追記と解決
以上が、わたしが三年前に体験し、何ら疑問が解かれないままに、いつの間にか片付いていたことになっていた事件の記録である。
世間はそんな事件があったことも知らず、ただ当たり前の日々を送り続けている。今世間では、丁度二年ほど前から流行り始めた新型ウィルスがようやく下火になって、以前の生活に段々と戻り始めている。ただし、夏山市ではたかがウィルス程度簡単に消滅してしまうので、以前と全く何も変わらなかった。
わたしもまた以前のように普通の高校生に戻った――かと言うと、残念ながらそうではない。
わたしは自分が魔術師であるとわかってしまった。それを知らなかった頃のように過ごすのは、ちょっと無理がある。
それに、理恵ちゃんと美佳ちゃんがいる。彼女達を実家に連れて帰ったりなんかしたら大変な騒ぎになってしまう。
かといって紫音の家に住み続ける勇気はなかった。あの家は彼女の従兄妹だという人が管理してくれるそうだから、それに甘えている。
そんな訳で、わたしは新しく家を買って一人暮らしをしていた。紫音の遺産として貰った尋常ではない額のお金のおかげで、生涯暮らしていけそうな家を買うことが出来たのである。
あれから三年も経ったので、わたしは今大学生をしている。今は春休みだ。
あの事件の二ヶ月後に夏山・大宅両市は神秘都市に指定され、わたしのように神秘に関わる者しか入れなくなってしまったので、わたしの通う野分学園大学も、多分に魔術的なところだった。
わたしは医師になろうと思っている。わたしに探偵の素質は無い。警官としても駄目だ。だから、最期まで彼女のワトソン役としてあろうと思った。まずは形からだが、きっと彼女なら笑ってくれるだろう。
ついでに、理恵ちゃんと美佳ちゃんにも学校へ通って貰っている。あの事件の直後の四月に高校へ入学し、ついこの間卒業式を迎えた。大学もわたしと同じところにした。勿論、彼女達の学費も紫音の遺産から出ている。
すっかり普通の女の子として過ごしていて、今は高校で作った友達と卒業旅行中だ。
総角さんは行方不明。あの事件が落ち着くと何処かへ行ってしまった。ただ、偶に活躍を耳にする。人形作家として生計を立てているようだ。
大事な
もうそろそろ書くことも無いだろうから、ここで筆を置くことにしたい。わたしが残す記録はこれが最初で最後だが、今後も手元にある彼女の遺した記録を纏めて発表しようと思っている。
と、ここまで書いたは良いが何となく納得がいかず、散歩でもして気を紛らわせようと考えた。
何しろ何も解き明かされない記録だから、納得がいかないのは当たり前だ。
どうせまともに読んでいる人がいるわけでもないし、もういいかとちょっと投げやりなことも思ったが、余人にとってはともかく、わたしにとっては大切な記録だ。疎かにはしたくない。
そんなことを考えながら近所のやや広い公園を歩いていたら、本をたくさん抱えた老人にぶつかってしまった。わたしにも良心というものがあるので散らばった本を拾って謝りながら渡したが、老人はそれをひったくるようにして受け取り、悪態をつきながら足早に去って行った。わたしは少しばかり唖然として立ち尽くしたが、いつまでもそうしているわけにはいかないので、やがて家路についた。
別に春休みだからといって暇なわけでもなし、家に帰ったわたしは直ちにパソコンを立ち上げたが、直後にインターホンが鳴ったので手を止めた。
出てみると、先程の老人だった。今度は先程と違いにこやかな雰囲気を纏っていた。
「先程は失礼しました。仕入れたばかりの貴重書を抱えていたもので、気が立っていましてな。あの、上がってもよろしいですかな?」
老人はわたしの勧めに応じて上がってきた。手にはやはり数冊の本を抱えていた。
「あの時は感情のままに行動してしまいましたが、後から思い返すとこれはとんでもないことをしてしまったと思いまして。どうにかして謝りたいと思っていましたら貴女がお帰りになるのが店から見えましてな。店はこの三つ隣でして、目は悪くなっとりませんからすぐ気付いてこうしてお伺いにあがったという訳です」
老人はこのように説明した。彼の腰はいくらか曲がっていたが、手足にはまだ力が漲っているのが分かった。
「いえ、ぶつかったのはわたしですから、お気になさらず」
「そう言われるほど気にしてしまうものです。これをどうか、貰ってください。どれも貴重な魔術書です。そこの本棚の隙間を埋めるのに丁度良いと思いますな。今のままでは少し寂しくありませんか? ご自分で御覧になっては? どうです?」
老人か熱心に勧めるので、ちょっと気の毒になった。良心の呵責と言うやつに苦しめられているのだろう。そう思うとあんまり固辞するのも可哀想なので頂戴しようかと思いつつ、老人の言うままに背後の本棚の方へ振り返った。
確かに老人の持ってきた本は、わたしの本棚の貧相な部分を補うのに丁度良く思えた。それで、もともと殆どついていた決心がより強くなり、返事をしようと視線を戻した。
橋姫紫音が立っていた。
いたずらっぽい笑みを浮かべて。いつもの白いブラウスに黒いパンツ、
わたしが気を失わなかったのは幸運だろう。魔術師として過ごす過程で大抵のことには驚かなくなっていたわたしだが、この時ばかりは腰を抜かすほど驚いた。
「存外驚かなかったね」
紫音は言った。
ここからはわたし達の長い会話が主になるので、ト書きが少なくなることをご容赦頂きたい。
「し、紫音? 本当に?」
「それ以外の誰かに見えるかい?」
「いや。驚いたよ、本気で。てっきりあの滝で死んだのだとばかり」
「勿論死んではいない」
そう言いながら彼女は手近な椅子に腰を下ろした。いつものように尊大に。
「そうみたいだね。どうやって助かったの? 落ちたらまず助からないようなところだったのに」
「それは簡単なことだな。私はそもそも落ちなかった」
「落ちなかった? でも、魔術師を相手するならバリツってわけにもいかないんじゃ……」
紫音はニヤッと笑った。
「これ、何だと思う?」
そう言いながらポケットから出してきたのは、明らかに手錠だ。ただの手錠にしか見えない。
「手錠だね」
「そうだ。同時に私の魔術具でもある。一見して分からない魔術具、というのが私の好みでね」
「それは知ってる。パイプとかルーペとかね」
「うん、その流れでこの手錠だ。これは主に魔術師を捕らえるのに使う。当然、着けられた奴が魔術を使えないようにする。魔力を散らすという方法でね」
「魔力を散らす?」
「そう、吸収するのには限度があるが、散らす分には関係ない。そこにある魔力を全て解体して放出する。並の魔術師ならこれで無力化出来る。そして私に投げ飛ばされる」
紫音は手錠をポケットにしまった。例の如く跡形もなく消える。
「あの男は、君が立ち去ってすぐに現れた。今まで接触してきた幻影ではなく本人が。いよいよ道連れに私を始末する覚悟を決めていたらしい。そこで私は少し時間を貰ってあの手紙を書いた。彼処に書いたことは全て真実だ。上手くいかなかった時のことを考えてのことだったけどね。それを置いたのをきっかけに、松風純一郎は躍りかかってきた。恐らくアイツは私を捕まえて滝へ落ちるつもりだったんだろう。本人にはもう魔力が少ししかなかった。もう精製出来る魔力も少なかったんだ。だからそういう手段を取るより他になかった。しかし私は逆に彼を捕まえて手錠をかけ、そのままバリツを利用して放り投げた。そして私は呆気なく勝利した」
紫音はいつの間にか持っていたパイプを口に運んだ。そして大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出した。他人の家だということは考慮しないらしい。
「そう。語るまでもない。私達は『最後の事件』を再現させられていた。ならばそこにはモラン大佐がいることは間違いない。私は直ちに身を隠した。崖を登ることでね。おかげでモラン大佐役の男の顔をちらと見ることが出来た。しかし奴もまた私を見ていた。彼は全てを見ていた。彼は私に報復するだろう」
紫音はまた息をついた。狙われているとは思えない落ち着きぶりだった。
「なんで帰って来なかったの?」
「死んだことにしておきたいからさ。まあ、モラン大佐役に見られていたから、あまり上手くいったとは言い難いけどね。その間に私は世界各地の神秘都市と地霊脈の調査をしていた。別人になりすまして」
「このご時世に?」
「人間社会の情勢を待ってくれるほど地球は優しくない。とはいえ私も2020年中は大人しくしていた。世界中パンデミックで身動きが取れなかった。今年度に入ってワクチンも打った。日本に戻ってからまだ一年も経っていないが、ちゃんと二週間の隔離は行ったよ。
「生きてたなら教えてくれてもいいのに」
「いや、いや。君にも伝えるわけにはいかなかった。出来れば誰にも知らせたくなかった。知っていたのは従兄妹の誠だけだ。どうしても金銭面で彼の助けが必要だったから、止む無く話した。しかしそれ以外は誰にも明かしていない。綾女さんにもね」
「きっと分かってると思うけど」
「そうだろうね。あの人に隠し事は出来ない」
紫音は声を出さずに笑った。
「他に何を説明しなきゃいけなかったかな」
「あの事件そのものの説明が欲しい」
「それはそうだね。説明しよう」
わたしは身を乗り出した。紫音は逆にゆったりと椅子に座り、またパイプを手に取った。
「あれはオレンジの種と魔術師狩りとの二つの事件が同時に進行していたかに見えた。だからややこしくなった。しかしどちらも黒幕は同じだ。そして、アレは大きく見れば一つの事件なんだ。
松風純一郎は、かつて私の肉体を求めて橋姫と争ったことがある。結果は痛み分けに終わり、彼は私の肉体を諦めた。そして別の手段に出た。恐らく元々用意してはいたのだと思う。神の再来を人工的に作り出そうとしたんだ。
再来という概念については既に知っているね。再来、正確には英霊再来。かつてこの世に存在した、或いは存在しなくても世界中で知られた英雄・英傑・偉人・賢人の神秘的な生まれ変わりのようなものだ。しかし通常であれば神の再来は発生しない。
それを彼は――如何にしてかは分からないが――人為的に作り出すことに成功した。とはいえ、出来栄えは決して良いものでは無かったがね。
それらを競い合わせることで互いの能力を高めさせ、最も良いところで収穫する予定だったのだろう。魔術師を殺していたのもその一環らしい。
そしてあの日がまさに最適の収穫時期だった。相応しい場所は夏山市以外にある訳が無い。しかし夏山市には私がいる。邪魔者には暫くいなくなって貰いたい。そこでオレンジの種だ。アレを使って私を国外へ連れ出し、向こうで私を拘束。その間に全ての事を済ませる予定だった。
まず少女潤奈を使ってハーヴェイ・スペンサー支部長を唆し、私にオレンジの種を送りつける。その後デイビッド・ノックスを使って支部長を抹殺。その咎を私に押し付ける算段だったと思う。支部長は何も知らなかっただろう。
あの時の私は、誰かが私を国外へ連れ出そうとしていることは分かっていた。確か、罠だと分かっていたというようなことを言ったと思う。だから一旦国外へ抜けて、その後で機を見て帰国し、進行している悪事を止めるつもりだった。だから帰り道をたくさん用意していたという側面もある。
しかし誰にとっても予想外の事が起こった。綾女さんの同行だ。綾女さんがロンドンまで同行した挙句、私と共に残ったことで私は速やかに帰ることが出来た。
ロンドンでのことは前に話したと思うから割愛しよう。
では夏山市へ帰った私がまず何をしたか分かるかい? 実は、地霊脈の状態を乱したんだ。儀式に最適だった状態から、最悪の状態まで。こうして松風純一郎の計画は完全に崩れた。私があの日滝で調べていたのは、乱した地霊脈の状態だったんだ。見事に最悪だった。過ぎたるは及ばざるが如し、というやつで、あまりにも多量の
そして、最後の計画を打ち砕かれた松風純一郎は、早速報復行動に出た。ご丁寧に私の家まで来て宣戦布告をしてからね。そこからはさっき説明した通りだ。他に分からないことは?」
ここまで紫音は休みなく話し続けた。普段は別段饒舌というわけでもない彼女がこれだけ話すのは珍しいように思う。とはいえ、わたしが知っている紫音は三年前の彼女だ。多少違っているところがあったとしてもおかしくはない。言葉遣いもなんか違う。でもそれに関しては多分違っていたのは三年前で、こっちが素だろう。だから例えて言うなら、わたしが彼女を「紫音さん」ではなく「紫音」と呼ぶように、という方がまだ適切だと思う。
三年前、わたしが彼女をさん付けで呼ぶと、紫音は嫌そうな顔をしていた。だから、わたしは彼女の失踪後、彼女を指す時は必ず呼び捨てにするようにしていた。それが今も続いているだけだ。
「潤奈先輩……少女潤奈はどうやって支部長を誑かしたの? 魔術は使えないのに」
「誑かしたというのはいい表現だな。しかし、私に言わせれば、あの少女潤奈が、たかが魔術が使えない程度で異性を籠絡出来ないと考える方がおかしい。彼女の『魅了』は魔術だけではない。単なる技術による魅了も彼女は得意だった。支部長もそれでやられたんだろう。彼女をジョン・オープンショウにするのがそもそもナンセンスだ。他には?」
「手紙の差出人が分かったのは?」
「簡単だよ。あの封筒はロンドン支部から公的書簡を出す際に用いるものだ。そしてロンドン支部でH.S.といえばハーヴェイ・スペンサーしかいない。本部でS.H.といえば私しかいないようにね」
「え、そうなの?」
「何が? 嗚呼、そうだね。私と同じイニシャルで、私以上の影響力を持つ人物は本部にはいない。あそこでそのイニシャルを見れば、それはまず間違いなく私を指している」
「なるほどね。じゃあ、そのパイプをあんなに頻繁に使わなきゃいけない理由って何?」
「嗚呼、それもいつか説明するという話だったね。確か、私の眼については何も説明していなかったと思う。私の眼は左右それぞれ違う魔眼だ。左眼は極めて限定的に未来を予測してその光景を見せる魔眼。右眼は見たものを分析する魔眼で、人間には見えない物質も見える。この二つが常時魔力を喰いまくるから、私は頻繁に手軽に魔力を回復させる必要があるんだ。だからパイプだ」
「綾女さんの質問の答えは?」
「言ってもいいのか? 答えは玩具としてだよ。あの
それは割とショックだった。綾女さんは、いつまでも帰らぬご主人を待ち続けているのかもしれない。そんなことをちょっと思った。
「あの城での戦いは?」
「ハ、あれは本筋とは無関係だ。言ってしまえば、あの魔術師狩り共の決戦といったところだね。様々な要素が重なった結果不幸にもあのようになってしまったが、松風を始末した後できちんと鎮圧したよ。まあ、私は殆ど何もしていないがね」
紫音は肩を竦めた。そして、他は、と目で尋ねてきた。
わたしはかぶりを振った。もう思い付かなかった。なにしろ三年も前のことなので、何の謎があったかパッと思い出せなかった。もう無かったかもしれない。
紫音は暫く黙ってパイプを咥えていた。
「ところで、今夜時間ある?」
突然紫音が言った。
私は時計を見た。午後六時だった。もうほとんど夜だ。いきなり今夜とはなかなか非常識だ。
「相変わらず急だね」
紫音はニヤリと笑った。三年前は若干苦手だったこの表情も、今見ると不思議と安心した。
「勿論時間はあるよ。なくても作る」
わたしはきっぱりと答えた。紫音は心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「君ならそう言ってくれると信じていたよ。誘うかどうか迷っていたんだけど、やっぱり私のボズウェルがいなくちゃお手上げだ」
声からも嬉しさが溢れていた。
「わたしが役に立つならいくらでも手伝うよ」
「Excellent. いてくれると本当に嬉しいよ。実はね、ここへ来る前に自宅へ戻ったんだ。当然見張りがいたよ。モラン大佐役の男の手先だ。恐らく敵は既に行動を起こしているだろう。さあ出かけるよ、樹里。すぐに忙しくなる。私達には『空き家の冒険』が待っているからね。しかし折角だ、事件は違うが是非こう言わせて欲しいな」
紫音は元気よく立ち上がった。
「
橋姫紫音の回想 竜山藍音 @Aoto_dazai036
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