第4話

 そうだ、私は、ガムテープでお手々を縛られて、穴の中に、それで、それで、お父さんが私の上に土をかけたんだ。私は涙声になって、記憶の中から抜け出して水面から顔を出そうとした。お姉さんが私の手をギュッと握って、大丈夫だよって続きを促したので記憶の中に私はまた飛び込むことにした。お姉さんがそばにいるから、私は大丈夫。


「ゆっくり遡ってみよう」


 お母さんはいなかった。その場には見えなかった。代わりにお化けのミイラがいた。視界は遠い記憶の中、お姉さんの言葉が耳の近くで聞こえて安心して、私はお化けがどこから来たのかを考えた。ギシギシ軋む廊下、窓、それから、…あのお化けは、お化けになる前、私のだった…?

 ぐるぐると目が回る。ああ、私は、なんてことを。なんてことをしてしまったの。胸の奥がチリチリする。頭の中がぐちゃぐちゃで、全然はたらかなくて、強いライトが目の前にあるみたいにまっしろ。わたしは、わたしは。あの日、私が死んじゃった日、私は、私は、お母さんを、まだ生きていたお母さんを、穴に転がして、突き落としたんだ。だ、だって、おとうさんが、お父さんが、埋めようって。どうして、どうして。

 私はお姉さんの助けを借りながら、私たち家族に何があったか思い出すことになった。お父さんはもしかしたら恐ろしい人だったのかもしれない、信じたくないけどここまできたらきっとそうなんだと思った。


「お姉さんにはお母さんが見えるのね」


「うん。だけど、あれはアンタのお母さん、今はもう話が通じる状態じゃないんだ。アンタでも近付くのは危ないと思う」


 お姉さんに見えているお母さんは、青いミイラのお化けの姿をしているらしかった。近づいては危ないと聞いて、私はあのお化けがお母さんとわかってもやっぱり怖かったので、言う通りにした。その日の作戦会議はそこまでで、お姉さんは私を部屋に残して、「おうちの中を見てくるからここで待っていて」って言った。私は待っていたけど、お姉さんはなかなか帰ってこなくて、私は頭が疲れていたからか眠くなってしまって、眠い目をこすって堪えてた。しばらく経って、私は眠ってしまっていたことに気づいた。お姉さんはまだ帰ってきていなかった。だから、下の部屋へ見に行くことにした。ここにいてと言われたのに、私はすぐ忘れちゃう。私はその時、その言葉を知らなかったけど、今思うと怖いもの見たさみたいな、そんな気持ちもあったのかもしれない。


 お風呂場の少し手前、洗面所と脱衣所の間に、お姉さんはいた。お姉さんはその場にぼんやり、立ち尽くしているように見えた。何を見ているのかなって、ぐしゃぐしゃのアレを見ないようにって、天井の方を見ながら、お姉さんに近づいた。


 そこにはお父さんがいた。お父さんがぐしゃぐしゃになったお姉さんと揺れている。だらんとした腕や、変な方向に折れ曲がった足や、バサバサになった長い髪の毛が肌に貼り付いた首が、お父さんが動く度に揺すられて、お父さんの息遣いだけがお風呂場に虚しく響いている。硝子窓が中の熱気で汗をかいていて、床に散乱した割れた鏡の破片にはお父さんだけが映っている。汗の臭いや生きている人間の生暖かさが、白濁色の粘ついた何かが、きれいごとで塗り固められていた理想の家族像を粉々に打ち砕いていくような、そんな感じがして、私の胸の中がざわざわした。気持ち悪い。

 お化けは、お風呂場の隅に立っていた。お化けはブルーシートにくるまれていて、更にはガムテープでぐるぐる巻きだから、目のある場所に目は見えないし、人の形はしてないんだけど、私にはお父さんをじぃっと見つめているように感じた。お父さんが何をしているのか、私にはわからない。大人がするなにか、遊びなのか、だけど、きっとそれは、してはいけないことなんだと思う。呆然と立ち尽くしているお姉さんの手を取ると、お姉さんはビクッと身を竦ませたみたいだった。


「…!、ああ…なんだ…、来ちゃったのかぁ。」


「…お父さんは、何をしているの?」


 お姉さんを見上げて私はそう聞いたんだけど、お姉さんから質問の答えはなかった。代わりに、「ごめんね、不安にさせたね」と私の手を握って、その場から離れようってずんずん歩き出した。お風呂場を抜けて、廊下を出て、キッチンを通り抜けてもお姉さんは止まらなかった。そのまま玄関を出て庭に出てきた。お姉さんはおうちを振り返らなかった。


「この家を出よう」


 お姉さんは静かにそう言った。どうしてそんな事を言うの、っていつもみたいに尋ねようとしたけど、言葉にはしなかった。どうしようかどうしたらいいか迷っていて、舌が乾くような不安が、ぐるぐると体を回っていて、気持ち悪くて怖くて、私はおうちを振り返った。でもそこに、私の家族は、私の居場所はきっと、もう、ないんだって、そう思った。


「アンタには悪いけど、アンタの父さんはサイテーのサイアクのクソ野郎だよ。」


それはもう疑いようがなくて、


「そうだ、アタシと一緒に、アタシが生まれた故郷へ行かない?どうせ、これから飽きるくらい時間があるんだし、ねっ、アンタはどうしたい?アタシたち、自由なんだよ。誰にも邪魔されない、どこへでも行ける。自由になったんだ。」


お姉さんは笑って、


「お互い、死んじゃったことは悲しいし、やるせないし憤るし、正直…憎くてたまらない、あのクソ野郎を呪い殺したい……くらい………だ、け、ど!!!」


だけど?


「こうなってしまったことは、なってしまったからアタシたちにはどうすることもできない。それに、私はアンタのお母さんみたいになりたくない、アンタもそうでしょ?」


 お母さんの姿を思い出して、こくこく頷いた。私はお化けになりたくない。死んじゃったから既に幽霊だけど、誰かを恨み恨まれて悪い気持ちに飲み込まれるなんて嫌だ。勿論、私がお母さんにしてしまったことは、けっしてゆるされることじゃない。だけど、だけど。

 大好きだったお母さん、大好きだったお父さん。ごめんなさい。私は、私は、ほんとうは、あなたたちのことが、本当はだいきらいだったのかもしれない。あなたたちの間に生まれてきてしまって、本当にごめんなさい。



***


 駅のベンチに新聞が置いてあった。そこに見覚えのある人の写真が小さく載っていたような気がした。だけど、電車がやってきたから、私の頭からそんなことはすぐ出て行ってしまった。


「お姉さん、電車が来たよ!」


 ガタンゴトン、ほとんど誰も乗っていない電車だ。車両にはお姉さんと私と二人きり。窓の外ではたくさんのアネモネが咲いている。遠くには海が見えて、街路樹の葉が風に揺れている。暖かな日差しと爽やかな風。色鮮やかなたくさんの風車がくるくる回る。お姉さんの生まれた町へ。ガタンゴトン。


 私は理想の子供になれなかった。理想の家族は壊れてしまった。私もお母さんも、そしてお姉さんも死んじゃって、お父さんは殺人鬼。私もお母さんを殺す手伝いをしてしまった。お母さんは悪い気持ちに飲み込まれて、お化けになっちゃって、私は死んじゃったことも、お母さんを殺す手伝いをしたことも全部忘れてしまっていた。お姉さんは、私と一緒にいると約束をしてくれた。この先、この世界はどこまで続くのかな。死んじゃったあとに終わりは来るのかな。私はこの世界のことを何も知らない。

 私が生まれてから、今は死んじゃってるけど、私を見守り続けてくれた人はいたのかな。お父さんもお母さんもいなくなって、私には誰もいなくなってしまった。いつか思い出話を一緒にする人はいるのかな。それがお姉さんだったらいいな。


 アネモネの名前はお母さんが教えてくれた。アネモネの花言葉は、「アンタみたい」って、お姉さんが言ってた。だから、私の新しい名前はアネモネなのよって、胸を張って威張って言うと、お姉さんが頭を撫でてくれたのが嬉しかった。


 この世に天国はない。地獄もない。ただ私たちはここにいるだけ。みんなに見えなくなったけど、私たちはただここにいて、幸せに暮らしている。私は死んじゃったけど、いつか終わるその日まで、私は幸せに暮らしていく。



 私はアネモネ。

 理想の子供になれなかった子供。


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理想の子供 ぶいさん @buichi

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