大鏡の滝

 紫音さんは移動中全く何も喋らなかったが、電車を降りるとすぐに口を開いた。

「最終的な目的地は、例の城よ。だけどその前に少し調べなくちゃいけないことがあるから、何ヶ所か巡るわ。まずは大鏡の滝へ向かう」

 大鏡の滝は、郊外の森にある滝だ。わたし達地元の人間はその郊外の森(森というか、実際には山だ)を「大鏡の山」と呼んでいた。あの場所を森と表現したのはわたしの記憶している限り空蝉茉莉花ただ一人だ。

 そんなところに何をしに行くのか、というのがわたしの一番の疑問だったが、彼女には考えがあるのだろうから、わたしはそれを信じてついて行くだけだった。

 そこに山があり、その中に滝があることは古くから知られていたが、そこへと至る道はあまりきちんと整備されているとは言い難く、わたし達は登山用のステッキを用意していた。それがなくても別段行けなくはないだろうが、あった方が安心なのは間違いなかった。

「ロンドンはちょっと退屈だったよ」

 歩きながら紫音さんは言った。

「貴女を締め出した後、私はすぐに調査を始めた。結果は思わしくなかった。部屋には痕跡が殆ど残っていなかった。結局、警備部の連中が来る前に容疑者を絞り込むことは出来なくて、その場で拘束された。けれど、その何分か後に綾女さんがやってきて、私のアリバイを証明してくれた。綾女さんの言葉を疑う奴はいない。私はすぐ解放された。本当に凄いひとだよ、綾女さんは。普通なら絶対に自力では解けない類の呪いを自力で、かつ短時間で解いてみせたんだから」

「どういう呪いだったの?」

 わたしは尋ねた。

「これがなかなか厄介なやつで、『受けた魔術を跳ね返す』というものだった。我々魔術師はあのような場合、手っ取り早く弾を停止させようとすることが多い。そうすると、弾は止まらず自分の体が止まり、動かない的の出来上がりだ。嗚呼、そういえば綾女さんは撃たれた後もまだ話せるだけの抵抗力を持っていた。それも本来有り得ないことだ。人間なら、ね。

 停止の魔術というのは、『時』という属性に分類される魔術だ。対象の時の流れを停止させる。時の流れが止まっているのだから、呪いを解くことは不可能だ。外部から処置しない限り。しかし、あのドクター・アンドリューは魔術的な医師ではない。呪いを解くことはちょっと不得手だ。実に巧妙なやり方だったが、相手が悪かったな」

「神様だからね」

 紫音さんは頷いた。

「解放された私は、あの支部の中に私のものと同じ銃弾を使う奴がどれほどいるか調べた。実に簡単な仕事だったよ。デイビッド・ノックスの他にはいなかった。

 後は彼を捕まえて終わりだ。何故か脚を折られていたから捕まえるのすら容易だった。それから帰りの飛行機内では綾女さんの魔術で意識だけこっちへ来たりしたけど、その他にはあまり大したことは起こっていない」

 電車を降りて山へ入るまでに十分。山に入ってからさらに二十分もの時間が経過し、紫音さんの話のおかげで退屈こそしなかったもののだいぶ足が疲れて来たところでようやく件の滝へ到着した。

 こういう時の紫音さんは疲れを知らないので、着くなりすぐに調査を始めた。わたしにはもはや彼女が何を見て何を探しているのかさっぱり分からなかったので、近くにあった岩の一つに腰を下ろして待っていた。その間紫音さんは地面を這うようにして何かを観察したり、或いは何かを追跡するかのように歩き回ったりし、時には嬉しそうな顔すらしていた。

 そこでもう十分ほど経過した頃、紫音さんの携帯が鳴った。メールの着信を知らせる音だった。

「やっぱりか!」

 メールを一読した紫音さんは叫んだ。

「警察が失敗した。彼等は部下共を捕まえることには成功したが、松風純一郎本人は捕まえられなかった。いよいよ危険極まりない。夏山市が滅ぶかどうかがかかっている。早急に始末しなければ……」

 そのまま紫音さんは黙り込んでしまった。視線をまた地面に向けて。

 その時、今度はものすごい勢いで紫音さんの方に飛んてくるものがあった。それは紙で出来ていた。紫音さんが使役する紙の人形ひとがただ。その手に手紙を持っているのがちょっと滑稽だった。

「何か調べさせていたの?」

「いや、これをここに送ったのは私じゃない」

 紫音さんはいくらか固い声で答えた。

「総角に、緊急時の連絡用として一枚だけ持たせていた。それじゃないかと思う。すまないけど、手紙を読んでみて」

 視線を地面から離さず言った。

 わたしはまだ座っていたいと喚くかのような我が脚を無視して立ち上がり、人形の手から手紙を取った。

「『急ぎ来られたし。城にて』これだけ」

「………」

 紫音さんは少し黙り込んだ。しかし、わたしが何かを言うよりは早く口を開いた。

「樹里ちゃん、悪いんだけど私の代わりに行って頂戴。今来た道の途中に、城へ向かう分かれ道があるから。私は反対に、滝の向こうから大きく回って城へ向かう。向こうで合流しましょ。それと、これを持って行きなさい」

 そう言ってポケットから小さなピストルを取り出した。

「私が今の銃を手に入れる前に使っていたものよ。手入れはしてあるからきちんと使えるはず。護身用くらいにはなるわ。それじゃ、頼んだわよ」

 わたしは頷いて駆け出した。


 結局、城の近くまで行くのにも三十分という結構な時間を要した。

 城は燃えていた。

 石を積み上げて出来た城壁は崩れ、見るも無残な姿を晒している。

 その周囲は森だったが、何故か古めかしい西洋風の鎧を着た大勢の戦士が剣を持って徘徊していた。何人かそれとは違う服の人物を見かけたが、きっとそれらの人が魔術師狩りなのだろうと思って近付かなかった。こう言ってはなんだが、彼等同士で戦って消耗してくれる分には大歓迎だ。わたしに降りかかる危険が減るから。

 鎧の戦士たちは存外強くなくて、うっかり遭遇してしまった時でも比較的簡単な魔術攻撃で退けることが出来た。わたしの威力では殺害まではできないが、あちこちに似たような死体が転がっていた。空蝉茉莉花の仕業かもしれない。

 総角さんは比較的早く見つかった。城門の側にいたからだ。危険ではないのかとも思ったが、分かりやすくて助かったのも事実だ。

「総角さん!」

「あれ、若菜ちゃん。なんでここに?」

 総角さんは妙なことを言った。心底不思議に思っているようだったのが猶更奇妙だった。

「総角さんから連絡が」

「ボクから? そんなはずはないよ。紫音から貰った人形もまだここにあるし」

 そう言って総角さんはズボンのポケットから二つ折りにされた人形を出して見せた。紫音さんは一枚渡したと言っていたから、これで全てのはずだ。ではあの人形は?

 わたしは唇を噛んだ。そして駆け出した。

「……やっぱり!」

 そんな気はしていた。これは罠ではないかという気が。

 あの時、わたしに実家へ帰れと勧めた時、紫音さんは何と言っていたか。確かに「奴は最早完全にモリアーティだ」と言っていたではないか。ならば予想して然るべきだった。

 わたしは全力で滝へ戻ろうと思ったが、また三十分もの時間を使うのは避けたかった。

 この時ほどわたしの魔術に感謝したことはない。つまり――

「ごめん、手伝って!」

 いつもの如く、他力本願である。

「……私達は使わないんじゃなかったの?」

 超自然的に現れた理恵ちゃんが言った。

「いやぁ、そう言ったのは紫音さんだけだし」

 そう、紫音さんは彼女達を連れて行かない方針だった。そもそもはこちらの戦力を増強するための降霊だったわけだが、わたしがちょっと張り切りすぎて強力すぎる霊体を降ろしてしまったため、どんな影響を及ぼすか分からないから連れて行かない、ということらしい。

 しかし、今はそんなことをとやかく言っている場合ではない。とにかく急いで戻る必要があるのだ。

 事情を説明すると、理恵ちゃんと美佳ちゃんは、その背から翼を生やした。二人がかりでわたしを持ち上げ、そのまま滝の方へ(方向を示したのはわたしだが)一気に飛んでくれた。

 滝の周囲には誰もいなかった。

 既に向こうへ回ったのかも知れないとちょっと思ったが、そうではないと示すものを見付けてしまったので、わたしは言葉を失った。

 それは紫音さんの使っていたステッキだ。それが岩壁に立てかけられて置いてあった。

 近付いてみると、その下に、手帳のページを切り離したような紙が畳まれて置いてあった。寧ろ、紙が飛ばないように杖で押さえているといった感じだ。

 見なくてもその内容は頭に浮かんだが、とはいえ読まない訳にはいかないと思って、わたしはその紙を手に取った。

 やはり、それは紫音さんからの手紙だった。


 親愛なる樹里へ

 私はこの手紙を松風純一郎氏の好意で書いている。彼は二人の間にある様々な問題について最終的な決着を付けようと、私が時間を都合するのを待っている。彼は如何にして警察の手を逃れたか、如何に私達の行動を見張っていたか、その手法を簡単に語ってくれた。私は彼の能力を非常に高く評価していたが、これは間違いなくそれを裏付けるものだった。私は彼の存在による社会への影響をこれ限りで除去出来ると思うと嬉しく思う。しかし、私はその対価が友人たちに苦痛を与えることを恐れている。特に、親愛なる樹里、君に対して。しかし、予め言った通り、私の仕事はどうにも重大な局面を迎えていたのだ。そして、これ以上私にふさわしい結末は有り得ないだろう。

 君に正直に告白しよう。実は私は城から来た人形が偽物だということが完全に分かっていた。そして恐らくこういう展開になりそうだという確信があったので、私は君をその使いに行かせたんだ。

 若菜警部に伝えてくれ。連中を有罪にするのに必要な書類は整理棚のM、松風と書かれた青い封筒の中にすべて入っている。私は発つ前に全ての財産を処分し、従兄妹の誠の手に預けた。ご両親によろしく伝えてくれ。親愛なる友人へ。

 Very sincerely yours,

 Shion Hashihime


 読み終わる頃、わたしは顔から血の気が引いているのを感じていた。これはホームズがワトソンに遺した手紙そのものだ。

 恐れていたことが現実になった。紫音さんはここで松風純一郎に会ったのだ。そして決着を付けた。いよいよ否定する材料がなくなってきた。

「落ちたら助からない」

 理恵ちゃんが呟いた。

「でも、落ちたとは限らない。転移で上手く抜け出してるかも」

 わたしは、最後の希望をかけて口にした。

「だめ。魔術を使った痕跡はないの」

 美佳ちゃんが応えた。

 現実はわたしに優しくなかった。

「でも、ホームズみたいに投げ飛ばしたり――」

「相手が魔術師なら、逃さないように掴まえた状態で滝へ落ちるしか方法はない。でも、落ちたら助からない」

「そんな……」

 あくまでも冷静な理恵ちゃんに言われると、ただでさえない見込みが更になくなっていく気がした。しまいにはわたしも落ちていくのではないかと思うほどに。

「……取り敢えず、総角さん呼んできて」

 情けないことに、わたしが頼れるのは自分自身ではなかった。魔術師としても探偵としても未熟なわたしでは、こういうときに何も出来ないのだ。

 二人の元大天使はしっかりと頷き、空へ飛び立った。

 待つ間、わたしはやれる限り探してみようとした。彼女の痕跡を。しかし、彼女の足跡が滝へ向かって途切れていること以外何も分からなかった。

「紫音ーーー!!」

 わたしは叫んだ。多分、この時が初めてだろう。紫音と呼び捨てにしたのは。敬称を付けるとか、そんなことを考えている余裕はなかった。自然と出てきた呼び方だった。

 何度も叫んだ。滝へ向かって、山へ向かって。

 何も返ってこなかった。

 やがて連れてこられた総角さんと共に捜索したが、何ら希望的な手かがりを得ることは無く、彼女のあまりにも呆気ない死が確実なものとなった。


 わたしは気を失って倒れ、気が付いた時には全てが終わっていた。

 町には平和が戻っていた。

 何事もなかったかのような日常が繰り返されていた。

 そこに、橋姫紫音がいないことを除けば。

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