with you

藤璃

傍にいるよ

 ずっと、ずっと、傍にいるよ。

君と言葉を交わすことも、手を繋ぐことも、想いを伝え合うことも、僕には

もう、できないけれど。

君が望んでくれる限り、一緒にいるから。

一人になった君が、独りになってしまわないように、寄り添っているから。

だから、お願い。

僕がいなくなった世界で生きていくことを、どうか諦めないで。

君を愛した僕が今でもちゃんと傍にいるってことを、どうか覚えていて。


  ***


 ――おはよう、泉。

僕は今日も、目を覚ましたばかりの恋人に声をかける。

――また朝から雨が降っているよ。雨は嫌いじゃないけれど、こんな風に毎日続くとやっぱり眩しい太陽が恋しくなるね。まあ、梅雨だから仕方ないんだけど。

この時期特有のじめじめとした空気を、少しでも晴らそうとするように、明るい

口調で僕は言う。

「…光。」

ベッドからゆっくりと体を起こした彼女が、掠れた声で僕の名前を呼んだ。

――どうしたの、泉。

僕は、何気なくそう返す。名前を呼ばれて、返事をして、当たり前のように目が

合って、互いの顔を見ながら会話をして。それは、きっと普通のこと。ほとんどの

人が、生きている中で特に意識することもなく繰り返していること。

だけど、僕たちにはもうできない、できなくなってしまったこと。

彼女の視線は僕をすり抜け、宙の一点で留まった。

何もないそこを穴のあくほど見つめている、長い睫毛に縁どられたその瞳は、希望も温もりも全部を忘れてしまったみたいに虚ろで。

「…ねえ、光、」

ぽつり、ぽつり。静かな空間に、消えてしまいそうなほどに微かな声が落ちる。

「どうして、どうして、死んじゃったの?私を、独りにしないでよ、」

震えている肩。ぐにゃりと歪んでいく表情。

「、逢いたいよ、」

零れ落ちた透明な雫が、彼女の白い頬を濡らしていく。

――ごめん。一人にしてしまって、本当にごめんね。

光、ねえ、逢いたいよ。壊れてしまったかのようにただそれだけを繰り返す泉。

――でも、君は、独りじゃないよ。今だって僕が、傍にいるんだよ。

そんな彼女に向けた、届くはずもない僕の言葉は、静かに空気に溶けていった。


 川西光、享年十七歳。

ちょうど二週間前、バイト先に向かう途中で交通事故に遭い、僕は死んだ。

いっそ笑ってしまいたくなるほどあっけなくやって来た最期。それに抗うことすら

できずに、大切な人をこの世界に置き去りにしたまま、終わってしまった僕の命。

怒りとか、後悔とか、そういう感情はない。今更運命を嘆いたり、生きてきた日々を悔やんだりしたって、何かが変わるわけじゃない。

そんなことよりもずっとずっと、短い人生の中で大半の時間を共有してきた彼女を

突然一人にしてしまったことの方が僕にとっては重大だった。

 白石泉、十七歳。

今も確かに生きている、僕の恋人。幼い頃から一緒に過ごしてきた、所謂幼馴染。

感情を表に出すのが苦手で、冷たい人だと誤解されてしまうこともあるけれど、

本当は優しくて、誰よりも心が綺麗で、人一倍寂しがり屋な女の子。

そんな泉と、これからも一緒にいられると思っていた。

もちろん、僕たちの命は永遠じゃないと知っていた。

こうして生きていられる時間は決して当たり前なんかじゃないと頭ではちゃんと

理解していた、つもりだった。

ああ、それでも僕は、幸せな未来を疑ったりなどしなかったんだ。

泉との別れがいつの日か訪れるとしても、それはまだずっと先のことだって。

死ぬまで続く長い長い道を、泉と歩いていったその果てに待っているものだって。

何の根拠もなく、そう信じていた。

だから、なんだろうか。

死んでしまってからも離れることができずに、こうやって泉の傍にいるのは。

儚くて脆い部分を持つ泉を隣で支えていきたいという願いがまだ心の中に残って

いるから、僕は今でもこの世に留まることができているんだろうか。


 「…学校、行かなきゃ。」

しばらく泣いていた泉が、不意に、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

赤くなってしまった目はそのままに、緩慢な動きで支度を終えて部屋を出ていく。

何処となく寂しそうなその背中に、胸がぎゅっと締め付けられて。

溢れてしまいそうな感情を託すようにして、僕はもう一度、泉、と名前を呼んだ。

だけど、投げかけた声が泉の耳に届くなんて、そんな奇跡が起きたりはしなくて。

彼女は振り返ることなく、ドアの向こうへと消えていった。


 僕の人生が終わってから、早二週間。

あっという間に過ぎ去ったその時間の中で、何回か、自分の存在について考えて

みたりもした。まあ、明確な答えが用意されているわけじゃないし、どんなに思考を巡らせてみたって、最終的にはいつも同じ結論に辿り着いてしまったんだけど。

 そもそも、僕はまだこの状況を呑み込むことができていない。

元々、お化けとか神様とか、そういう目に見えないものは信じない性質だったこともあってか、未だに半信半疑のまま、というのが正直なところ。

 今、自分が幽霊というものになってしまっているのかどうか。

こうやってこの世に留まっているのは良いことなのか、それとも悪いことなのか。

あとどれくらいの間、ここにいられるのか。いずれ消えてしまう時が来るのか。

何一つ、分からない。そしてこれから先も、理解できる時が来るとは思えない。

ああ、だけど。

何度思索を繰り返しても、結局、僕は思ってしまうんだ。

こんな不確かな存在としてだって、泉の隣にいられるのなら、泉を独りにしなくて

済むのなら、それで良いんじゃないかなって。

 

 この世界から僕が、本当の意味で消えてしまうまで、ずっと。

できることなら、君が人生を終えるその瞬間まで、ずっと。

いつも傍にいて、もう届きはしないこの声で、置き去りにしてしまった大切な君の

名前を、何度だって呼ぶよ。


  ***


 泣かないで、とか。僕のことは忘れて、幸せになって、とか。

そんなことを望むのは、単なる僕のエゴでしかないって、それくらい分かってる。

だけど、全部を捨ててこの世界から逃げるという道を、選ぶことだけはしないで。

僕がいなくなったからって、君が死ぬ必要なんてないんだよ。

僕は君に、何よりも誰よりも大切な君に、ただ、生きていてほしいんだよ。

君を置き去りにして逝った僕にはそれを望む資格などないのかもしれないけれど。

それでも、それでも。

大好きだったその綺麗な瞳に悲しい色を浮かべて、一人で命を絶とうとする君の姿

だけは、どうしても見たくないんだ。


 僕が死んでから、一か月が経ったある日の夜。

感情がすっぽりと抜け落ちてしまったような瞳で、泉がぽつりと言った。

「…もう、生きていけないよ。」

それは、あまりにも切実な調子で吐き出された、彼女の心の声だった。

何があったの、と訊こうとして、僕は息を呑む。

部屋の電気もつけずにただ蹲っている彼女の手には既にナイフが握られていて、

ああ、これから死のうとしているんだって、分かってしまったから。

――泉、やめて、そんなこと。

「死にたい、わけじゃないんだけどな、」

そう呟きながら、泉は持ち上げたナイフの切っ先を自分の胸元に向けた。

――やめてよ、ねえ、お願いだから!

聞こえることなどないと知っていても上げずにはいられなかった、制止の声。

懇願にも似たそれは、当然だけど彼女には届かない。

少しずつ引き寄せられていくナイフを、それを握り締める彼女の手を、僕は必死に

掴もうとする。自分自身がもう死んでしまった不確かな存在であることも忘れて、

ただ、止めなくちゃいけないという思いだけが頭の中を支配していた。

 彼女に、触れることができたなら。

自ら命を絶とうとする、こんな悲しい行為を止めることができるのに。

いつもなら仕方がないと諦められるような奇跡を、この時ばかりは願ってしまう。

伸ばした手は彼女の体をすり抜けて、虚しく空を切った。


 もう、駄目だ。

一切の温度を感じない表情を浮かべてナイフで心臓を貫こうとする恋人の姿に、

そんな彼女に触れることさえできない自分の無力さに、僕が絶望しかけた時。

彼女の手が、不意に動きを止めた。

そしてそのまま、ぽとりとナイフを落とし、彼女は力なく項垂れる。

「…私は、どうすれば良いんだろう、」

涙の滲んだ小さな声で、そう零した。

「ねえ、光は、私にどうしてほしい?お願い、答えて…。」

震えるその背中にそっと寄り添い、僕は口を開く。

――そんなの、一つしかないよ。

聞こえるはずがないと分かっているけれど、それでもどうか、伝わりますように。

願いながら、祈りながら、もうナイフを握っていない彼女の暖かな手に、感触も

温もりもなくなってしまった自分のそれを重ねて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

――僕は君に、生きていて、ほしい。


 どうして、死んじゃったんだろうな。

膝を抱えて座り込んだ姿勢のまま眠りに落ちた恋人の傍らで、僕は思う。

言葉を交わすことも、できなくて。触れることも、叶わなくて。

何より、自ら死を選ぼうとするほどに、彼女の心を追い詰めてしまっていて。

自分自身が死んだという現実を受け入れるのは、そう難しいことじゃなかった。

仕方ないの一言で割り切れてしまうくらい、自分の生に対する執着心は弱かった。

だけど、死んだ後、大切な人をこんなにも苦しませてしまうのなら。

僕は絶対に、死んじゃいけなかった。

何があっても彼女の傍で、生きていなくちゃいけなかったんだ。

なんて、ああ、馬鹿みたいだ。どんなに悔やんだって、もう遅いのに。

――どうして、死んじゃったんだろう。

もっと生きていたかったとは思わない。そんなこと、今更望んだりはない。

――だけど、僕はもっと、泉の傍にいたかった。

そんな僕の涙まじりの声は、真っ暗な部屋の片隅に落ちて消えた。


 どうか、どうか、生きることだけはやめないで。

自ら死の淵に立つ君に、僕がどんなに手を伸ばしたってもう届きはしないから。

大好きな君を生きる道に引き戻すことも、僕にはできなくなってしまったから。


  ***


 僕の、十七年間。突然終わった、短い短い人生。

その大半を、僕は君の隣で過ごしてきた。家族と同じくらい、いや、もしかしたら

それ以上に長い、そして幸せな時間を、君と共有してきた。

そんな中で少しずつ増えていった、君の好きなところ。

不器用な性格。寂しがり屋で繊細な心。他人を慮ることのできる優しさ。

年月が流れていくのに比例して、君を愛しいと感じる気持ちは募っていった。

僕は、君のことが大好きだ。

なんて、口に出すのは少し恥ずかしいけれど、その気持ちは確かに在る。

だけど、この世界は残酷で。

どんなに君を愛しく想っても、死んでしまってからも変わることなく大好きだと

言ってみても、それを伝える術はもう奪われてしまったんだ。 


 僕が生涯を閉じてから、二か月が過ぎたある日の朝。

――おはよう、泉。

今日もまた、ベッドから起き上がった泉に話しかける。もちろん、返事なんて

ない。声が届かない、会話ができないということに、最初の頃はかなりダメージを

受けたものだけど、毎朝繰り返すうちにすっかり慣れてしまった。

朝から暑いね、なんていつも通り続けようとした僕を遮ったのは、泉の声だった。

「ねえ、光。」

――うん、どうしたの?

「…君は、今でも私の傍にいてくれているのかな?私の声が、聞こえているの?」

傍にいて、といつも言っていた彼女が、こんなことを口にするのは初めてだった。

僕の存在を、感じてくれたのかな。独りじゃないって、気づいてくれたのかな。

そう思うと、なんだか胸がいっぱいになって、泣いてしまいそうになる。

――いるよ、今でも傍に。君の声、ちゃんと聞こえているよ。

だけどやっぱり、泉が僕の言葉に反応することはなくて。目に映るはずのない姿を

探すように、聞こえない音を拾い上げようとするように、数秒間視線を巡らせた後、彼女は口の端を持ち上げて、微かに笑ってみせた。それは、僕が死んだあの日

以来、泣き続けて憔悴しきっていた彼女の、久しぶりに見る笑顔だった。

「この声が届いているって信じて、話してみようかな。私の話、聞いてくれる?」

――もちろん、いくらでも聞くよ。

すぐ隣にいる僕の存在には気づかないまま、空中に目を向けた彼女が言葉を紡ぐ。

「まず、光、誕生日、おめでとう。」

ああ、そういえば。死んでからちょうど三か月が経つ今日は、僕の誕生日だった。

今この瞬間まで意識もしていなかったことを、何処か他人事のように思い出す。

――ありがとう。自分ではすっかり忘れてたよ。

「光がいなくなってから、もう三か月も経ったんだね。だけど、あんまり実感が

 わかないなあ。なんだか、時間が止まっちゃったみたい。」

そこで一旦言葉を止め、彼女は深呼吸を一つ零した。それから、綻んだ蕾のように

自然で柔らかい、僕が大好きだった笑みを湛えて、もう一度口を開く。

「私ね、光のことが好きだよ。」

ゆっくりと、噛み締めるように、彼女は言った。

口下手で感情を表に出すことが苦手な彼女が、こんなにも素直に想いを口にする

のは珍しい。生きている頃でさえなかなか引き出せなかった、好きの一言を、死後

こんな形で聞くことになるなんて思ってもみなかったから、僕は驚いてしまう。

何の返事もできずにいる僕をそのままに、彼女は話を続ける。

「笑顔を絶やさないところが好き。優しすぎるくらいに優しいところが好き。

 私以上に私のことを分かってくれるところが好き。なんて、普段は恥ずかしくて

 言えないし、一人になってからは笑うことだってできなくて泣いてばかりいる

 けど、今日は君の誕生日だから、特別。」

微笑んで話す彼女と、涙を堪えながら聞く僕。その視線が交わることはなかった

けれど、今この時だけは、二人の感情が重なり合っているみたいに思える。

「…ごめんね。一緒にいられるうちに、ちゃんと伝えれば良かったね。」

悲しそうに目を伏せた彼女の手を、僕はそっと握る。今はもう感じられなくなって

しまったはずの懐かしい温もりが、僕の透けた掌にじんわりと伝わって、心までも

暖かく満たしてくれているような、そんな気がした。

――大丈夫、ちゃんと届いているよ。今だって、隣にいるから。

 さあ、今度は僕の番だ。

今となってはもう届かないと知っているけれど、それでも、それでも。

一人にしてしまった恋人に、精一杯の想いの言葉を。

――僕も、君のことが大好きだよ。これからも、ずっと。

彼女を後ろからそっと抱き締めて、僕はそう告げた。相変わらず触れることは

できなくて、包み込むように伸ばした腕は彼女の体を通り抜ける。

こんな時くらい、優しい奇跡を僕たちにくれたって良いのにな、なんて。

ほんの少し虚しさを感じて、信じてもいない神様を心の片隅で恨んだ、次の瞬間。


 「…光?そこに、いるの?」

どうやら僕の声は、熱をはらんだ夏の風に運ばれて、泉に届いていたらしい。

――そうだよ、ずっと、ここにいるよ。ねえ、泉、聞こえているの?

僕は必死に呼びかけたけれど、奇跡が起きたのは結局その一回きりだった。

呆然とした表情でしばらく辺りを見回した後、泉がため息まじりに言葉を落とす。

その綺麗な瞳には、希望を取り戻した明るい光が宿っていた。

「…気のせいかな?でも、きっと、君は。」

言葉を交わすことも、手を繋ぐことも、想いを伝え合うことも、できないけれど。

「今でも、私の傍に、いるんだね。」

ああ、それさえ伝えることができたのなら充分だって、僕は思う。


大丈夫。君は、独りじゃない。だって、僕が傍にいるから。

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