帰還、そして出立
空蝉茉莉花という女性の後に続いて建物から出ると、特に問題もなく敷地からも出ることが出来た。何事もなかったかのように脱出してしまったのだが、さて、これからどうしたものか。取り敢えず帰ろうか。
紫音さんは紫音さんのやるべきことがある。その最中にわたしがこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。けれど、わたしは紫音さんの助手でもある。ならば、事件解決の折にはその場にいるべきだろう。
と、そこまで考えてから、ふと思いついたことがある。根拠もないし、そんなことはないと言われてしまえばそれまでの、つまらない考えだ。
あの紫音さんが、わたし達の行動を凡そ全て読み切っていると言っても過言ではない紫音さんが、わたしを助けに来ないというのはどういうことか。それは、わたし一人で(と言っても理恵ちゃんと美佳ちゃんがいるのだけど)いる方が都合がいいことがあるからではないか。ではそれは何か。そんなこと言うまでもない。つい先程の、空蝉茉莉花のことに決まっている。
勿論わたしは紫音さんの考えを読むことは出来ないし、敢えてやろうとも思わない。だから、どういう意図があってそうしたのかとか、細かいことを考えようとするとわけわかんないことになるのは必定だ。
けれど、全く推測出来ないというわけでもない。何しろもう三ヶ月も一緒に暮らしているのだから。
わたしはさっき、わたし一人でいる方が都合がいいと言ったが、恐らくそれは正しくない。いやまあ事実としてはそう違わないんだけども。どちらかというと、紫音さんがそこにいない方が都合がいい、だろう。紫音さんがしたかったのは、空蝉茉莉花と会わないようにする時間調整だったのではないか、と考えるのが、最も筋が通るのだ。わたしの推測、もはや勘とすら言ってもいいレベルだが、紫音さんには彼女に会いたくない理由があったのだろう。例えばそう、あの魔術師狩りという人達の時のように、出会ったら戦闘になっていた、とか。
うーん、有り得る。
ああ見えて意外と喧嘩っ早いからなあ、紫音さん。
と、そんな恩知らずなことを考えていると、さもそれを咎めるかのようにわたしの携帯が鳴った。発信者は勿論紫音さん。ただし通話ではなくLINEだ。
『Come at once if convenient — if inconvenient come all the same.』
うーん英語。とはいえそんなに難しい文でもない。訳してしまえばこうだ。
『もし都合が良ければすぐ来い——もし悪くても同様に来い』
いや最低。元ネタを知らなければ心底軽蔑するところだった。
知らない人がこれを見たら紫音さんの印象が最悪だと思うので一応言っておくと、この言葉はサー・アーサー・コナン・ドイルの短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』の中の一篇である『這う男』の冒頭部分にある、シャーロック・ホームズからジョン・H・ワトソンへの電報の引用だ。
来いというのは明らかに、紫音さんの事務所にということだろう。となれば、電車を使った方がいい。わたしはそう判断して駅に向かって歩き出した。
歩いている間、わたしはいくつも奇妙なものを見た。明らかに、人の世にいるものではない、神秘世界に属する生き物(生きてないものも)だ。その手の魔術か、結界か何かの作用で、見えたり見えなかったりする。空気が揺らいでいる。しかし、先程学校で見たやつほど悍ましい姿はしていない。
勿論悍ましくなければ良いというものではない。本来であればそれらは魔術師によって飼いならされ管理されているはずのものだ。こんな街中を、誰の目にも触れるような状態で闊歩していたりはしない。それは許されざることだ。実際、魔術師ではない人にも見えているようで、ちょっとした人だかりの原因になっている。
しかし、わたしがどうにかできるような問題ではない。なので無視して真っ直ぐ帰る。
事務所に帰ると、紫音さんは相変わらずソファの一角を占拠してコーヒーを飲んでいた。今回はそういうスタイルらしい。目の前の机の上に拳銃さえ置かれていなければ、これが日常だと勘違いすることも出来そうなくらい、落ち着いた佇まいだった。
「おかえり、樹里ちゃん」
紫音さんがこの上なく優しい声音で声をかけてくれた。わたしも出来る限りの笑顔で答えた。
「ただいま。そしておかえりなさい」
「ただいま」
紫音さんは更に破顔した。敵わない。
安心感がどっと迫って来る。ついでに僅かばかりの疲労も。
紫音さんはこういう場合にしては珍しく魔術師ではなく探偵の顔をしていたが、それで何か次の行動が変わるかというと、そんなことは勿論ない。つまり、また出発のはずだ。
ただし、その前にしなくてはならないことがある。準備とかではなく。
「……おかえりなさい、綾女さん」
「遅かったな、樹里」
綾女さん程ではない。しかしそれを口にする度胸はない。それを言ったら無事では済まない気がする。言わなかったとしても、思った時点でもう遅いという考え方もある。
綾女さんは、ソファにかなり浅く腰掛け、背もたれに依りかかっていた。知っての通り綾女さんは身長が低いので、殆ど寝ころんだような恰好である。
「さて樹里よ。前に、私の言う『好き』はどういう意味か考えるように言ったな。答えはわかったか?」
言われたっけ、と一瞬思ったが、すぐに思い出した。飛行機の中の話だ。あの後色々あったから忘れていた。
「うーん……。家族に対する好き?」
一番無難なものを答えた。対する答えは、
「戯け」
だった。
一刀両断。冷たい。
「お主はまだ、神というものをよく理解していないらしいな。嘆かわしい。良いか、そもそも我等のような神にとって、個々人というのは割とどうでも良い、何とも思わない小さな存在だ。それを家族の如く思うようなことはまずない」
ええ……辛辣……。
しかし、綾女さんの言葉を受けて、わたしの頭の中では「第四の可能性」という文字が点滅し始めた。
「そう、そもそもあの三つしかないかのように誘導したのは私だが、それ以外の可能性も探るべきだったな」
「じゃあ……そもそも好きじゃない?」
真っ先に思い浮かんだ第四の可能性を口にしたが、綾女さんの言葉を待つまでもなく違うと分かった。なぜなら顔に書いてあるから。呆れた、と。
「はあ……。紫音よ、お主の弟子は魔術師としてはともかく、探偵としては半人前にも及ばんようだな」
すっごいバカにされた。悲しい。
「まあ、まだ観察の特訓しかしてませんから。思考についてはその後ですよ」
紫音さんの探偵観は相当偏っているので、何よりも観察を重視している。勿論、探偵という言葉の意味を考えればそれこそが正しい在り方だ、という紫音さんの意見にわたしも賛成だ。おかげでわたしもあの空蝉茉莉花の右手が義手だったのには気が付いた。以前のわたしだったら、それすら気が付かなかっただろう。
「善いか、或る意味ではお主を好いていることに間違いはない。どういう意味で好きなのか考えよと言ったのに、その答えがそもそも好きではない、にはならぬだろうが」
それは確かにそうだ。単純に日本語の問題だった。
「まあこれ以上神について分かっていない者に考えさせるのも何だ。紫音、後で教えてやれ。私は帰る」
綾女さんはそう言って立ち上がり、何も無い壁に向かって歩き出した。否、壁のずっと向こう、夏山神社へ向かって。そして壁際に着くか着かないかのうちにその姿は霞のように掻き消えた。
わたしは所在なく紫音さんの方へ視線を向けた。
紫音さんは全くわたしの方を見ていなかった。彼女は窓から外を眺めていたように見えた。
「樹里ちゃん、君は家に帰った方がいい」
「ここが家だけど」
「いや、ここではなく実家に。ここは安全とは言えなくなった」
そして、窓の外に視線を向けたまま、紫音さんはこう続けた。
「奴が、松風純一郎がここに来た。私が戻ってすぐに。奴は最早完全にモリアーティだ。危険極まりない。私は奴を始末する手筈を整えたが、恐らく向こうも同じことをしている。出来る限り君を危険に巻き込みたくない」
それは嬉しい気遣いだが、その心配はいささか遅い。わたしは今しがた危険な目に遭ってきたところだ。半分くらいは自業自得だけど。
「今更危険なんて。わたしも行くよ」
「……来ると言うならもう止めないけど、その代わり、私の指示には必ず従ってもらうわ」
「わかった」
わたしははっきりと頷いた。
紫音さんはコートを羽織り、ポケットからパイプを取り出した。
「行こう。総角には先に行かせた。私は先にやることが二三あるから、少し遠回りしなくちゃいけない。とにかく電車だが、残念ながらすぐに出るものはない。五分ほど待ってから行く」
紫音さんはそのまま深い思考の渦に沈んでいった。
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