傍にいてよ

 痛い。痛い。痛い。

泣き続けて枯れた喉が、真っ赤に腫れた目が、孤独に呑み込まれてしまった心が。

私はもう、君の声を聞くことができない。君の暖かな手に触れることができない。

君に「好き」の一言を伝えることさえも、今となっては叶わない。

どんなに気配を探そうとしても、どんなに耳を澄まして声を拾おうとしても。

いつも隣にいてくれた君の存在を感じられなくて、その度に独りになったことを

痛いくらいに思い知らされて、私は絶望するんだ。

ああ、私はどうすれば良い?

君がいなくなったこの世界を、どうやって生きていけば良い?

何一つ、分からないの。独りぼっちで歩いていく人生なんて、寂しいだけだよ。

私は結局、君がいないと何もできないんだよ。だから、ねえ、お願い。

傍に、いてよ。


  ***


 目を覚ました途端、湿気をはらむ梅雨の風に頬を撫でられた。

ゆっくりと起き上がりながら、壁にかけてあるカレンダーに目をやる。

大切な人がこの世を去ったあの日から、今日でちょうど、二週間。

「…光。」

昨夜も寝付くまで泣いていたからか、或いは単に寝起きだからか、酷く掠れて

しまっている声で、恋人の名前を口にする。

もちろん、返事はない。だって、彼はもうここにはいないんだから。

そう理解しているくせにどうしようもなく寂しくなってしまった私は、見つかる

はずのない彼の姿を探すように、視線を彷徨わせる。そこに彼がいてくれたら良い

のに、なんて思いながら、特に何もない宙の一点を射抜くように見つめ、呟いた。

「…ねえ、光、」

静かな空間に、私の声だけがぽつりと落ちる。

「どうして、どうして、死んじゃったの?私を、独りにしないでよ、」

肩が震えている。表情が歪んでいく。ああ、また、泣いてしまいそうだ。

「、逢いたいよ、」

本音と一緒に、涙が零れ落ちた。一度溢れてしまったら、もう止まらない。

光、ねえ、逢いたいよ。

ただそれだけを虚ろに繰り返す私は、まるで壊れてしまったロボットみたいだと、

何処か他人事のように理性の端でそんなことを考えた。


 白石泉、十七歳。

不器用で、感情を表に出すことがどうしても苦手で、素直になれなくて。

持って生まれたその性格ゆえに、冷たい人だと思われてしまうことが多かった私

を、隣で支えてくれたのはいつだって光だった。涙脆くて、寂しがり屋。そんな

私の本質を、光だけはちゃんと理解してくれた。

 川西光、享年十七歳。

幼い頃から一緒に過ごしてきた幼馴染で、大切な恋人。

穏やかな性格で、笑顔を絶やさない。自己主張の強いタイプではないけれど、周り

を良く見ていて、気配りもできる彼は、誰からも信頼される人だった。

 そんな彼が交通事故に遭ってその短い生涯を閉じたのは、二週間前のこと。

突然の、あまりにも早すぎる死。予想もしていなかった形で突きつけられた

彼との別れは、私の心を簡単に、そしてぐしゃぐしゃになるまで切り裂いた。

 

 人は、いつか必ず死ぬ。それくらい、頭ではちゃんと分かっている。

永遠なんてものを本気で信じてしまうほど、私は子供じゃない。

でも、いきなり直面した大切な彼の死を、仕方ないと割り切れるほどに、そういう

ものだと受け止められるほどに、大人になれているわけでもない。

 嫌だ、お願いだから帰ってきて、独りは寂しいよ、逢いたいよ、傍にいてよ。

届かないと分かっている願いを、涙まじりの声に乗せて吐き出すだけの毎日。

自分の気持ちを表に出すのは苦手だったはずなのに、何の皮肉だろうか。

今となっては、溢れる感情を抑え切れずに、泣いてばかり、嘆いてばかりいる。

 

 泉、と私の名前を呼ぶ、穏やかな君の声が好きだった。

光、と何度も何度も口にしてきた、君の名前が好きだった。

毎日のように繰り返してきた、君との何気ない会話が好きだった。

どうして、どうして、当たり前だと思っていたんだろう。

今更その暖かさに気づいたって、胸を締め付けるような愛しさに泣いたって、

こうやって全部を失ってしまった後ではもう、遅いのに。


  ***


 悲しい。辛い。苦しい。

だけど多分、夢も希望も感情も、全部、全部、置き去りにしたまま死ななきゃ

いけなかった君の方がもっとずっと、悲しくて、辛くて、苦しかったんだよね。

突然事故に遭って、これからも続いていくはずだった未来を断たれて。

最期の瞬間、何を想ったんだろう。何を望んだんだろう。

君の優しい瞳が閉じられる間際、そこには何が映っていたんだろう。

どれだけ考えてみたって、解るわけがない。答えてくれる君は、もういない。

だけど、今の私には、これくらいしかできることがないから。

私は何度でも、もう届きはしない手を、この世界からいなくなってしまった君の

心に向かって伸ばすんだ。


 光が死んでから、一か月が経ったある日の夜。

帰宅した私は、電気もつけないまま部屋の真ん中で、膝を抱えて座り込んだ。

机の奥にしまっていたナイフを手に取り、小さな声で呟く。

「…もう、生きていけないよ。」

それは、彼を失って壊れてしまった心の、痛切な声。

別に、死にたい、わけじゃない。

ただ、生きていこうと思えないだけ。生きていける強さがないだけ。

震える手でナイフを持ち上げる。

切っ先を自分の胸元に向け、そのまま少しずつ引き寄せて、心臓を貫こうとした。

それなのに、どうしてだろう。

死のうって、もうこれ以上生きていくのはやめようって、決めたはずなのに。

大切な人のいなくなったこの世界に、未練なんてある訳がないのに。

私の手は、空中でぴたりと動きを止めた。

力の抜けた掌から滑り落ちたナイフを視界の端に捉え、私はぼんやりと思考する。

もしも、もしも、ここに光がいたとしたら。

自ら命を絶とうとする、こんな私の行為を止めようとしてくれたのかな。

ああ、馬鹿みたいだと、我ながら思う。

そもそも、傍に光がいてくれるなら、私は死ぬことなんて考えもしないんだから。

 真っ暗な部屋で独り、項垂れる。

生きていくことは嫌になってしまって、そのくせ死ぬことはできなくて。

「…私は、どうすれば良いんだろう、」

今にも泣いてしまいそうな、震えた声で彼に問いかける。

「ねえ、光は、私にどうしてほしい?お願い、答えて…。」

当然、答えてくれる彼はいない。

虚しいばかりのその静けさが、ぼろぼろになった私の心には痛いくらいに沁みた。

 

 どんなに手を伸ばしても、君の心に、温もりに、触れることができないのなら。

いっそ生きること自体を諦めてしまおうって、そう思っていたはずだった。

だけど、できなかったんだ。

君がいなくなった世界を独りで生きていく強さだけじゃなくて、

全部を捨てて逃げ出してしまう勇気だって、私は持っていなかったから。 


  ***


 君からもらった、数え切れないほどたくさんの「好き」。

――ちょっと不器用なところが好き。

――涙腺が弱くて、寂しがり屋で、そんな繊細なところが好き。

――困っている人にそっと手を差し伸べる、優しいところが好き。

君はいつも、そうやって真っ直ぐに想いを伝えてくれた。

だけど私は、君に対する気持ちを、ちゃんと言葉にすることができなかった。

想う心は確かに在ったのに、それを口にすることを躊躇ってしまっていた。

 ああ、一緒に過ごす時間の長さに比例するようにして募ったこの愛しさを、

今でも変わらず大好きな君に伝えることは、もう叶わない。


 光が生涯を閉じてから、二か月が過ぎたある日の朝。

目を覚ましベッドから体を起こした私はすぐに、カレンダーの日付を確認する。

あの別れから二か月後の今日は、光にとって、そして私にとって、大切な日。

「ねえ、光。」

いつも通り、彼の名前を呼ぶ。やっぱり、答えてくれる声はない。

昨日までだったら独りになったことを思い知らされて泣いてしまうところなのに、

今日は不思議と寂しさを感じない。姿は見えないけれど、声は聞こえないけれど、

大好きな彼が今も隣にいてくれるような気がしてならなかった。

「…君は、今でも私の傍にいてくれているのかな?私の声が、聞こえているの?」

傍にいて、といつも言っていた私が、こんなことを口にするのは初めてで。

 どうして、彼が寄り添ってくれているって信じられるようになったのか。

答えは、至って単純だ。

寂しさに溺れ、彼との思い出を辿っていく中で、気づいたんだ。

私の恋人は、大好きだった彼は、とてもとても、優しい人だったから。

私を一人にすることはあっても、独りにするようなことは絶対にしないって。

きっと、死んでしまってからも傍にいてくれるはずだって。

そう考えること自体、もしかしたら一種の現実逃避なのかもしれない。

或いは、ぼろぼろになってしまった心がこれ以上傷つくことがないように、無意識

のうちに守ろうとしているだけなのかもしれない。

それでも、独りじゃないと思うだけで、傍に彼がいると信じるだけで、私はほんの

少し、強く在れるような気がするんだ。

私は口元を綻ばせて、微かに笑ってみせた。彼が死んでしまったあの日以来

泣き続けていたから、こうやって明るい表情を浮かべるのは久しぶりだ。

「この声が届いているって信じて、話してみようかな。私の話、聞いてくれる?」

視線を巡らせて、耳を澄まして。彼の気配を探しながら、ゆっくりと話し始める。

「まず、光、誕生日、おめでとう。」

そう、今日は、光の誕生日。

こんな形で迎えることになるなんて、私も、たぶん彼も、思っていなかった。

「光がいなくなってから、もう三か月も経ったんだね。だけど、あんまり実感が

 わかないなあ。なんだか、時間が止まっちゃったみたい。」

そこで一旦、言葉を止めた。一度自分を落ち着かせるように深呼吸をしてから、

ふんわりと柔らかく笑って、私は話の続きを口にする。

「私ね、光のことが好きだよ。」

面と向かっては伝えられなかった想いを一つ一つ、丁寧に声に乗せていく。

「笑顔を絶やさないところが好き。優しすぎるくらいに優しいところが好き。

 私以上に私のことを分かってくれるところが好き。なんて、普段は恥ずかしくて

 言えないし、一人になってからは笑うことだってできなくて泣いてばかりいる

 けど、今日は君の誕生日だから、特別。」

微笑んで話す私の言葉が、彼にちゃんと届いているのかは分からない。

届いていれば良いな。もう逢えないとしても、この気持ちだけは。

そう考えると悲しくなってしまって、忘れていたはずの寂しさも戻ってきて。

ああ、やっぱり。

「…ごめんね。一緒にいられるうちに、ちゃんと伝えれば良かったね。」

どんなに彼の存在を信じてみたって、彼が帰ってきてくれるわけじゃない。

この世界からいなくなってしまった彼に、私の声が届くわけじゃない。

そんな現実を目の当たりにして、また孤独に引き戻されそうになった、次の瞬間。


 熱気のこもった夏の風が、吹き抜けたのと同時に。

――僕も、君のことが大好きだよ。これからも、ずっと。

そう告げる彼の穏やかな声が、聞こえたような気がした。

掌に懐かしい温もりを、感じたような気がした。

もういなくなったはずの彼に後ろからそっと、抱き締められたような気がした。


 「…光?そこに、いるの?」

信じられない、だって、今、光が。

私の言葉に応えるように、ここにいるよと言う彼の声を運ぶように、吹いた風。

そして起きた、思い過ごしと言われてしまえばそれまでの、小さな小さな奇跡。

呆然とした表情でしばらく辺りを見回した後、私は小さく息を吐いた。

「…気のせいかな?でも、きっと、君は、」

言葉を交わすことも、手を繋ぐことも、想いを伝え合うことも、できないけれど。

「今でも、私の傍に、いるんだね。」

ああ、それさえ信じていられたら、私はきっと、これから先も生きていける。


 大丈夫。私は、独りじゃない。だって、君が傍にいるから。




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