♡18 砂浜に名前を書いてみよう 2/『愛してるよハニー』私を捕まえてごらん
ざざーんと打ち寄せる波。
潮の香りは海に来ていることを嫌でも教えてくれます。
べつに海がきらいなわけじゃないです。ただ、妻に嫌われた悲しき夫の涙のブルースを奏でそうになっているだけです。
突然ですが。ヒロくん、歌います。
らららら、るるるるぅ~。じゃじゃじゃ~ん。
俺はハニーを失った 彼女を理解できないからさ
俺はハニーを失った 彼女を理解できやしないからさ
彼女は朝早くに家を出て 海へと行っちまった
浜辺で 俺を忘れて あそんでいるぜ
俺は枝より 価値ない男だとよ
波乗りジョニーも笑っているぜ
あっちの家族も笑っているぜ
愛してるよハニー でも彼女を理解できない
愛してるよハニー でも彼女を理解で――
「ヒロくん、見てー」
名前を呼ばれて我に返りました。
俺ブルース世界にずっぽり埋まるところでした。危ない、危ない。
「どうしました、かな子さん」
るんるんに拾った枝をくるくる回している。彼女に近寄ると、ちょっとぶっ叩かれそうになりましたが、なんとか避けました。
「ん、絵ですか?」
砂浜に画伯が誕生していた。
えーと……、ああ、僕には彼女が理解できない。
「これはねー。マーメイド隆」
誰? なんか惨殺されたサバみたいな絵ですね。
「こっちはねー、ジュゴンマイ子」
ナマコに毛が生えています。ジュゴン? お笑い芸人さんでしょうか?
すみません。マーメイド隆もジュゴンマイ子も、僕は存じ上げておりません。
「そんでねー、こっちは大作なの」
「ほうほう」
そこには巨大なバケモノが描かれていた。
人というか何? 一応二足歩行する生物らしいのは分かった。足があるので。で、なんか頭か? その部分が膨らんで爆発している。体の部分はなんだろう、くねくね蛇行していてワカメが生えているようだ。
「これはねー、ヒロくんだよ!」
僕だったよ。
「ヒロくんがねぇ、サーフィンしてるところ」
「ほほう」
喜ぼう。うん、喜ぶべきですね。ゴキゲンで僕の絵を描いてくれたんですから。僕が素晴らしい笑顔を彼女に見せようと、気合を入れていたところ、かな子さんは、「名前書いとこっと」と言って文字をバケモノ……じゃなくて波乗りヒロ君の横に付け足した。
「さ、完璧よ」
枝をぶん投げて手をパンパンと叩く彼女。僕は文字を見て、言葉を失った。
なぜって? こう書いてあったからさ。
『ひろし』
誰?
「あの、すみませんが、かな子さん。ひろしってなってますよ」
うっかりミス? しかし、彼女は僕の淡い期待を、初冬に出来る薄い氷を踏み付けるかの如く、簡単に楽しそうな笑顔付きでパリンと割った。
「え、ヒロくんの名前はひろしでしょ?」
「違いますよ」
「うそだぁ。ひろしですよ」
ひろしだったっけ?
違う、違う。絶対ひろしじゃないですよ。自分の名前は間違えませんっ。
「僕の名前はヒロキですよ。広樹」
かな子さんがぶん投げた枝を拾うと、僕は砂浜に正しい自分の名前を書いた。
「ほら、これでヒロキです。ひろしは別人です」
このバケモノはひろしで構わないけど。でも妻に「ひろし」とインプットされると困ります。かな子さんは、まじまじと砂浜の文字を確認すると、
「へーっ。初めて知った。ずっとひろしだと思ってた」
アハハぁ、と笑う。……うそん。僕はぽとりと枝を落とした。
「かな子さん、僕のこと『ひろし』だと思ってたんですか?」
「うん。ひろしのヒロくんだと思ってたよ」
えー……、うちに届く、手紙の宛先とか見たことないのかな。というか婚姻届けのとき、名前見てないの? 見てたよね? ちょっと驚きですよ。だって昨日今日、出会った夫婦じゃないですからね。高校時代からの付き合いなのですよ。なのに……僕、ひろしですと?
「かな子さん。ちゃんと僕の名前を覚えて下さいよ」
がっかりしすぎて胃痛がするなか頼むと、彼女は、
「はいはい。もう覚えましたよ」
と、ちょっと煩わしそうにうなずく。
「ヒロキですね。広い…なんか難しいやつでヒロキね」
「樹木の樹ですよ。ま、いいですよ。書けなくても」
「ヒロくんは、ヒロくんでしょっ」
むすっとして声が高くなる妻。めんどくさいなぁという心の声が聞こえてきそうです。僕は波を見つめて、心広く、そして強く生きようと誓いました。
「じゃ、ヒロくんはわたしの名前、書けるの?」
「当り前じゃないですか」
僕はぽとりと落とした枝を拾い、いそいそと文字を書く。
「ほら、『かな子』でしょ」
簡単。というかいつも通り。でも、なぜか妻はぶんぶんと首を振り、
「間違ってるっ」と叫ぶ。
「え、間違ってませんよ。朝倉かな子ですよ。戸籍はこうなってますよ」
「ちがいますっ。ぜっんぜん、間違ってます!」
えぇ、そんな。知らないうちに改名したんでしょうか。
あたふたする僕をよそに、かな子さんは枝を奪いとると、ぐりぐりと砂浜をえぐる。どでかい文字を書いているらしい。
「こうで、こうで、こうです。はい、完成」
ぶんと放り投げられる枝。砂浜にはこう書いてあった。
『ジョニー』
「ジョニーって……」
唖然と砂浜を見つめる僕に、かな子ことジョニーは、
「おいらは波乗りジョニーだぜ」
と叫ぶと、いきなり猛ダッシュで去っていった。
「え、ちょっと」
「ヘイヘイヘーイ」
これは「私を捕まえてごらん」が始まったんでしょうか。うふふ、あははってやつ。いや、違いますね。爆走してますから。
「かな子さーん。そんなに走ったら、コケけてケガしますよぉ」
慌てて後を追う僕。砂浜ですけど、すてんと転べば痛いでしょうからね。
だけど。かな子さんは僕の声が届かないのか、ぐんぐん遠ざかっていく。
何です、あの脚力。すごすぎるんですけど。
「おーい、待ってくれー」
叫びながら追いかける。かな子さんは振り向かない。もう、ひろしでもひろじでもなんでもいいので、待ってくださーい。と。
「ぶへっ」
転びました。いえ、かな子さんではないです。僕です。
口の中に砂が……
「あらあら、ヒロキくんダイジョブ?」
見上げるとかな子さんが、心配そうに眉根をよせていた。
どうやら戻って来てくれたらしい。
「うぅ、こけちゃいました」
「ドジねぇ」
ぐいっと腕を引っ張られ体を起こされる。それから、パンパンバシバシとちょっと乱暴に服に付いた砂を払われた。
「まったく。こんなに汚して。めっでしょ」
ぱちんと両手で顔を挟まれ怒られます。
「すみません」
かな子さんは、「ヒロキくんはかな子がいないとダメねぇ」
と、やれやれ首を振ったのでした。
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