第29話 名人に涙は似合わない
カメラのシャッター音と、熱線のような光を浴び、雄三は顔を歪めそうになった。
手元の駒台に目を落とす。
飛車、桂、歩が一枚ずつ載っている。
対局室には記者がつめかけ、雄三の周りを取り囲んでいた。地元、熊本の記者をその中に見つけ、後で一杯行こうとジェスチャーする。喉が乾いた。手元の湯呑みは空だった。記録係に水を頼み、足を崩そうとしたら記者の質問が飛んだ。
「初大冠 おめでとうございます。増田名人、今のお気持ちは」
雄三は記者の方を向かず、盤上の駒をそろえていた。棋士にとって棋譜は子供のようなもの。重要な棋戦ともなればなおさらだ。
「おい、君」
雄三の対局相手、十歳上の先輩棋士が眼鏡の奥で苦笑している。彼は名人だった。つい数分前までは。
「あ、俺か」
雄三はようやく自分が名人となったことに気づいた。記者たちが示し合わせたように笑い出す。
将棋のプロ棋士には順位を表すクラスがある。上から順にAからC2までピラミッド型に区分されている。
名人に挑戦できるのは、少人数のAクラスの中で最も強い棋士一人だけだ。雄三は挑戦権を獲得し、名人を破って新名人となった。
一度は師匠に破門されたものの許され、編入試験を受けたのは、十二年前だ。前例がないため、異論反論が噴出した。師匠や数人の棋士が骨折ってくれたおかげで、条件付きで編入を認められた。
条件は現役のプロ棋士五人に勝ち越す事だった。雄三は三勝二敗で試験を突破した。
それからも順風満帆な棋士人生を送ったわけではない。C2からC1には一年で上がったが、そこで三年も足踏みした。
酒におぼれて妻のメリッサに逃げられそうになったり、同年代がタイトル保持者になったり、棋界からの雄三の目が冷たかった事など色々あった。
一度破門された上に、真剣師もしたとあっては棋士失格だと考えている先輩棋士も多く、口も利いてくれない。無視される。精神的に応えた。
棋士になどならなければよかったのではないか。白紙の未来は薔薇色などではなく、暗黒だった。
その暗黒を振り払ったのもまた、将棋だった。十二年前、アンネとの戦いを経て雄三は未来の将棋観に触れた。それが花開くのに五年もの歳月が必要だった。
進化した雄三の将棋は相居飛車の力戦ですさまじい腕力を発揮した。未知の局面でも恐れず前に突き進む事から暴風流と恐れられるようになる。
一時期、雄三の対戦相手は居飛車を避けて振り飛車を選択する事が多くなった。結果として年間の相居飛車の対局数が減った事もある。
才能を開花させてクラスが上がっても、なかなかタイトルには恵まれなかった。諦めずに続けてこれたのは、メリッサのおかげだ。
白紙の未来とは、二人しか知らない歴史の軌跡でもある。
財団は十二年前に忽然と姿を消していた。その痕跡も全く残っていない。日本はいつのまにかアメリカに負け、統治下におかれた。
当時の事を誰かに尋ねても、魔族や財団の事など一切出てこない。雄三の頭がおかしいと思われるのでそのうち口に出すのをやめた。
財団は因果のねじれを恐れ、撤退したのだ。メリッサをたった一人残して。
そのおかげか今のところ、日本は平和で、将棋に一喜一憂していられる。雄三はしたり顔で記者の質問に答えた。
「今回の名人戦でいくつかの結論がひっくり返ったかもしれません。それも通過点に過ぎない事はわかってます。そうやって歴史は繰り返しているので、僕らはまだまだ強くなれると思います。楽しみです、将棋の未来が」
対局相手が眩しそうに目を細めている。気むずかしい秀才タイプであまり口を利いた事はなかったが、力戦にも臆する事なくぶつかってきた。名人の格がそうさせたのかもしれないが、存外、好人物かもしれない。
「名人?」
雄三は何かを思い出したように和服姿でふらふらと立ち上がると、記者や関係者を押し退け対局室を出た。そのまま対局が行われていた旅館を飛び出し、タクシーに乗った。
メリッサは自宅の庭で薔薇の手入れをしていた。絢爛な花は日々の疲れを癒してくれる。
かつてイギリスの外交官が住んでいた瀟洒な一戸建ての家を借りて雄三と住んでいる。将棋会館から十分ほどの距離にあり、朝の弱い雄三にうってつけの物件だ。
メリッサは商社でのタイピストや通訳を経た後、自宅で翻訳の仕事をしていた。今日は雄三の対局結果が気になって落ち着かない。結果は電話で伝えられることになっていた。
「メリッサー!」
雄三が猪のような勢いで庭を突っ切ってくる。
電話よりも先にまさか本人が現れるとは思っていなかったので、メリッサは言葉を失った。負けて逃げ出してきたのだろうか。それにしては雄三の表情は明るい。
「どっちだ?」
子供が親に対するように雄三はメリッサに謎かけした。
「名人になれたんですね?」
雄三は天を仰いで、手で目を覆った。
「ああ! 師匠のお墓にお参りに行かないと。師匠の奥さんに連絡してくれ」
「それも大事ですが、ここに居ていいのですか?」
冷静な指摘に雄三の顔が蒼白になる。マスコミやスポンサーへの応対をすっぽかしたのを忘れていた。メリッサの顔がどうしても見たかったのだ。
メリッサの容貌は十二年前とそれほど変わっていない。髪を短くし、むしろ当時よりも若々しく見える。雄三の贈った髪留めを今でもつけていた。
「ほら、涙を拭いて。今、あなたは日本で一番強い将棋指しなんですから。そんな顔を見せるのは私にだけにしてくださいな」
雄三の顔をハンカチで拭いて、手を引く。白紙の未来を二人で歩くように。
雄三は自宅へ帰る間、メリッサへの疑問を胸に秘めていた。
この歴史は正しいのか。
財団は消え、当面の問題は棚上げになった。解決したわけではない。
自分は名人になったが他の事には目を瞑っている。これでいいのかという迷いがある。
「雄三が居てくれるから、私も歩いていけます。ひとまずお疲れさまでした。今夜はお酒を飲んでもいいですからね」
ほっこりした笑みに、また雄三の涙線が緩んだ。質問する気色はなくなった。
「いいんだ……、もう酒はやめた」
「でも今日ぐらい」
「いいんだ。それよりもっと話をしよう」
「変な雄三名人。今日のお昼は何食べました?」
ずっと財団のような高い視点を持たなければならないと悩んでいた。そうならなければメリッサを幸せにできないと固く思いこんでいた。
雄三は神ではない。平凡な存在だ。メリッサもまた平凡な話題に興味を持つような矮小な存在だ。ちっぽけな二人の幸せの定義すらあまりに広義で、財団ですら把握しきれなかった。
財団は人を幸せにするのだろうか。雄三にはわからない。わからなくて良かったと思う。
駒を握った感触と、メリッサの手しか知らない雄三には、今の幸福が身の丈に合っている。
(了)
真剣師に涙は似合わない 濱野乱 @h2o
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