くまボンVSヒロくん

♡34 負けられない戦いが始まる/『抱っこしてみる?』奴は突然やって来た

 かな子さんがくまボンに憑りつかれたのは、いつからだろうか。

 気が付けば、我が家はすっかりあの黒毛熊に侵略されていた。かな子さんが、くまボンの熱狂的なファンであることは、あまり周囲には知られていなかったはずだ。少なくとも、僕より先に気づいた人間はいないと思う。


 けれど、うっかり見つけたくまボンポーチを、僕が彼女にプレゼントしたことで、このような地獄のくまボン生活が始まってしまったのです。


 ある日、かな子さんは職場にくまボンポーチを持参した。

 それに目ざとく気づいた誰かさんが、


「あれ、かな子ちゃん、くまボン好きなの?」

 と訊いたとか訊かないとか。それに、

「うん、大好き」と彼女が答えたり、答えなかったりで。


 やがて、そう時間のたたぬうちに、くまボングッズをわんさかプレゼントされるご身分になった。


 くまボンバスタオルはいい。全然、OK、問題ない。

 くまボンリュックも、まぁいい。一個に二個あったところで邪魔ではない。


 この頃には、くまボンTシャツを購入して、ウキウキな妻を微笑ましく見ていた僕がいたのさ。


 けれど、帰宅してくまボンカーテンとくまボンカーペットに、リビングが模様替えしてあったときに、やや不安が胸をよぎった。それから寝室に行けば、ベッドカバー三点セットがくまボンになっているのをみて、しまったとも思った。


 さらに数日後。


 ソファにはくまボンマルチカバーがかけられ、壁にはくまボンからくり時計にくまボンアートフレームが飾られていた。テレビボードにはあの仲良しだったアニーとジョンソンが埋まるほどのくまボンフィギアが並びさえし始める。


 日々の疲れを癒す浴室に入れば、バスマットもくまボン。シャンプーボトルもくまボンだ。トイレはトイレで、カバーとスリッパ、それにトイレットペーパーまでくまボンの絵柄になっていたときには、僕の心臓はバクバクして危険信号を発していた。


 そんな中、一番数多く存在して部屋を埋め尽くさんとしている、くまボンぬいぐるみを最初にプレゼントしたのは、やっぱり僕なのだ。大きめの抱きごたえのある黒い熊。嬉しそうにむぎゅぅっとする姿を写真に収める僕がいたのも事実です。


 でも、キーホルダーだのミニくまボンぬいぐるみなどから始まり、小指サイズから抱き枕サイズまでとあっという間に増えていき、そこら中にくまボン、くまボン、くまボンがいるようになると、さすがに恐怖を覚えた。


 あの死んだような目と緑のアフロ。彼らが僕を見ているのだ。

 僕はあんなに買ってない。かな子さんも買ってない。されど、増殖する熊たち。


 それでもまだ、このときまでは、ギリギリ平穏だったと思う。


 かな子さんと一緒に暮らすということはこういう現象も起こりうるのだと重々承知していた。誰と結婚したのだ。かな子さんだ。こんな暮らし、全然、問題ない。くまさん最高。かな子さんがいてくれさえすれば、砂漠も荒地も、地底世界や暗黒宇宙だって、どこであってもパラダイス。


 とはいえ、あのぬいぐるみが来たことで、さすがの僕も我慢の限界を迎えた。ただのぬいぐるみと認めるには、奴はちょっと幅を利かせすぎじゃないかなと思う。あいつは夫である僕の地位を脅かそうとしているんだ。


 奴は、突然やって来た。

 あの日。最初に音がした。廊下の向こうから、かな子さんが何かをずるずると引きずってくる。不思議がる僕の前に、奴は徐々に姿を現した。


 妻は、それを小脇に抱え、にっこにこで玄関まで出迎えてくれた。このとき、僕の目からは、もっさりとした緑のもじゃもじゃしか見えてなかった。はて、なんだろう。首を傾げるのに、


「見て見てぇ。すっごいでしょぉ」

 かな子さんは目をキラキラと輝かせた。目をぱちくりさせていると、

「じゃじゃーん。等身大くまボンでーす」


 ずるずるずると、まるで長く伸びたドレスの裾をこちらに向けるかのように、くるりと彼女は体を回し、でろーんと長い物体をよくよく僕に見せてくれた。


 なんと、まぁ、廊下を引きずり運んできたのは、巨大ぬいぐるみ、等身大くまボンだったのだ。アフロからタイツのつま先まで、全長二メートル五十センチあるという。


 僕は恐怖におののいていた。怖い。なんだか、ひどく怖いのだ。


 目は死んだマグロのように真ん丸に見開いており、全身の黒毛は変にリアルな毛並みで、まんま熊の剥製だ。それでも中身は綿らしく、フニフニしていて力を加えるとグジャァと容易にへこむ。これがまた、腐りかけている水死体みたいで不気味でしかない。


 黒タイツは本物をはかせているらしく、ぴっちり下半身を包んでいて、足裏にはちゃんと滑り止め加工の肉球マークがあるという芸の細かさではあるが、そこがよけいに癪に障るときた。


「こ、こんなものが売ってあるんですか?」

 引きつり笑いの僕に、満面の笑みのかな子さんは、

「ううん。手作りだって」

 とルンルンしている。


 て、手作りっ。詳しく聞き出せば、スタイリストさんが趣味で作ってプレゼントしてくれたものらしい。よけいなことしやがってとは、このことだろう。もちろん、僕は口に出して悪く言うようなことはしないけれど。でも、どうしたって顔は引きつる。


「すごいですね」

 絞り出した言葉だ。もう目の前が暗い。

「でしょぉ。もっふもふなの」


 ぎゅぅと黒毛熊を絞り上げるかな子さん。奴の首がもげそうなほど細くなる。彼女はすりすりともっさり緑アフロに頬ずりして喜んでいる。


 や、やめてっ。

 僕はひぃと叫びそうになりながらごくりと声を飲み込む。


 なんかもう、見てられないほど不気味で恐ろしい。奴の死んだような丸い目が、圧迫されてちょっとだけ楕円になっている。むふっと笑っているようで、気持ち悪さが上昇だ。


「ヒロくんも抱っこしてみる?」どうぞと差し出される熊。

「いえ、抱っこは遠慮しますよ」


 ビクビクしながら、ぽんぽんとアフロを叩くのが精一杯のサービスだった。こうして、僕とくまボン等身大ぬいぐるみとの壮絶な争いは幕を開けたのである。

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