大変だと大慌てで止めた。他にも食卓には当然のごとく奴も同席するし、リビングのソファは奴とかな子さんで占領している。


 まぁ、いいさ。

 うん、いいよ。


 奴は気持ち悪いし、目障りだが、僕はなるべく平静をたもとうと苦心した。ただのぬいぐるみなわけで、いちいちカッカしていてもくだらない。かな子さんが奴に抱きつき、四六時中べったり生活をしていたとしても、生きた人間である僕が嫉妬してどうするんです。恥ずかしいマネはせずに、大らかな気持ちで妻の奇行を迎えるべきなのは分かっているんだ。


 それでも、かな子さんが、

「くまボン、大好きでーす」


 と奴にチュッチュしているのを見るのは、息の根が止まりそうなほどショッキングな光景だ。日に何度もチュッチュしている。それから、頬ずりして抱きつき、またチュッチュしている。奴は当然のようにそのチュッチュを受けている。無表情だ。ズーンと偉そうに座って、しれっとしてやがる。


 いやいやいやいや。

 無表情に決まっているじゃないか。僕はどうかしているな。


 奴が表情豊かになって鼻の下なんか伸ばそうものなら、気持ち悪いどころかお祓いが必要になる。うん、無表情でいい。しかし、なんか偉そうなのだ。そこが気にくわない。あんなにチュッチュされているというのに、まばたき一つしない。


「くまボンさん、お世話してあげますよ」


 ある日、かな子さんはそう言って、奴の黒タイツをいそいそと脱がしにかかった。まだ朝食を食べたばかりで、爽やかな晴天はリビングを明るく照らしていたのだが、僕はひぃぃと血の気が引いて、思わず彼女の手をつかんでとめてしまった。


 卑猥だ。なんか、もう、泣けてくるほど卑猥な光景だったんだ。奴はぬいぐるみだが、巨大だ。そして、生々しい。反応しすぎだとは思うけれど、いやらしいタイツ姿だし、それを脱がすなんて、おぞましいったらない。


「もう、なんなの、ヒロくん」

 むぅと怒るかな子さん。僕は首をぶんぶん振った。

「だ、だめですよ。何を脱がしてるんですか」


 動揺しているこちらに対し、妻はふんと鼻を鳴らして、


「お洗濯しないと。新しいタイツもあるんです」


 と厳しい声音で言ってくる。それから、立ち上がってリビングを出て行ったかと思うと、ごそごそと何やら紙袋をさぐりながら戻ってきた。


「赤にオレンジ。緑もあります。黒が定番ですけど、くまボンさんだって他の色をはいてみたいと思うんです」

「いやぁ……でも」


 紙袋の中身はタイツのようだ。かな子さん的には、着せ替えごっこのつもりだろう。床に置かれた紙袋にさらに目をやれば、網タイツとフリフリレースたっぷりのニーハイが入っているのまで見えた。


 くまボンはオスだと思ったのだが、そのあたりはフリーなんだろう。でも相手は二メートルを超える巨大熊で、可愛さよりもリアルさが際立つ代物だ。僕はどうしても抵抗があった。


「タイツは脱がさない方がいいですよ」


 僕はやんわりと言った。

 しかし、彼女は豹変するかのごとく突然怒り出し、

「どうしてよ!」と、スパンと赤いタイツを床に叩きつけたかと思えば、

「ヒロくん、邪魔するなら出て行って」


 ぐさりとくる発言をさらりと言う。

 衝撃を受けた僕は、すがりつくように彼女の腕をとった。


「え、待ってよ。そんなに怒らなくても」

「怒ります。とってもプンプンしてます。いまからくまボンさんと二人で遊ぶの。関係ない人は出て行ってちょうだい」


 出て行ってちょうだい。

 リフレイン。出て行ってちょうだい。

 涙も出ない悲しみに、僕は絶望を見た。


「ったく。さ、くまボンさん、お着替えしましょうね」


 せっせと世話を焼くかな子さん。僕はそんな彼女を部屋の隅から眺める。

 大人しくしていないと、本当に家から追い出されそうな剣幕だった。


 しばらくの後。


「まぁ、素敵」


 パチパチパチと拍手。赤いタイツのくまボンは無表情。満足げに我が仕事を誇るかな子さんは微笑ましいっちゃ微笑ましい。ふぅと汗を拭いニコニコしている。僕は遠い目をして、ぼんやりとその光景を見やるのみだ。


 次に妻は、いそいそと赤タイツを脱がしたかと思うと、どこかで見覚えのあるベージュのズボンをはかせ始めた。手つきは優しく、とても甲斐甲斐しい。


「はいはい、ちょっと股下が短いですねぇ。ウエストもキツイかしら」


 うんしょっとボタンを留める。きゅっと細く絞られるくまボンのウエスト。そこで、あることに気づいた僕は、恐る恐る発言した。


「かな子さん。それ、僕のチノパンですよね」

「ん? ヒロくん、いたの」

「うん、いたよ」


 ずきずき痛む胸を押さえながら、彼女に近づく。隣に座り、でろんと偉そうに床で寝ているくまボンを観察する。うん、やっぱり僕のチノパンだ。


「悪いけど、くまボンに僕の服を着せないでくれるかな」


 さりげなく、ただし毅然とした態度で僕は言った。

 かな子さんは驚いたのか、目を丸くして、

「どうして? いじわるね」と口を尖らせる。


「いつも文句言わないのに。どうしてダメなの」

「どうしてって」


 こいつが嫌いだからだよ。とは、言えず。


「ちょっと……困るので。僕、かな子さんと違って、服あまり持ってないし」

 と、遠回しに言ったのだが、

「買えばいいじゃない。そうだ、今から買ってきたら? もうちょっとウエスト大きいやつにしてね。くまボンさんとシェアすればいいよ」


 ねぇ、くまボンさん。なんて、奴に笑顔を向ける妻がここにはいるんです。

 僕は彼女の肩をつかんで、こちらを向かせた。


 ――2につづく。 

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