叫んで叫んで、いなくなれ

鈴鹿 夕

なんの変哲もない、17の夏


 物語を読むのが好きだった。



 物語の世界が好きだった。



 みんなが幸福になれる、ハッピーエンドが好きだった。



 そんな物語を作ることが、好きになった。





 ◇◇◇



「あれ…おかしいな。どこやったんだっけ…」


 三階建てのマンションの、休日の朝。階下からはご婦人方の井戸端会議の様子が。階上からは、日曜朝の子供たちの興奮さめやまぬといった、その態度を示すような足音が部屋全体に響き渡る。

 そんな雑音をBGMに生活など真っ平御免だと、少年は朝早くから探し物に勤しむ。


「確かこのあたりのはずなんだが……お?」


 多数の洗濯待ちの衣類たちが乱雑に積み上げられ、すっかり山となった洗濯機周辺の無法地帯。何か硬く、丸みを帯びたような足下の違和感。経験則に則って、山の中から昨日のズボンをまさぐり返し、


「――。あったあった。よかった、まだ洗濯されてなかったか」


 ポケットから這い出たのは、少々縮れ気味の白く伸びたコードの先端に、なぜか耳の穴にフィットする、奇妙なデザインの拡声部。安堵に浸ると同時に、ポケットに収まったスマートフォンのフォーンジャックに小さな端子を差し込み、耳を澄ませる。

 聞こえてきたのは、グランドピアノの、力強くも優しい音色。先ほどまでの喧騒が忽ち塗り替えられて行き、その音色の美しさに目を閉じながら、一瞬思わず聞き惚れてしまう。


「壊れて…ないな。よしよし」


 一抹の不安を拭い去るように動作確認が済んだことで、名残惜しくも携帯から小さな端子を抜き取る。プツン、と、遠くに響く切断音は、どこかブラウン管のテレビを想起させた。


 アナログ放送が終了した今、彼らはとっくに粗大ごみに出されてしまいご無沙汰だが。


『今度こそ、無くさないようにしよう』

 手のひらのイヤホンを後生大事に柔らかく握りながら、何度建てたかもわからない信用のない誓いを胸に、息苦しい部屋を後にする。



 これがないとまともに生きてはいけなくなりそうなのに、幾度となく繰り返してきたのだから、世話がない。



 ◇ ◇ ◇



 


 その信念に従って生きてきた自分にとって、このイヤホンは生活の必需品だ。これがあれば日々の雑音を、雑踏を消し去ってくれる。邪魔な存在を丸ごと取り去ってしまう。

 夜の虫の音、車のエンジン音、おしゃべりのやまない、隣の部屋のテレビの音声。まるきり塗りつぶして、自分の世界が訪れてくれる。



 しかし、こうしてキーボードを叩く音は、消してはくれなかった。





「何になりたいのか」母にそう問われた、高二の夏。


 将来など、考えたこともなかった、とは言わない。



 小学一年生。掲げた夢は『消防士』

 高所恐怖症と自らの度胸の無さを自覚し、断念。


 中学二年生。掲げた理想は『介護士』

 誰かの役に立ちたい。そんな、偽善的で独善的な理想は脆弱な己と、問題視される現実性の無さに終結。



 そして、高校二年生。掲げる旗を無くした私は、夏休みに入る直前のHRで配布された進路希望調査票の最下段『未定』の欄に丸をした。



「――失礼しました」


 とびきり冷房の効いた部屋。決して走らず敷居を踏まず、扉を引いて外へ。部屋の中へ向き直り、一礼。静かに目礼する女教師の姿を最後に、マニュアル通りの手順を踏んで進路指導室の扉をそっと閉める。


 廊下を渡り十数歩。いつの間にか、自分の躰は駆けだしていた。


「――――」


 何も考えたくない。だから、走った。

 肩で息をしながら、だだっ広い生徒昇降口付近の壁に寄りかり、深く重い溜息をつく。下校時刻間近の校内はまるで伽藍堂のようで、さっきまでかしがましく鳴らしていた跫音も、今こぼれる吐息も乱反射し、か細くなった頃に耳に戻ってくる。その弱々しい声音は、酷く今の自分の心を現しているようで、どこかに空しさを感じてしまう。


 最後に、扉の奥に映った教師の目には、心配の色とは別に、どこか呆れのようなものが感じられた。その冷え切った感情が投げ出された空っぽの黒瞳に、とても言い表せない恐怖が確かにあった。



 ――大学に行くのか、就職するのか、その方向性だけでも


 ――君は成績がいいんだから、その気になればどこにだって


 ――資格も、将来のためにも稼げるに越したことは



 降り注ぐ正論の雨。反論を許さない暴力的な矛に全身を貫かれ、『はい』『そうですね』と空返事する間にも、HPゲージは赤く点滅していた。


 わかっているのだ、わかっているはずなのだ。


「俺がそんなこと、知るかよ……」


 酷い現実逃避だと、分かっている。はずなのに、この気持ちは声に出さずにはいられない。床に蹲り、心の限りに叫ぶ。


 勿論、若年無業者ニートになるつもりはなければ、神の差配にすべてを委ねるつもりもない。ただ、未来という先の見えない暗闇に、自分で賽を振り大博打に打って出る度胸がないだけの臆病者が、絶対に選択しえない道を選ぼうとしているだけだ。



 そんなもの絶対に耐え切れない、だから今日も耳を塞ぐ。綺麗なだけの、美しいだけの、破綻している空虚な世界で、空虚な音楽で耳を塞ぐ。



 小学生の時は、甘美なメロディーで耳を塞いだ。


 ――大きくなったら何になりたいですか?

 ――ヒーローになりたいです!


『どうして他人のために、命を懸ける必要がある?』『どうして自分が嫌なことをしなくちゃならないんだ?』


 甘さに浸れる年代は、希望の精神は脆かった。



 中学生の時は、静かなクラシックで耳を塞いだ。


 ――将来の夢は何ですか?

 ――人の役に立つ仕事が、したいです。


『口だけの偽善者、恥ずかしくないのか?』『点数稼ぎの見栄っ張り』『給料低いぞ』『考えてもみろって。そんな大業、俺にできるわけないだろ?』



 卑屈な精神を植え付けて、素面に戻ると夢見心地はすぐ、瓦解した。

 多分、本物じゃなかったから、塗り潰せた夢たちだ。上っ面だけの夢だったから。




 ――今、好きなことは何ですか?


 ――物語を、書くことです。




 ここでは何も起こらない。決して何も起こってはくれない。創作の世界のような、夢物語も、青春劇もない。苦悩に悩む少年に、救いの手を差し伸べてくれる人間もいない。


 当然だ、これは現実なのだから。


 俺たちは白紙じゃない。俺たちは空白じゃない。ここはキーボードを叩いて生み出された世界なんかじゃない。ここは一本のペンで生み出された世界じゃない。ただの現実だ。現実では自分は神ではない。ただの人間だ。一生徒、一人間だ。一人間として、この世界の試練を超えなければならない。必要以上を求めるな。





『未定』の欄に丸をした。理由は一つの単純なものだった。

 ――選択すべき選択がなかったからだ。


 親に、教師に、なりたいものがないと言った。

 ――言えるはずがないからだ。




 本心はとうに分かっている。その選択の愚かさに気付いているからこそ、蓋をして、声に出さないように必死になって。


 必要以上に臆病になる必要性もないはずなのに、それが誤った選択であると考える自分は、どうしようもなく臆病者だ。



 塗り潰せない夢に出会ってしまったのだ。よりにもよって、誤った夢に。




『正気か?』『現実的じゃない』『凡愚が背伸びしてなんになる?』『お前には無理だ』『才能はない』『勘違い野郎』『親が悲しむぞ』『誰だってできるわけじゃない』『目を覚ませ』『夢で食える世の中じゃない』『死ぬぞ』『合理的じゃない』『笑われ者になりたいのか?』『どうせすぐに諦める』『しっかりしてくれよ』




 それでも、この夢は消えてくれない。



「もう、やめてくれよ。折れてくれよ。諦めてくれよ」



 爆音でも、不協和音でも掻き消せないこの夢は――叶えたいと思って、いい願いなのか。

 

 迷いながら、それでも














 高校生の夏、掲げた願いは。



『■■■になりたい』



 排斥される。誉るものでもない。銀の弾丸を持たない少年に、夢想家になる決意は無いままに。



 彼のパソコンの液晶には拙い文章で、物語としても成り立たない、彼自身の物語がなぞられていた。

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