理想の子供

ぶいさん

第1話

 私が生まれたのは春だった。まだ少し肌寒い、桃の節句の頃だった。私はお母さんとお父さんが思い描いた風景の、理想的な子供にはなれなかった。理想とはあまりにかけ離れた姿で生まれた醜い子供なんだって。おうちの外のことは知らない。だって、「おうちで一番偉いお父さんの言うことは一番で、正しいんだ」って、お母さんが言っていたもん。お父さんは「外から聞いた話なんて信じるんじゃない」って言ってたし、私もその通りだと思った。私はどうして、完璧なお父さんの子供なのに、完璧な人間として生まれてこれなかったんだろう。


 私の肌はそばかすだらけで、色が黒くて、手足が短いって、お母さんが言ってた。しかも生まれつき目が悪くて、小さい頃から体に似合わない分厚いメガネをかけていた。「お前は話し出すのが遅かった」「足も遅くて、運動会や対抗リレーでは他の園児の足を引っ張ることしかしなくて、お遊戯会でもうまく喋れなくて役にも付けないから先生の隣で席について、他の子の演技を見ているしかできなかったんだ」ってお父さんが言ってた。

 なにか話そうとしてもどうしてもつっかえて言葉が出てこない。「きつおん」だって、病院の先生がお母さんに言ったら、お母さんはその場で泣き出してしまって、どうして泣いているのお母さんって聞きたくてもその言葉は口からちっとも出てこなかった。



 お父さんは、お母さんに「お前ができそこないの人間だからこんな子供が産まれたんだ。俺の子供がこんな醜い子供であるはずがない」って、意味は私にはよくわかんなかったけど、きっと、よくない言葉だ。そうやって、お父さんはお母さんを、毎日殴りつけて、お母さんは私と同じ醜い顔になった。綺麗だった白い肌は薄黒くなって、ボコボコに歪んだ。綺麗だった(と後から聞いただけで、私はよく知らない)顔は見る影もなく、顔を隠すように前髪を伸ばして、顔を隠すようになったんだって。

 お母さんも始めは抵抗して、お父さんからされるがままにはならなかったんだけど、毎日毎日そうやって殴りつけられているうちに疲れたのか面倒になったのか、いつしか「ごめんなさい許してください」と泣いて土下座するようになった。頭を床にこすりつけて、おでこが擦り剥けて血が出ると「床が汚れる気分が悪い」と言って、お父さんはお母さんのお腹をガシガシ蹴った。そうして過ごすうちに、お母さんはなんだかぐったりしだして、季節が何度か巡って私がようやくつっかえずに言葉を話し出す頃には、お母さんは言葉を話さなくなった。


 お母さんを呼んで揺り動かしても、お母さんはどんどん動けなくなって、歩くのも食べるのも着替えるのもトイレに行くのもお風呂に入るのも、一人では出来なくなった。昼間はおうちに誰か知らない人達がお母さんを迎えに来て、車に乗せてどこかへ連れて行くようになった。私はそれをよくわからないままぼうっと窓から眺めていたけど、お父さんが「外に醜い顔を見せるな恥ずかしい」って怒るから、私は自分の部屋に行って、私はいないいないごっこをする。誰かの悪口を言う以外、私になんにも興味がないらしいお父さんと私の生活、それは昨日から今日と続く、何ら変わらない日常だった。


 学校へ行って帰ってくると、夜にはお母さんは帰ってきた。朝学校に行く前に、お母さんの着替えを手伝って、顔を拭いて、身支度させた。お母さんがどこへ出かけていくのかはわからなかったけど、怪我せず帰ってきていたから、少なくともおうちよりは平和みたいだ。なんだかずるい。

 お母さんはどこかへ出かけて、夜にはまた車で送られて帰ってくる。おうちでは眠るだけのお母さん。朝起きて、お母さんが出かけるまでの間、お父さんはお母さんにたくさんひどいことをする。お母さんが言葉をつっかえつっかえ話すと、お父さんは「気持ち悪い言葉を話すな、しゃきっとしろ」と言ってお母さんのほっぺたをバチンバチンと殴るの。お母さんはその度に「ごめんなさいごめんなさい」と返して、グズグズ泣くものだから、お父さんはカンカンに怒ってお母さんをどこかへ引きずっていった。私は扉の隙間からお母さんが階段まで引きずられて行くのを眺めていた。そこからお父さんだけが帰ってきて、私が「お母さんはどうしたの」と聞くと、私のほっぺたをバチンと叩いたので、痛くて私は泣いたけど、お父さんは「耳障りだ泣きやめ」と言って、またほっぺたをバチンバチンと何回も叩くので、私はお父さんの足元で土下座して「許してください」と縋って謝ったけど、「汚らしい、その手をどけろ」と言って、お腹を蹴られた。とても痛かった。口の中がしょっぱくて赤くて、取れかけていた乳歯が床に転がって行くのを見つめた。苦しかった。その日、お母さんは戻ってこなかった。



 お母さんは入院することになったけど、季節が変わる頃に、お母さんはおうちに帰ってきた。お母さんは病院にいる間に、また歩けるようになったみたいで、一人でおうちの中を歩き回るようになった。だけど、夜になるとお化けみたいにおうちの中を歩き回って、廊下がギシギシ鳴るのが私は怖かった。ある日、お母さんは自分で開けた窓に足をつっかえて、頭から窓の外へ落ちていった。鈍い嫌な音がしたので、窓から顔を出して下を覗いてみたら、はいた。ぐしゃぐしゃに折れ曲がった指や関節が気持ち悪くて、お母さんはまだ動いていたけど、その姿が、心底気味が悪く感じた。肌が粟立って、恐ろしさが体を這い上がってくるみたいで、気持ち悪くなって、吐きそうで、私はその場を離れていないいないごっこをした。

 これは夢だ。夢だ。これは現実じゃない。お母さんは元気で私に笑いかけてくれるし、お父さんは優しくて、そうだ、こんなこと現実じゃない。私の家族は理想の家族なんだ。こんなのは眠って起きたらきっとなかったことになるんだ。



 次の朝が来て、目が覚めたら、あの窓は閉まっていて、地面に落ちたお母さんはいなかった。ぐしゃぐしゃになったお母さんはどこにもいなかった。お父さんはニコニコしていて、「お母さんはひとりでに出歩いてどこかへ行ってしまったんだ」と言った。そうか、ぐしゃぐしゃになったお化けはいないんだ。よかった。毎日おうちに来ていた人たちはもう来なくなって、親戚のおばさんたちがおうちに来て「かわいそうに」と頭を撫でてくる。お母さんがいない代わりにおばさんたちは私にご飯を作ってくれた。おいしかった。でも、どうして、そんな憐れむような目で見るの。おうちからお化けがいなくなっただけなのに。



 それはある夏の週末だ。お父さんがお出かけすると言った。私は助手席に乗せられて、手をガムテープでぐるぐるに巻かれた。お父さんは「人質ごっこだよ、お父さんは犯人だよ」と言ってニコニコ笑ったので、私は笑っているお父さんを見て嬉しくなってニコニコした。お父さんは私と遊んでくれたことは、片手で数えるより少なくて、お父さんのこと大好きだったから遊んでくれて嬉しいなあって。お父さんは私にあんまり興味がないけど、それは「ほーにん」って言うんだって、学校の先生や親戚のおばさんが教えてくれた。大人は難しい言葉を使う。「お父さんは私を信頼しているからあんまり構わないんだよ」って、おばさんたちが教えてくれて、私は「そっかあ」ってわかんないくせに嬉しくなったのを覚えている。


 走るうちに、工事中でアスファルトがバキバキに割れている道路に入った時、ガタゴト大きく揺れて、後部座席に乗せられた毛布に包まれた荷物が跳ねたのを見た。なにか大きなものが積まれているらしかった。ブレーキで揺られた荷物の毛布がめくれて、ごろんと床に飛び出したのは、私があの日窓の下に見たお化けだった。お化けは蠢いて生きているようで、だけど肌は土気色で蛆がわいていて、黒かったり黄色かったりヨダレと鼻水だらけの汚らしい顔で息をしていた。荷物がバラけたことでお父さんは途中で車を止めて、後部座席の荷物を縛り直していたようだった。鼻を突くように変な臭いが車内に漂ってきて、でも臭いなんて言ったら、お父さんはきっと怒るから口にはしなかった。私は急に怖くなって、もう後ろは振り向かなかった。お化けはひゅうひゅうと息をしているだけで何も喋らなかった。私は背筋が凍りついて、お化けにいつ襲われてしまうんだろうと恐怖でおちつかなかった。お父さんはニコニコしていた。お化けはしばらく唸っていたけど、そのうちに静かになったので私は少しだけ安心した。

 お父さんとお化けと私と車に乗ってドライブだ。家から高速を乗り継いで、三時間くらい車を走らせた。途中どこかのパーキングエリアでジュースとお菓子を買ってくれた。私はお父さんに買ってもらったお菓子を食べた。次第に道が悪くなって、よく揺れた。パーキングエリアを出て、そこから二時間くらい、私はもう眠くなってうつらうつらしていた。


 車を走らせてやってきたのは、田んぼのそばの細い畦道を過ぎて、そこから山道に入って、道が道でなくなって、草むらを走り、車体に泥がはねるのをサイドミラーで眺めていた。ようやく止まった頃には夕方で、そこは山を登る途中みたいにちょっと傾斜がある、鬱蒼とした森だった。

 そこでお父さんは止まった車の中で、ハンドルを握りながら「なにもかもお前たちが悪い、俺にこうさせたお前たちが悪いんだ」と怖い顔をして、ぶつぶつ言って、突然、車を飛び出してどこかへ行ってしまった。後部座席の後ろのトランクが開いて、がさがさ音がした。サイドミラーで見たお父さんは青い取っ手の剣先スコップとペットボトルに入ったミネラルウォーターだけを持って、それから一時間くらい帰ってこなかった。私は開け放たれたドアから、森に住むなにか大きなお化けとかが、ぐるぐる巻きになった私を襲うんじゃないかって怖かった。後部座席のお化けが嫌な臭いを出していて、お父さん早く帰ってきて、と私は手を合わせて祈った。


 お父さんは山の中に穴を掘っていたみたいで、顔と手を汗と土まみれにして、体に葉っぱをつけて車に戻ると、私のシートベルトを外した。「お父さんと一緒においで」と言ってくれたので、「うん」とお返事をして車の外に出た。お父さんは後部座席のお化けを毛布に包み直してガムテープで剥がれないようにした。それから青いビニールシートでお化けをさらに包んでまたガムテープで封をした。ガムテープを二本使ってお化けをぐるぐる巻きにして、青いミイラが出来上がった。

 お父さんは口を結んだままあんまり話さなくて、私の方にもチャックをするみたいにジェスチャーをした。私はこくこく頷いた。両手を前で縛られていたから、ゴツゴツした山道は歩きにくかった。だけど、お父さんは青いミイラを肩に担いでずんずん前に進んでいくから、私は置いていかれないように頑張って走った。


 少しだけ木々が開けた場所に穴があった。お父さんが「大きな穴だろう、お父さんが掘ったんだよ」と言ったので、「そうだね、すごいねお父さん」というと、お父さんはニコニコしたので、私もニコニコした。お父さんは抱えていたお化けをのミイラをどさっと地面に落として、「お化けが出てこないように穴に落としてしまおうね」と言った。だから私はお化けのミイラをお父さんと一緒にゴロゴロ一生懸命転がして、穴の中に落とした。


「お父さん楽しいね、一緒に遊ぶと楽しいね」


「たまには遠足もいいだろう」


 そうだね。とても楽しい遠足だ。お父さんが私とおしゃべりをしてくれた。一緒に遊んでくれた。私はおでこに汗をかいていた。手足は土だらけだ。だけどお父さんも土だらけで、いつもならお父さんは私が汚れると怒るので、ハッとしてお父さんを見たけど、今日はニコニコして怒らなかったのでよかった。はもう動かなくて、しっかり穴に落ちたので「穴を埋めよう」とお父さんがスコップで掻き出した土を穴に戻す作業をした。


 森が風でざあざあ鳴った。お父さんの何倍も大きな木がざわざわたくさん風に吹かれて蠢くのが、まるで大きな木の巨人が木々の隙間から、私たちを覗き込んでいるみたいに感じて、急に怖くなって、お父さんの服の端っこをきゅっと握ったら、お父さんは私の腕を振り払ったので、私は埋める途中の穴に背中からどさりと落ちた。お父さんはもう笑っていなかった。穴に落ちた私を蔑んだ目で見下ろして、お父さんは「全部お前たちのせいだ、俺にこうさせたお前たちが悪いんだ」とくり返しぶつぶつ呟いて、私の上に土をかけた。顔に土がかかって苦くて口に入って咳き込んで、もがいて、自分の背丈より深い穴の中で、お父さんに助けを求めたけど、お父さんは穴を埋め続けた。私の足が埋まり腰まで土が来た。


 季節は夏で、生暖かくて、だけど土は冷たくて、カビと草の匂いがして、重くて体が全然動かなくなって、怖くて涙が出てきて、でもお父さんはやめてくれなくて、もうおしゃべりはしてくれなかった。お父さんになにか言わなくちゃ、完璧な子供じゃなかったけど幸せでしたって言わなくちゃ。ありがとうを言わなくちゃ。


「お菓子とジュース買ってくれてありがとう」

「お父さんが欲しい子供になれなくてごめんなさい」

「お父さん大好き」


もっと言いたいことはあったけど、頭まで土に埋められてしまった私にはもうお父さんに喋りかける声が土で遮られて届かないみたいで、息が苦しくて、目の前が真っ暗で、それで、

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