第3話

 夕焼け小焼けのメロディが流れて、日が暮れる少し手前、私は近所の汚いドブ川にかかった橋の上から落ちていく夕日を眺めてた。おうちに帰らなくちゃって思ったけど、足がおうちに進まなかった。カラスが寝床に帰っていくのをジッと見つめていたら、お鼻が変な感じがしてお目目がうるうるしてきて目の前が見えなくなった。

 どうして私は大きくならないの、どうして私はクラスメイトみたいにうまくやっていけないの。お父さんやお母さんが言うように、私は出来損ないだからダメなんだ。ただ生きていくのもうまくできない、いつ死んじゃったのかも自分でわかんない、私は悪い子だ。馬鹿は死んでも治らないってクラスのいじめっ子が言ってたけど、私はその通りなんだなって思った。私はお父さんとお母さんの理想の子供になれなかった。泣いてグズグズになった顔のまま、とぼとぼ歩いた。おうちの前まで行くと、お姉さんが私を待っていた。



「お姉さん、私は…っ、死んじゃった、の、かなあ…」



しゃくりあげて、くしゃくしゃの顔のまんまで尋ねたら、お姉さんは困ったように笑って、私の頭を撫でて「たぶんね」って返してくれた。お姉さんの手は暖かくて、私のお目目から涙がたくさん出てきて、私はうえーんうえーんって赤ちゃんみたいに声を上げて泣き出した。


「おかえり」


 泣いても笑っても、私がどんなに好き勝手してても、私は誰からも見えないんだ。そこまで考えて、泣いた顔のままキョトンとして、お姉さんを見上げた。


「みんなから見えないのに、お姉さんはどうしてわかるの?どうして私にさわれるの?」


 今まで全然気にならなかったし、気づいてもいなかったのに、急に気になっちゃって、お姉さんにそう尋ねた。


「よくわかんないけど、アタシは昔から見えるし触れるんだ。それだけだよ」って笑ったので、私も「そっか、よくわかんないや」


そう言ってお姉さんが笑い返してくれた。私は死んじゃったけど、お姉さんが居るならいいやって私たちは手を繋いで、部屋に帰った。その夜は、とても眠くなって、私はお姉さんの隣でぐっすり眠った。



 私は小学校を卒業した。卒業できなかったけど、先生が代わりに受け取ってくれた卒業証書が後からおうちに送られてきたことを、お姉さんから聞かされた。あの日はいろいろあって卒業した実感もなく、卒業証書を眺めようにも落ち着けなかったけど、部屋に飾られた卒業証書を見ていると、ピカピカの宝物のように感じて、お姉さんがくれた落ち葉をラミネートして栞にしたものや、あの冬の雪だるまの写真と一緒に大事なもの箱に一緒にしまった。私はそこにいなかったけど、ちゃんと同じ場所で卒業式をしたんだよ。


 お姉さんはお父さんの新しいカノジョなんだって。ふわふわのおっきなおっぱいに、ちょっとだけ明るい色の長い髪、キラキラしたラメが入った原色のタンクトップとか(「ブラジャーがはみ出してる」って言ったら、「これは見せてるんだよ」って言ってた)、太ももがババーンって出てるミニスカートとか、ビスがついたショートパンツとか、こっちが恥ずかしくなっちゃうような服をよく着ている。だけどどれも褐色の健康そうな肌色によく似合っていた。


 怒ってない時は、どちらかというと物静かだったお母さん。それとは対照的な元気ハツラツお姉さん。お姉さんにも怒ってばかりのお父さんだったけど、お姉さんはお父さんの何が良くてカノジョになったんだろう。大人ってわかんないな。そう言ってお口を尖らせたら、「アンタのお父さん、性格はサイアクなんだけど、お布団の中でのお遊びがうまいんだよなー」って真剣な目をしてお姉さんは言ってた。お布団の中のお遊びってなんだろう。私もしたい。



 私は学校を卒業したけど、暇だったから、たまに学校へ行くことにした。私の席は教室にはもうなかったけど、後ろのロッカーの上に腰掛けて、先生の授業を聞いた。

それからお姉さんとたくさんお出かけした。お姉さんは私を連れて電車に乗って遠くへ行って、お花いっぱいの植物園も見に行ったし、動物園では、でっかいクマさんやかっこいいライオンやトラや首の長ーいキリンさんを見たし、ヤギやウサギさんにえさもやった。正確には、私の代わりにお姉さんが餌をあげて、私はその横でそれを見ていただけなんだけど、とっても楽しかった。それから水族館でキラキラ光るお魚さんや、空を泳ぐみたいなペンギンさんや、アシカとアザラシはどっちがどっちだかわかんないけどそういうのを見て、プールから飛び出してバシャーンってイルカさんのお水をお姉さんと一緒に被った。お姉さんはびしょびしょになって、私は濡れはしなかったんだけど、水飛沫がキラキラ光って、とっても綺麗だったのを覚えている。



 また春が来ても夏が来ても、私は小さい私のままだった。それでもお姉さんは飽きずに、私と一緒に過ごしてくれたので、私はとても楽しかった。



 ある梅雨の日、雨がしとしと降り止まなかった。空はどんより分厚く曇って、蒸し暑かった。いつものように自分の部屋でお姉さんが来るのを待っていたら、下の部屋からお父さんの怒鳴り声が聞こえてきた。それからガシャーンって大きい音が響いて、私はびっくりして、体がカチコチになった。雷が落ちたみたいに大きな音がして、キーンって耳鳴りがしたけど、お空では雷は鳴っていなかった。雷はおうちの中からの音だった。

 恐怖で肌がゾワゾワして、もう体はないのに鳥肌が立つような奇妙な感覚になった。怖くて足が竦んだけど、下へ見に行かなくちゃいけない。すごく怖いけど、嫌なものがきっと、そこにあるけど、どうしても見に行かなくちゃいけない気がした。誰の目にも映らないのに、私は階段を静かに降りて、お父さんの部屋をそーっと覗いた。

 だけど誰も、お父さんもいなかった。怖いものはそこにはなかった。ああよかった。私の聞き違いだった。きっとそうだって思いながら、おうちの中のお部屋を一つ一つ確認しに行った。どこかにお化けがいたらどうしようって、私の体の中の心臓がまだ動いているみたいにドックンドックンって耳の側で大きく鳴っているように感じた。


 お母さんの部屋には誰もいなかった。そういえばお姉さんが、ここには怖いのがいるって言ってたっけ。私には何にも見えない。日当たりのよかった部屋だけど、曇っているから今は埃っぽくて真っ暗だ。今はもう窓も開けてないから蒸し暑くて、防虫剤の匂いがした。

 トイレを覗いたけど誰もいなかった。

キッチンへ行ったけど誰もいない。作りかけなのか、お鍋のフタが開いている。覗きこんでみるとナスとお豆腐と油揚げのお味噌汁だった。これはお父さんが好きな具だ。お父さんはナスが嫌いだけど、お味噌汁のナスだけは食べられるんだって、前にお母さんが言ってた。私はもう食べられないけど、匂いは感じられる。いい匂い。これを作ったのは、もちろんお姉さんだ。お父さんはお料理なんてできないから、いつもお母さんや親戚のおばさんや、今はお姉さんが作ってくれる。私の分も小皿に分けて私の部屋の窓辺に持ってきてくれて、隣に座ってお姉さんが食べるのを隣で見ている。お供えっていうのかな、窓辺に置いたご飯から湯気がのぼると、いい匂いにうっとりした。


 おうちの中を見て回っても誰もいなかったので、私は安心して「お姉さん、どこにいるの~?」って、誰ともなく尋ねて歩いた。まさかお料理の途中でお風呂になんて入らないよね、な~んて、ニヤニヤして扉を開けたら、そこにはお姉さんがいた。


 お風呂場の鏡が割れていて、お姉さんが体をヘンテコな形に折り曲げていた。赤い。お姉さんが赤い。お姉さんのお目目もお口も開いていて、だけどお目目はどこも見ていなくて、お口も言葉を話すことはなかった。薄いベージュ色のタイルの床に、じわじわ赤い水が広がって流れてきて、排水口にたくさんの長い髪の毛と一緒に赤いどろどろとしたものが溜まっている。きれいな髪もお姉さんのふわふわした体も、ぐしゃぐしゃになって、まるでこれは、あの日窓の下に見たみたいで、私は、その場で凍りついたみたいに動けなくなった。

 どうして、こんなことになったんだっけ。ヘンテコな呪いにかかっているみたい。何度も繰り返し怖い夢を見る。いつになったら、私の悪夢は覚めるんだろう。



「アッチャー、アタシも死んじゃったかー」



 背後の洗面所から、そんなお姉さんのあっけらかんとした声がして、えっ?て後ろを振り向いたら、綺麗なままのお姉さんがそこにいた。お風呂場にはぐしゃぐしゃになったお姉さんだったものがあって、私の後ろの洗面所からもお姉さんが来て、私の頭の中には「はてな」がたくさん飛び交った。それからお姉さんが「怖いものはアンタのお父さんだね、だけど、これは見なくていいんだ。おいで」って、私の視界を手のひらで塞いで私の目の前は真っ暗になった。お姉さんに手を引かれて、そうして、私たちは私の部屋に連れ立って戻った。途中、お味噌汁をよそおうとしたけど、お姉さんも死んじゃったからうまくよそえなくて、二人で笑った。


 部屋に戻った私と、お姉さんは「作戦会議しよう」って言って、いつもの窓辺にやってきた。そこで私はお姉さんに何があったか聞こうとしたけど、いつもみたいにおしゃべりがうまく言葉にならなくて、私はべしょべしょと泣いてしまった。私は泣きながらいつかみたいに土下座してお姉さんに謝った。


「お姉さん死んじゃったの、お父さんのせいだ、ごめんなさい」


「アンタのお父さんのことは絶対に許さないけど、アタシが死んだのは、絶対にアンタのせいなんかじゃないから、ごめんなさいなんて言わなくていいんだよ」


 お姉さんは私のことを抱きしめて、そのまま頭をガシガシ撫でた。でも今日はいつもみたいに泣きやめなくて、私はピーピー泣いていた。抱きしめられた体は暖かかった。生きている時よりもずっとずっと暖かく、初めてそうされたみたいに暖かさに包まれて、そんなことを思ったら、ぼろぼろとお目目から涙が溢れてはこぼれてそのまま止まらなくなってしまった。お姉さんは「馬鹿だなあ」って笑った。馬鹿だって言われたけど、馬鹿にされた感じがしなくて私は泣きながら笑ったような気がする。


 そうしているうちに、私は泣き疲れて、そのまま眠ってしまったみたいで、起きたらお姉さんが部屋にいなかった。下の部屋に一人で行くのは怖くて、お姉さんが私の部屋に来てくれるのを待っていると、お姉さんがすんごい険しい顔をしながらお味噌汁を部屋に運んできた。お姉さんによると「生きてた時と違って、コツがいるから、怖い顔になっちゃうんだよ」だって。お味噌汁はお姉さんが気合とノリでおいしく頂いて、私にはちょっとそれは無理だったので、いつもと同じようにおいしそうな匂いをふんふん味わった。


「それでだ」


とお姉さんが切り出し、私はよくわかんなくて「うん…?」って、気持ちの入ってない相槌を打ったら「こら、ちゃんと聞きなさいったら」ってお姉さんのツッコミがポコンとおでこに入った。痛い。私は自分が死んじゃった時のことはよく覚えてないんだけど、お姉さんが言うには、私とお母さんの体は今も行方不明なんだって。


「行方不明にしては、気の早いお葬式だったよ」


と、お姉さんは言った。


「それじゃあ、私の体はどこにあるの?」


「それはアタシにはわかんない。だけどなにか覚えていない?思い出すのは辛いかもしんないけど、最期に見た景色は、どんなのだったか思い出してごらん?」


 私は目を閉じて考えた。私が最期に見た景色は、どんなだったっけ。最期ってなんだっけって、考えたら、どんどん体が冷たくなるのを感じた。怖くなって目を開けた。


「大丈夫。アタシがここにいて、ちゃんとアンタの手を握っててあげる」


 私は頷いてもう一度目を閉じて考えた。私が死んじゃった時はいつだったかわかんない。でも、これで死んじゃうのかなって考えた時は、なんとなく覚えてるんだ。怖くて考えないようにしていたけど、きっとあの怖い夢は本当に起きたことなんだ。正確な日付とかはわかんないんだけど、私は思い出せることがないか、真っ暗な記憶を探った。



 私はあの日、土の中にいた。


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