第2話
頭に土がかけられて私の体は、暖かさを奪われて冷たくなっていくのを感じた。私の少し下にはお化けのミイラがいて、私もお化けになっちゃうのかなって怖かった。頭まで土をかけられる一瞬前、最後に見たお父さんの顔は今まで見たことないくらい歪められていて、大好きだったけど、私の気持ちはお父さんには伝わらなかったんだ。でもこれでお父さんは苦しまなくて済む、きっとこれでよかったんだって。
なのに、目が覚めたら、私はまたおうちにいた。あの日、山の中に埋められたはずで、だけど私はいて、考える頭があった。お父さんが助けてくれたのかな。それとも誰かが…あれは怖い怖い夢だったのかな。馬鹿な私には、なんにもわかんなかった。
おうちには親戚のおばさんやおじさんや、学校の先生やクラスメイトもお友達もいる。みんな揃って黒い服を着ていて、どうしてかな、みんなしくしく泣いている。階下から賑やかで少し寂しげなような声がするのを、じっと自分の部屋から聞いていた。おうちに人がいる時、いないいないごっこをすることになっている。息を潜めて、お客さんに誰もいないよって思わせなきゃいけないの。どうしてって、お父さんがそうしなさいって言ってたよ。そうやって時間が過ぎるのを待つの。いつもなら眠くなってくるのに、今日は全然眠くならなかった。
夜更しするみたいで楽しくなって、先生から(内緒で)貰った童話集を読んでいた。おうちから人がどんどん出ていって、いつもおうちに来る親戚のおばさんとおじさんだけになったから私はそろそろいいのかな…って隠れながら階段を下りてみた。
部屋を覗くと廊下の向こうのお父さんと目が合った気がして、私はびっくりして、怒られちゃう!って身構えたけど、お父さんは怒らなかった。目が合ってた気がしたのに、怒られないどころかお父さんは、泣いていた。お母さんの大きな写真が飾られていて、お父さんはその前でお座りして、親戚のおばさんたちがお父さんの周りを取り囲んでいた。慰められているみたいだった。お父さんが泣くなんて。私はびっくりして、目をパチパチさせた。どうしたんだろう。一体何があったんだろう。お母さんはよく泣いたけど、お父さんはいつも怒ってばっかりで、とにかくお父さんが泣くのを見るのは初めてだったから私はとっても驚いた。お父さんのお目目から涙がこぼれ落ちるのが不思議で、近寄って見ていたかったけど、怒られたくなかったから、廊下を挟んだところからそれだけ見て、二階に戻った。
おうちから人がいなくなってから、私は下の部屋に降りて、お母さんの写真のところへやってきた。お母さんの写真は、お母さんが綺麗だった頃のもので、色が白くて鼻が高くて睫毛が長くて、整った美人さんの写真だ。私が物心つく頃にはお母さんはお化けになっちゃって、美人だったお母さんのことは写真で見たり聞かされたことしか実は知らなくて、「知ったふうに話すのはやめて」ってお母さんからよく怒られた。美人だったお母さんを見てみたかったなあ。優しくて綺麗でいい人だったと親戚のおばさんが言うので、そんな時私は、「今と全然違うんだね」って言ったら、おばさんたちがぎょっとして「そんなことお父さんの前でもお母さんの前でも口にしちゃいけないよ」って、すごくヘンテコな顔をしていたので、私はまたいけないことをしちゃったんだって、怖かった。
お父さんとのいないいないごっこは今日も続いてた。いつもだったらそんなに長くなくて終わって、それからまた始まるんだけど、今度は途切れずにずっと続くみたいだった。その代わりに、お父さんの部屋に勝手に入っても何にも言わなくなった。怒られなくなったし、お父さんは怖い顔をしなくなった。お母さんの部屋からお化けはいなくなって、おうちは静かになった。もう廊下はギシギシ軋まない。誰もなんにも怒らない。
学校へ行ってもいないいないごっこが続いていた。もともとそんなにお友達は多くなかったけど、変だなあ。先生が出席を取る時に、私の名前を呼ばないんだよ。私はぷくぷくほっぺたを膨らませてたけど、休み時間に先生が私の机のとこに来て、私に「ごめんね」って言ったから、そういうごっこなんだねって私は許してあげた。私は首をブンブン振って「いいんだよ先生、謝らないで」って言ったけど、先生は「ごめんね」を繰り返していた。先生、私は馬鹿だから先生が何を言いたいか、わかんないよ。私の机の上にはお花が飾ってあった。名前はわからないけど、それはとても可愛いお花だったので、私は嬉しくなってニコニコした。私、お花大好き。誰が飾ってくれたんだろう。
それから何度も季節が巡って、机の上にお花は飾られなくなった。クラスメイトは背が伸びてお顔がオトナっぽくなっていくのに、私の体は全然背が伸びないしオトナっぽくもならなかった。みんなのランドセルは擦り切れて、机と椅子も高くなっていくのに、私のランドセルはピカピカで綺麗なままで、机と椅子も低いままだった。どうしてだろう。いつのまにか私の机は教室の隅に寄せられていた。私の机、どうして一番後ろにやっちゃったの。
ある日、おうちに帰ると知らない女の人がお母さんの部屋に居た。お母さんよりもお化粧が厚い髪の長いお姉さんだった。肩を出して、おっぱいが大きくて、なんていうかアイドルの人みたいにおっぱいとおしりがふわっと大きくて、でも太ってるのと違ってて、日に焼けた肌色の細くて綺麗なお姉さんだった。肌を隠す静かなお母さんとは対照的で、露出が多い声のでっかいお姉さんだった。お姉さんは何日かおうちの中にいたけど、ある日は私の部屋に来たので、窓辺から外を見ていた私が振り向いたら、お姉さんは私と目を合わせて「えっ子供いるじゃん」って、びっくりしていた。お姉さんは私と例のごっこはしないらしくて、私もすごくびっくりした。
お姉さんは下のお母さんがいた部屋に住むことになった。なんでか下の部屋は嫌がって、私の部屋に住むことになった。向こうの方が日当たりはいいし、大きくて立派な鏡台があるからそっちの方がいいと思うんだけど、お姉さんは「あそこには怖いのがいるから嫌なんだよ、その点アンタはただのガキみたいだし」って。怖いのってなんだろうって首を傾げたら「わかんないならそれでいいよ」ってさ。私はいないいないごっこに飽きていたから、お話してくれるお姉さんが好きになった。当たり前のようにずかずかおうちに入ってきて、おうちに住むと聞いた時はちょっとだけムッとしたけど、私たちはすぐに仲良くなった。
学校へ行くのにランドセルを背負うと、お姉さんは「アンタ学校行ってるの?えらいわねー」と頭を撫でてくれた。「そうだよ、えらいでしょ!」えっへんと威張ってみせると、お姉さんはひらひら手を振って窓辺から見送ってくれたので、私は嬉しくなって走って学校へ行った。前はかけっこが苦手だった。だけどあの山の夢を見てから、私は走るのが苦手じゃなくなった。お姉さんがおうちにいるから学校が終わって帰るのも、苦手だったおしゃべりも楽しくて、お友達ができたみたいで嬉しかった。
ある日、帰るとお姉さんがいなかった。お父さんにお姉さんいないよって言おうと思って、お父さんの部屋に行ったら、お布団から肌色の塊がウゴウゴ動いて足が四本生えたお化けがはみ出してて、私はびっくりして急いで部屋に戻った。その日から少しの間、お姉さんは私の部屋にあんまり来なくなった。私はあの蠢く足の多いお化けが怖くなって、下の部屋には行かなくなったので、私とお姉さんは顔を合わせない日が続いた。
その日学校から帰るとお姉さんがいた。「あのね、この前お父さんの部屋で足がいっぱいのお化けがいたんだよ」って話したら、お姉さんはきょとんとして、それから合点がいったように笑って、「アンタもいつかあのお化けがなんなのかわかるよ」って、それから間を置いて「そうかあ、アンタはガキンチョだもんね、大人になったらわかるかもね」ってなんだかちょっと遠くを見て寂しそうに笑った。夕焼けが綺麗だった。お姉さんと私は窓辺から身を乗り出すようにして、夕焼けを一緒に眺めた。私もお姉さんも夕焼けのオレンジ色に染まって、とても赤くて綺麗だった。
お姉さんがまた私の部屋に来るようになった。夏が過ぎて秋になっても、私は眠れなくて夜は起きて窓から空を見ていた。なんだか前はすぐ眠くなっちゃってたんだけど、今は全然眠くない。いくら走っても疲れなくなったし、お腹も空かなくなった。これが成長するってことなのかな。そうなら大人ってすごいや。
お姉さんは悪い大人なので、夜にキッチンから持ってきたお菓子を食べるしジュースも飲む。私にも「アンタも食べな」ってお菓子をくれるので、悪いことは内緒にしてあげる。あんまりお腹が空かなくて、もらったお菓子はあとで食べようって、机の奥に隠すんだけどいつのまにかどっかにいっちゃう。どうしてかな。
その年の秋が早足で駆けていく中、一緒に公園へ行って、私はお姉さんとドングリを拾った。上手く掴めなかったけど、お姉さんが代わりに拾ってくれたので楽しかった。「次はアレをとって」とか「コレが欲しい」って私が言うと、お姉さんはめんどくさそうに「はいはい」って笑って、ビニール袋にどっさり入れて持ち帰った。そのピカピカ光るドングリや、黄緑色や黄色や赤色や茶色の、色とりどりの落ち葉や小枝で私たちは部屋を飾り付けた。お姫様の部屋みたいねって笑った。
雪が降った日、お姉さんが小さな雪だるまを作ってお皿にのせて、私の部屋に持ってきてくれた。私は今まで雪が降るとひとりぼっちで庭で遊んでいたんだけど、今はお姉さんが一緒に遊んでくれる。お父さんがお仕事に行っている間、お姉さんが一緒に遊んでくれる。お母さんには悪いけど、お母さんよりずっとずっと優しい。お母さ
んはどこに行っちゃったんだろうな。このまま幸せな毎日が続くといいのに。
立春が過ぎて、種が芽吹く季節が来た。暖かな日差しとまだちょっと涼しい風が春を連れて来て、私も小学校を卒業する日が近づいてきた。「来年には中学生になるんだ。私もお姉さんね」って、威張って胸を張って笑うと、お姉さんは「そうだね」って返してくれた。
そうやって卒業式を迎えた日に、私はようやく、いつまでも終わらないいないいないごっこの真相を知るに至る。
桜の蕾が綻んでいた。花が咲くにはまだ早くて、春というには少し肌寒かった。花壇にはアネモネが咲いていた。アネモネの花言葉はなんだっけ。前にお母さんから聞いた気がしたけど、思い出せなかった。体育館の大きな扉が開放されて、たくさんのお友達と在校生と保護者やどこかのえらーいおじさんが、綺麗な服に身を包んで座っていて、おごそかな雰囲気だった。この前習った威風堂々が館内に流れていて、板張りの床はピカピカに磨かれていた。
私はクラスメイトたちの列に加わって一緒に並んで、校歌を歌って、それから卒業証書の順番を待った。クラスメイトの名前が呼ばれて、ひとりひとり前に出て壇上に上がって仰々しくお辞儀をする。ドキドキして待っていた。私の名前が呼ばれると「はい」と大きくお返事した。それから保護者席と来賓席と先生の席に向かってお辞儀をする。だけど、その前を先生が通り過ぎた。「アレ?」先生が、私の代わりに私の卒業証書を受け取って、お辞儀した。先生は涙ぐんでいた。私はびっくりして「どうして!」って叫んだけど、誰も答えてくれなくって、その場で泣き出しても誰も慰めてくれなかった。先生がステージから降りてきて、私の席に、それを置いた。背後でクラスメイトたちが声を揃えてこう言った。
「一緒に卒業したかったお友達の○○ちゃんの分まで、ぼくたち・わたしたちは一生懸命大きくなります」
「○○ちゃんは優しいいい子でした、難しいおうちの子だったけど、環境に負けない明るくていい子でした」
「○○ちゃん、生まれ変わっても、またお友達になってね」
「何を言っているの、私はここに生きてるよ!こんな時まで、いないいないごっこはやめて!私も一緒に卒業するんだよ!」
クラスメイトの前に駆け出して、大きな声で私は言ったけど、誰も私を見なかった。先生の席に行って、先生に「こっちを見て!先生!どうして!こんなことするの!」って、先生の手を掴もうとしたけどその手はすり抜けて掴めなくて、私はなにがなんだかわからなくなっちゃって、体育館からクラスメイトがいなくなり、保護者がいなくなり、先生たちが、ステージに敷き詰められたお花の鉢や、たくさんのパイプ椅子が片付けられても、私はそこから動けなかった。誰かがきっと声をかけてくれる。「大丈夫?」って声をかけてくれるって思った。だけど、体育館の電気が消されて真っ暗になっても、私は誰からも声をかけられなかった。
どうやら、私は誰にも見えないらしい。私は、死んじゃったらしい。気付くまで何年もかかっちゃったた。ああ、だから、先生もお友達も、終わらないいないいないごっこをしているんだ。お父さんが私を怒らないのは、私はそこにいないからなんだ。静かな体育館でひとりきりになったら、そのことが、胸にストンと落ちてきて、パズルがはまったみたいにしっくりきたら、みんなが羨ましくなったけど、心は冷え切っているのに、なんだか駆け出したくなった。
私はいつのまにか走っていた。走りながら考えた。私はいつ、どうして死んじゃったんだ。なんでか私の記憶はそこがすっぽり抜けていて、自分ではどうしても思い出せなかった。
お姉さんのいるおうちに早く帰ろうと思った。
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