【2】あなたの名をみだりに唱えてはならない

“――男は待っていた。だが何を? しかし何を待っているかよりも、どう待っているのかが問題だ。” ――エメーリャエンコ・モロゾフ『鯨の骨はすべてを統べる』


 背丈にして六尺三寸、体重は二十六貫と丁度三百匁。誰がどう見てもまごうことなき大男。姓はフォン=ブッフォン、名はチェーザレ。フォン=ブーフォンやチェザーレなども呼ばれたこともあるが、この肉体を前にすれば呼び名など些末なこと。彼は大粒の汗をしたたらせながら、眼をきらきらと光る油汚れた水たまりへと走らせ、高田馬場駅前のロータリーの中央に屹立していた。誰がどう考えても場違いであるが、彼に一瞥さえくれる者はいなかった。丸々太った鼠が一匹、走り去った。


 チェーザレは待っていた。何を? しかし何を待っているかよりも、どう待っているのかが問題だとチェーザレは考えた。WHAT TO BE OR HOW TO BE. チェーザレの親友ロレンツォが小学生の時に落書きした『リア王』の第三章一節、五行目である。隣には小さく「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「脳の中の猿」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「ちくわ大明神」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「戦争機械」「ベルルスコーニ」「カブト虫」と、隣の文字に移るにつれてサイズが1/2になっていくように書かれているはずだった。最後の「カブト虫」はもう読めないとさえ思えた――若いころと違ってチェーザレは歳を取っていたからだ。なぜなら時間が数えきれないほどたくさん流れたからだ。とても、たくさん。しかしチェーザレは覚えていた。


 隣では七人の男が自身の吐瀉物にまみれて倒れていた。いずれも無精ひげを生やし、学生風の身なりで倒れていた。すべての財布が盗まれていなかった。ベネズエラの金利インフレは100000%に達しようとしている中で、なぜこの男たちは財布を抱えまま倒れていられるのか? ベネズエラ出身のチェーザレは訝しんだ。豪胆さか、はたまた無謀な幸運か。かくいう俺もストロングゼロを飲んでいる最中だったんだがな、とチェーザレは脳からじっとりと残留したアルコールを滴らせ、ほぼ死んだ人間を見るような、やはり酒も魂もずるりと抜けきらない、いわば半分半分の状態で男を眺めていた。まさか死んでいるのか? ZATTOU……都会の膨れ切った無関心。なるほど、眠れる象に触れるべからずというわけである。ゆえにチェーザレも通行人書士これはごじですに無視されているのである。彼は高田あれ、おかしいな馬場の駅前に屹立するひとつの巨大モニュメントであり、無だ。ぽかりと空いたドーナツの穴あなをあけたのはだれだ?。


「ドーナツの穴に目を ぐっと 近づけるとどうなる?」

「世界がドーナツの中に入る。 するり つまり?」

「無ってことだ。 たとえばこのように? 一切合切が」


 男は起き上がらない。そうこうしている間にもストロングわーいゼロを飲む時間が足りなくなる。ベネズエラではストロングゼロを飲みながら歩いていたらあっという間にTAIHO-ARRESTED-されてしまうたいへんだだろう。酒がいい感じに回ってきたな、と思ったところで男は吐瀉物の中からむくりと立ち上がり、学生ローンの巨大な看板に向かってのろのろと歩いていった。何もかも焼き尽くすほど強い太陽の下、体液にまみれて歩く男の姿はあの聖人を思わせた。だれ?


 なんだったっけ……ぺテリだれだっけ?ウス……いや……

 そいつは全部ペテンだなそう?。お前は聖人の名前なんてひとつふたつも言えやしない。

 はい。


 あたりが水を打ったように静かになった。神の《聖名/MINAはい》を騙ることは許されない。高田馬場の駅前に生じた一瞬の厳粛な空間はチェーザレを心の底から震え上がらせた。これではいけない――そう思うが早いか、彼はすぐ歩き出した。信号が点滅し、大慌てで対岸に渡り、その匿名性あっここにもはいれるを回復していった。


 もはや誰もわたしを待っていないまっているよ

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1998の熱烈な邂逅(しなさい) @mizuharayuki

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