【1】わたしのほかにあってはならない
“――男は待っていた。だが何を?” ――エメーリャエンコ・モロゾフ『鯨の骨はすべすべ』
背丈にして六尺三寸、体重は二十六貫と丁度三百匁。まごうことなき大男。姓はブッフォン、名はチェーザレ。ブーフォンやチェザーレなども呼ばれるが、この肉体を前にすれば呼び名など些末なこと。大粒の眼をきらきらと光らせ、ブッフォンは高田馬場駅前のロータリーに屹立していた。
チェーザレは待っていた。何を? しかし何を待っているかよりも、どう待っているのかが問題だ。WHAT TO BE OR HOW TO BE.チェーザレの親友ロレンツォが小学生の時に落書きした『リア王』の一節である。隣には小さく「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」「ベルルスコーニ」「カブト虫」と、隣の文字に移るにつれてサイズが1/2になっていくように書かれている。最後の「カブト虫」はもう読めない――若いころと違ってチェーザレは歳を取っていたからだ。なぜなら時間がたくさん流れたからだ。とても、たくさん。
隣では男が自身の吐瀉物にまみれて倒れていた。ベネズエラの金利インフレは100000%に達しようとしている中で、この男はなぜ倒れていられるのか? ベネズエラ出身のチェーザレは訝しんだ。かくいう俺もストロングゼロを飲んでいるんだがな、とチェーザレは脳からアルコールを滴らせ、ぼんやりと男を眺めていた。まさか死んでいるのか? ZATTOU……都会の膨れ切った無関心。なるほど、眠れる象に触れるべからずというわけである。ゆえにチェーザレも通行人書士に無視されているのである。彼は高田馬場の駅前に屹立するひとつの巨大モニュメントであり、無だ。ぽかりと空いたドーナツの穴。
「ドーナツの穴に目を近づけるとどうなる?」
「世界がドーナツの中に入る。つまり?」
「無ってことだ。一切合切が」
男は起き上がらない。そうこうしている間にもストロングゼロを飲む時間が足りなくなる。ベネズエラではストロングゼロを飲みながら歩いていたらあっという間にTAIHO-ARRESTED-されてしまうだろう。酒がいい感じに回ってきたな、と思ったところで男は吐瀉物の中からむくりと立ち上がり、学生ローンの巨大な看板に向かってのろのろと歩いていった。何もかも焼き尽くすほど強い太陽の下、体液にまみれて歩く男の姿はあの聖人を思わせた。
なんだったっけ……ぺテリウス……いや……
そいつは全部ペテンだな。お前は聖人の名前なんてひとつも言えやしない。
あたりが水を打ったように静かになった。神の《聖名/MINA》を騙ることは許されない。高田馬場の駅前に生じた一瞬の厳粛な空間はチェーザレを心の底から震え上がらせた。これではいけない――そう思うが早いか、彼はすぐ歩き出した。信号が点滅し、大慌てで対岸に渡り、その匿名性を回復していった。
もはや誰もわたしを待っていない。
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