空蝉茉莉花

 待つしかないのか。

 いや、いやいやいや。

 ここで待つって結構しんどいと思うんだけど。

 そもそも、わたしはまだ扉と窓を開けてみようとしただけに過ぎない。それで出られないとするのは些か性急に過ぎるのではなかろうか。

 とはいえ、紫音さんから結界破りを教わっていないのは確かだ。結界って確か仏教用語だったはずだけど、英語だと何て言うんだろう。

 おっと。

 どうでもいいことを考えている時間はない。脳味噌が現実逃避に向かいつつあるけれど、そんな下らないことをしている暇があったら対処を考えろ、と紫音さんから教わった。

 例えば、窓を割るのはどうだろう。

 あの時、祖父に扮した魔術師が現れたのは、わたしが窓を開けた瞬間だった。あれは恐らく、あの窓を開放したことによって、あの部屋を守っていた結界を崩してしまったからだ。封じているからこその結界だというのに、それをわたしが内側から破ってしまったのだ。

 それはこの部屋にも言えるのではないだろうか。どこかに穴を開けられれば、そこから結界魔術が解れる可能性が高い。

 だからこそ、壊しやすそうな窓から試す。

 直接手で殴ったりしたら危ないので、椅子を手に取る。

「せいっ!」

 思い切り振りかぶって殴りつける。わたしの腕力はどちらかというと、というか普通に弱い方なのだけど、流石に椅子で殴ってガラスが割れない方がおかしい。

 まあ、そのおかしいことが起こったんだけど。

 ビクともしない。衝撃が全て跳ね返ってきて、腕が痛む。

 予想出来たことではあるけれど、実際に直面すると悲しい現実だ。

 そこではたと思い至った。

 今は普通に魔術が使える。ということは、魔術で攻撃できる。まあ、わたしの使える魔術を攻撃に転用しても、大した威力にはならないのだが。魔術は本来戦うためのものではない。

 空中に魔術陣を描く。魔力を光線化して発射するだけの、簡単な魔術だ。

 描きあがると同時に壁へ撃ち込まれる魔術。しかし、やはり威力不足だった。

 けれど、窓と違って跳ね返ったわけではない。もっと高威力の攻撃でもできればよかったんだけど。

「仕方ないか。楽しようと思っちゃいけないもんね」

 こうなったら、正攻法でいこう。といっても、結界破りの正攻法ではない。そもそもそんなものは知らない。

 わたしはわたしの正攻法でいくのだ。

 つまり——

「助けて、理恵ちゃん、美佳ちゃん!」

 人頼みである。それこそが、若菜家指定魔術の神髄。

 全身の魔術神経が励起し、輝きが部屋に満ちる。

 神々しい光が消え去った後には、二人の少女が立っていた。何故か野分学園中等部の制服を着ている。

「呼ぶのが遅いわ。呼んでくれなきゃ行けないんだから、しっかりしてよね」

「理恵、そんなに怒っても仕方ないよ。心配してたのはわかるけど」

「心配かけてごめんね。わたしは大丈夫だから」

 わたしがそういうと、二人同時に飛びついてきた。本当にかなりの心配をかけていたらしい。申し訳ないことこの上ない。

「因みに、あの探偵さんが一番心配してたよ。話しかけても聞こえないくらい」

 紫音さん……心配してるなら早く助けて……。とはいえ、あの人が黙っている時は頭の中で様々な推理が組み立てられている時の場合があるから、わたしを心配していた訳ではないかもしれない。

「って、理恵ちゃん、その刀は……」

 理恵ちゃんは、その可愛らしい容姿に似合わない、一振の刀を手にしていた。私はそれに見覚えがある。確か、紫音さんの部屋に置いてあったものだ。地下室ではなく、三階の部屋に置いてあったものなので、代々家に伝わる家宝みたいなものだと思っていたし、さほど意識に留めてもいなかった。

「ん? 嗚呼、あの探偵に預けられたのよ。喚ばれた時に困らないようにって」

 つまり、何か魔術的な仕掛けがあるのだろう。紫音さんの刀だ。そのくらいでは驚かない。

 試しに抜いてみると、何故かその刀身は紫色をしていた。紫色と言えば、紫音さんの魔力の色だ。ということは、この刀に施されているのは、魔術的な仕掛けどころではない。魔術そのものだ。

 魔術がかけられた刀の使い道など、そう多くはあるまい。問題は、そこにどのような魔術がかけられているのか私は知らないということだ。とはいえ、今言った通り、こんな刀の使い方なんか限られている。これが例えば、魔術を込めた石だったりしたらどう扱っていいかさっぱりわからなくなるところだったが、流石に紫音さんがそんなヘマをやらかすはずもない。他の人ならともかく、わたしの実力のレベルを誰よりも把握している紫音さんが。

 何が言いたいかというと、その考え得る最も単純な用法、即ちその刀で結界を斬りつけるという方法により、難なくわたしは自由の身になってしまったのである。

 首尾よく行き過ぎて怖いくらいだ。その中でも何より怖いのが、

「ここ、本当に学校?」

 と、言わざるを得ない程に、校内の様子が変わっていたことだ。

 まず、空気が重い。それも物理的に。なんなら色も変わって見える。何というか、澱んでいる。しかも暗い。

 更に言うならば、出来れば見たくなかったのだけれど、何か奇妙なモノが徘徊している。生物なのかどうかさえ怪しい。姿形は全くはっきりせず、常に焦点が合わないような、ぼやけた感じでしか見ることが出来ない。だが、何か声のようなものを発しているので、生物なのだろう。

「樹里、あまりアレを見ない方がいい」

 理恵ちゃんが、そちらを見ないようにしながらそう教えてくれた。

「アレは見る者の精神を犯し、それを貪るモノ。その刀が多少防いではいるみたいだけど、それだっていつまでもつか……」

 そんな理恵ちゃんの懸念を裏付けるかのように、刀身の紫色が薄くなっていた。刀に籠められている魔力が尽きようとしているのだと、ほとんど素人のわたしでも流石にわかった。

 そんなわけで出られたはいいがどうしようか、と思い悩んでいた時、上の階で大きな音がした。

 いや、違う。音がしたのは上の階ではない。上の階と、この階をつなぐ天井であり床である。つまり、上の階から何かが猛烈な勢いで落ちてきた。天井を突き破って。

 当然の如く、物理法則に従い、わたしの頭めがけて天井が落ちてくる。

「……怪我はない?」

 落ちてきたのは事実だけれど、今のわたしには心強い味方がいるのだ。

 美佳ちゃんが私を押し倒し、理恵ちゃんがわたしの上体のあった所に飛び込んで防いだ。見事な連係プレーだった。わたしは何も反応できなかった。情けない。

「ありがとう、わたしは大丈夫。理恵ちゃんは?」

「このくらいどうってことないわ」

 いつも通り、軽い調子で理恵ちゃんは答えた。

 よかった。これで怪我されていては申し訳ないにも程がある。

 しかし、問題はそれだけで終わりはしない。

「いてて……。やってくれたなあ、アイツ。……おや?」

 そう、目の前に落ちてきた人がいるのだ。

 ぞっとするほど白い肌。それと対照に、光をも逃がさぬような漆黒の髪。光のない目。その癖柔和な笑顔を、明らかに張り付けている。

「君は確か……嗚呼、橋姫のところの弟子だったね?」

 見知らぬ女性は、どうやらわたしのことは知っているらしかった。

「はっ、はい。そうですけど」

 肯定しつつ、わたしはその女性に対する警戒を強めた。

 警戒心を以て改めて女性を観察したことで、わたしは気が付いた。その人の右手は、どこからかは分からないが、義手になっていた。手袋を嵌めていたので初めは気が付かなかったのだが、今しがた落ちてきた際に破れたのか、手の甲の一部がむきだしになっていた。明らかに機械なのだが、現在の科学技術でそこまで精巧なものが作れるという話は聞いたことがない。動作もまるで本物の手のようだし、シルエットに違和感もない。魔術で作ったものだろうと、わたしは判断した。

「ふむ。私はナイア――いや、違うな。今の私の名は、だ。よろしく」

 空蝉茉莉花。その名を聞いて私は愕然とし、慄然とした。言われてみれば、魔術連盟本部で見た写真の顔と似ているような気もする。あれは行方不明になる前の顔だ。多少変わっていても不思議はない。年齢を考えれば、急激に成長していておかしくはないし。

「……もしかして、橋姫から私について何か聞いてたりする感じかな?」

 誰の目にも明らかに動揺していたのだろう。女性――空蝉――はそう尋ねてきた。

「いや、その反応は違うな。もっと根源的な恐怖を感じる……。さては君、私の記録を覗き見たね?」

 息が止まった。血の気が下がるのを感じた。頭の中であの時見た文字が明滅する。八歳にして大学卒業。同時期にMAFIAの幹部を務め、更には卒業直後にニャルラトホテプと同化し、姿をくらませた怪物。その時点までの殺害人数は実に175人。

「おいおい、顔面が真っ青通り越して真っ白だぞ。しっかりしたまえ。今の私はナイアルラトホテップじゃないから心配は無用だよ」

 空蝉は朗らかにそう言っていたが、わたしは落ち着きを取り戻すのに、理恵ちゃんと美佳ちゃんに手を握って貰う必要があった。彼女たちの温もりを感じて初めて、わたしは冷静になった。

「私はずいぶん前に死んでいてね。これはスペアボディとして用意してたものだから、邪神の魔力は入ってない。ちょっと事前の準備が不十分だったせいで、こっちの体を起動させるのに時間がかかっちゃった。そんなわけで、邪神は未だに郊外の森で大暴れさ」

 わたしが落ち着いたのを見て、空蝉は話しだした。正直その辺の事情はどうでもよかったのだけれど、最後の言葉だけが気にかかった。

「郊外の森で、大暴れ?」

「そう。私は魔術師だけど、魔術師狩り連中の仲間をしていてね。その決戦がそこで行われているってわけさ。ほら、今も燃えている」

 そう言って彼女は窓の方を指さした。

 思わず振り返る。そこには、遠くはあったが、確かに燃える城の姿があった。およそ夏山市との境辺り。ギリギリ向こうかもしれない。わたしはこの街に長く住んでいるが、あんな城を見たことはない。

「あれは元々、結界に護られた城だったんだけどね。内側からの破壊工作によって結界が消失して、我々のように外にいる人間からも見えるようになったのさ」

 返す言葉が見付からなかった。あそこで、人が死んでいる。わたしはそれを確かに感じ取っていた。

「私も行かなきゃいけないから、これで失礼するよ。間に合わないのは分かってるけどさ」

 空蝉は昇降口(っていうのはおかしいか。うちの学校では靴履き替えないもんな。正式名称は正面玄関だ)の方に向かって歩き出そうとした。

「あの」

 それを、わたしは呼び止めていた。

 幸い、向こうも足を止めて振り返ってくれた。

「間に合わないのが分かっているなら、どうして戦いに行くんですか?」

 間に合わない、というのがどういう意味なのか、わたしは彼女の顔を見て、既に察していた。

 だから、きっと答えは分かっていた。けれど、訊かずにはいられなかった。

「どうして、なんて簡単なことさ。仲間があそこで死ぬなら、私はその敵討ちをしてやらなくちゃ。そういう生き方しか、私は知らないからね」

「それは、MAFIAにいたから?」

「そうだね。私は物心ついてすぐの、ほんの幼い頃からあそこにいた。いや、気が付いた時から、かな。それ以前の記憶がないから、それが私の人格の根幹にあるんだよ。反対するものは力で黙らせろ。やられたら倍以上にしてやりかえせ。そういう考え方がね」

 彼女の口ぶりは軽かった。それが当然だと思っているのだろう。

 不意に右手をきゅっと掴まれるような感触があった。見下ろすと、美佳ちゃんの手が、わたしの手を覆っていた。同時に、彼女は少し暗い顔でわたしの顔を覗き込んでいた。心配をかけたらしい。わたしと一緒に空蝉茉莉花の情報を読んでいるのだから、さもありなんである。

「それじゃ、今度こそ私は行くよ。くれぐれも、迂闊に私みたいなのと話してちゃ駄目だからね。君も私の仲間だと思われるぞ」

 そう言うなり駆け出し、昇降口の外に出た瞬間に飛び上がった。そしてそのまま姿を消した。

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