第49話 二人の少女

 小屋に入る前に、マオへと一瞬、視線を移す。ナチの本心を聞いて、再び何かを考え出してしまった様だが、イズがマオを小屋へと促し、マオは小屋に向かって歩き出した。


 それを見て、ナチは小屋へと足を踏み入れた。


 だが、そこで足を止める。踏み出した左足で床板を踏み付けた瞬間、ナチは動きを止め、視線を下側に移す。


 首に突きつけられた銀色。丁度、頸動脈がある場所に突きつけられたそれは、すぐに、剣だと分かった。片刃の剣。それは剣というよりは刀と呼ばれる刃物に近い。


「お兄さん!」


「大丈夫。危ないから二人は動かないようにね」


 刀身に浮かんだ波紋に気を取られながらも、ナチは視線を左側へと滑らせる。


 左側。それは、小屋の奥側。小さな小屋だ。一目で全体が見渡せる。ナチは刀身から柄へと視線を滑らせ、その持ち主を視界に入れる。


 ナチに剣を向けているのは少女だ。


 後頭部で縛った長い青い髪に、髪よりも暗い青色の瞳。少しツリ目気味の二重瞼の大きな瞳に込められているのは、微弱な殺気。少女の瞳に込められたそれが、ひしひしと伝わって来る。


 鼻筋が通った小さな鼻に、薄く赤い唇。白いシャツの上に茶色のベストを羽織、所々破れたズボンを穿いた、凛々しさと儚さの中間に位置している様な美しい少女は、毅然とした態度でナチを見た。


「何者だ?」


 見た目通りの凛々しい声。イズに比べると少し幼さが感じられ、あまり声に鋭さは感じられなかった。見た所、目の前の少女はマオと変わらない年齢に見える。


 それくらい若い見た目をしていた。


 だからかもしれない。彼女はどこか、人に剣を向ける事に慣れていない。ふと、そう思った。ナチがそう思った理由は簡単だ。


 首元に突きつけられた剣が、小刻みに震えていたから。遠目からでは分からない様な、小さな振動。カタカタと音こそしないが、それでも剣を手に持つ両手は震えていた。


 この少女は多分だが、剣の心得がある。剣の持ち方、構え、立ち方、的確に急所を狙っている事といい、素人とは到底思えない。だが、それだけだ。


 この少女は、真剣を人に振るった事がおそらく無い。人を殺した事が無い。人を殺せる者は、殺すべき相手に躊躇したりしない。手を震わせたりしない。


 殺すべき相手の前で、恐怖を前面に押し出したりはしない。


「どうしたの? 僕を殺さないの?」


 少女の顔が強張った。元々、大きな瞳が見開かれ、眼球が飛び出るのではないか、と思う程に大きくなる。唇を引き絞り、僅かに鼻息を荒くする。


 ナチは感情を押し殺す。感情を灯さない無機質な瞳を少女に向ける。


 すると、少女が息を呑んだのが分かった。喉が鳴り、少女は僅かに後退。ナチに向けた刃が離れていく。だが、それは無意識の行動だったのだろう。


 すぐに、後退している事に気付いた少女は剣をナチへと突き付けようとする。が、刃が離れた一瞬の内に、ナチの体は小屋の外へと後退した。


 小屋を飛び出た瞬間、全身に降り注ぐ雨。冷たい雫が次々にナチの全身を濡らす。火照った思考を、冷たく静かな回路に移していく。


 青い髪の少女が小屋から一歩外へと出た。剣を構え直し、その切っ先をナチへと向ける。見るからに呼吸が荒い。緊張しているのか、一つ一つの挙動も硬い。


 ナチは拳を構える事も無く、符を用意する事も無く、雨天に晒されながら、少女を見た。雷鳴が轟き、少女が持つ銀光の刃が煌めく。


「一応、言っておくけど、僕は君達の敵じゃないよ」


 少女の瞳に宿した闘気が揺れ動く。迷っているのだ、とすぐに分かる瞳の動き。


「あなた達は、どこから来た?」


 少女の声に警戒が浮かび上がる。その問いに何の意味があるのかは分からないが、ナチは真っ直ぐに少女を見た。


「ブラスブルック」


 ナチは簡潔に答えた。余計な言葉を付け加える必要を感じなかったから。


「あの大きな木がある街……」


「そうだ。我等はその街から来た」


 少女がイズを見て、ぽかんと口を開けた。「喋った……」と間抜けな声を漏らしている。その少女の反応にナチとマオは警戒を少しだけ緩める。


「フルムヴェルグの部下じゃないのか?」


「誰それ?」


 マオが首を傾げる。ナチも態度には出さないが、内心首を傾げていた。フルムヴェルグという人物に心当たりは、残念ながら無い。「そんな奴は、知らぬ」と堂々宣言したイズの発言で、少女は剣を下ろした。


「あなた方は、本当にフルムヴェルグと関係ないんだな?」


「僕達は、そんな奴を知らない」


「……そうか」


 腰に携えた鞘に剣を納めながら、目の前の少女は、深く頭を下げた。


「すまなかった。知らなかったとはいえ、失礼な事を」


 頭を下げた少女。だが、ナチ達は頭を下げる少女には目を向けなかった。少女よりも奥。小屋の中。ナチとマオ、そしてイズは、揃って視線をそこへ集中させた。


 小屋の中から、ナチ達を覗き見る金色の髪の少女を。


 金髪の少女の青い瞳と視線が重なる。すると、少女は怯えた様に体を震わせ、白色のワンピースの裾を強く握っていた。


 視線を下げ、眉を下げ、今にも泣き出してしまいそうな表情で、青い髪の少女を見つめていた。その光景が、騎士に救いを求める童話のお姫様の様に見えて、ナチ達は警戒を完全に解いた。


 それは、ほとんど無意識だった。警戒を解いた瞬間が自分でも分からなくなった程に、自然に警戒を解いた。


 この少女にはどこか警戒を抱かせない何かがある。金髪の少女を見ていると、庇護欲を刺激される。守ってあげなくては、と思ってしまう。


「メリナ! 隠れていろ!」


 ナチ達が沈黙している事を不思議に思った青髪の少女は頭を上げ、叫んだ。メリナと呼ばれた少女は首を横に振る。泣きそうな顔で必死に、顔を横に振っている。


 青髪の少女は、ナチ達とメリナ。視線を交互に移しては困った様な表情を浮かべている。


「小屋に入らない? 雨も強くなってきたし」


「……そうだな。あなた達は悪い人じゃなさそうだし」


 ナチ達は金髪の少女が待っている、小屋へと歩き出した。強くなるばかりの雨から逃れる為に、ナチ達は小屋へと入った。


 ナチとマオは背負っていたリュックを床板の上に置き、メリナと青髪の少女に向き直る。


「僕はナチ。君達は?」


「私はイサナだ」


「私はメリナです」


 少し垂れている大きな琥珀色の瞳が、ナチ達を順番に見る。鼻筋が通り、小さな桜色の小さな唇。顔も小さい。上背はイサナと変わらないが、近くで見ると、イサナよりも遥かに幼く見えた。


 それから、マオとイズも自己紹介を済ませると、ナチ達は床へと腰を下ろした。もう使われていない小屋なのか、中には何もなく、落ち葉や木の枝などが散乱していた。


 ナチは葉を拾っては、コートのポケットに突っ込み、ポケットの中で符に変えていく。


「ナチ達は旅人なのか?」


「うん。人を探してるんだ」


「人を?」


 ナチは首を縦に振ると、サリスの特徴をイサナに事細かに説明した。イサナとメリナは説明を聞いている間、ずっと首を傾げていたので、すぐに察しが付いた。


「すまない、知らないな」


「ごめんなさい、私も知らないです」


「気にするな。人探しなど、所詮そんなものだ」


 見つからなくて当たり前。聞き込みした人間が知らなくて当たり前。そんな前提で臨まなければ、人探しなど出来ない。


 これから何十回、何百回と聞き込みをするのに、見つからない度に苛立っていれば、心が先に折れてしまう。壊れてしまう。だから、見つからなくて当たり前という前提が必要なのだ。


 自分の心を守る為には、必要な前提なのだ。


「私達はサリスさんという方を知らないですが、もしかしたらトリアスに知ってる人がいるかも」


 イサナがメリナの肩を掴む。


「メリナ」


「大丈夫よ、イサナ。この人達は大丈夫」


「だけど……」


 表情に険が浮かぶイサナ。眉間に皺が寄るイサナを見て、ナチ達は首を傾げた。


「どうしたの?」


「いや、何でもない。トリアスは小屋を出て、林道を真っ直ぐに下っていけば迷わずにたどり着ける。だが」


「だが、なんだ?」


「トリアスで私達の名前を出さないでほしいんです。私達とここで出会った事も出来れば言わないでほしい」


「それは別に構わないけど……」


 深刻そうな表情をしているイサナと、憂いを帯びた表情を浮かべるメリナ。そんな表情で言われれば、気になるのは必然。気にするな、と言う方が難しい。


 だが、イサナとメリナを懐疑的に見つめながらも、ナチは言葉にしていいのか迷った。この二人が望んでいるのは、ナチ達がトリアスで二人の名前を口外しない事。小屋で会った事を言わない事。


 二人が望んでいるのはそれだけ。それ以上は望んでいない。


 ならば、ここは干渉するべきではない。二人もナチ達の事を完全に信用している訳ではないだろうし、それはナチ達も同じ。


 そんな信頼性の薄い関係で、ナチ達に情報を開示してくれるとも思えない。


「二人も旅をしておるのか?」


「そういう訳ではないんだが……」


 イザナとメリナがイズを見て、瞬きを何度も繰り返す。それから、二人は半歩程、イズに近付いた。徐々に近づいていく。


 そして、手が届くほどの距離まで近付くと、二人の眉が上がり、それに伴って目も大きく見開く。


「触ってみる?」


 イズを持ち上げたマオが、二人にイズを差し出した。売った様にも見え、「おい、マオ」とイズから抗議の声が上がるが、二人の手は恐る恐るイズに伸びる。


 ぎこちなく全身を触られるイズ。頭を撫でられ、耳を指で弾かれ、小さな手を優しく握られる。意外と満更でもない様子のイズにナチとマオは、イズに見えない様に苦笑する。


 最初こそ剣を向けられ異様な空気だったが、冷静になってイズに触れる少女達を見てみれば、あまり悪い子達ではないのかな、と思えてしまう。


 今の二人が浮かべているのは、年相応の少女の笑み。慈しみや嬉しさなどが感じられる微笑ましい光景に、ナチも思わず笑顔を浮かべてしまう程の平和が、目の前に存在する。


 だからこそ、不思議に思ってしまう。どう見てもマオと同年代の少女が、出会ったばかりの相手に不慣れな真剣を向けてしまう程に、切迫した状況。追い込まれている状況と言うのは何だろうか。


 こんな場所に二人で居る事といい、トリアスという村を警戒する理由も、何もかもが不思議に思えてしまう。


 一体どんな理由が存在すれば、二人の少女をここまで追い詰める事になるのか。


 マオも会話に加わり、女性四人は仲睦まじく、談笑を開始する。その会話に入ろうとは思えなかった。その眩しく尊い光景に、ナチが入ろうとは思えなかった。


「二人は姉妹なのか?」


「いや、違う。親友だ」


「大事な親友です」


 メリナがイサナの手を取りながら、そう言った。言いながら笑顔を浮かべた。見ているこちらが眩しく思えてしまう程の満面の笑みを。


「何か良いなあ、そういう関係」


 マオが羨ましそうに二人を見る。


「マオさんにはナチさんがいるじゃないですか」


「二人も兄弟ではないんだろ?」


「兄弟ではないけど、お兄さんはそういうのじゃないから」


 何故か、後半にかけて口ごもるマオ。肩を縮ませる彼女を見て、イサナとメリナは顔を見合わせ、何故か朗らかに微笑んだ。


 今のやり取りのどこに微笑ましくなる要因があったというのか。


 ナチは壁にもたれ掛かりながら、小さく首を傾げた。すると、イサナとメリナの視線が同時にナチに向けられる。


「ナチさんはマオさんとはどういう関係なんですか?」


「どういう関係って、僕とマオは一緒に旅をする仲間で、相棒だよ」


 マオが何故か、唇を尖らせる。


「大事な?」


 メリナの問いに、マオが何故か喰い気味でナチを見る。僅かに体がナチへと近付いたのは、気のせいだろうか。


 嘘を吐く必要は無いか、とナチは頬を掻きながら頷いた。


「大事な相棒だよ」


 言った後に、凄く恥ずかしくなったが、マオが一瞬呆然とした後に、花が咲き誇ったかの様に笑顔を浮かべたので、まあいいか、とナチはマオに笑顔を返す。


 所詮は軽口。特に深い意味は無いのだから。


「良かったですね、マオさん」


「はい!」


 口角を更に上げ、白い歯を覗かせるマオ。簡単に誘導尋問に乗ってしまったな、と思いながらも、それほど悪い気もせず、ナチは小屋の外をぼんやりと眺めた。


 少しだけ弱くなった雨。ボタボタと音を立てる雨音。屋根を打ち付ける大粒の雫は、まだ降り止むことはなさそうだ。


 その音に混じって、ナチは小さな音を聞いた。気がした。何かの足音。人が鳴らしている物では無い。人の足音にしては甲高い気がする。


 馬の蹄が大地を蹴り砕く音。ナチが耳にした音は、それに近い。一定のリズムで刻まれるその足音。その小さな音は、しばらくなり続けていたが、すぐに聞こえなくなった。


 小屋から離れていったのか、再び雨脚が強くなったせいか。ただ歩行を止めただけなのか。それは小屋を出ないと分からないが、小屋を出る気にはならなかった。


 ナチ達の存在に気付いているのか分からない以上は、ここは無視が無難。それにトリアスと言う村に物資を運んでいる、旅商人の可能性もある。


 無理に接触を図る必要は無い。


 ナチは耳を小屋の外に傾けながら、視線をマオ達に移した。談笑している様子の三人。あれ、とナチは小さな黒い獣を探す。視線を彷徨わせていると、床に着いている右手に柔らかい感触。


 爪が少し食い込み、じんわりと痛みが生じる。


 右側へと視線を向けると、イズがナチの右手の上に両腕を乗せて、ナチを見上げていた。


「馬の蹄の音だったな」


 小さな声で紡がれたイズの声。ナチだけに聞こえる様に紡がれた小声。その声に、マオ達は気付いていない。


「もう離れていったみたいだけどね」


「いや、小屋の近くにおる。小屋の近くで待機しておる」


「そんな事も分かるの?」


「あまり遠方の音を聞き取る事は難しいが、小屋周辺の音を聞く事は容易だ」


 ナチの膝に乗り、小屋の外へと視線を向けるイズは、体を丸める。アンテナの様に耳をピンと立てる姿は、黒い兎の剥製の様に見えた。


「どう?」


「いや、動く気配は無い。道に迷っているだけなのか、小屋を監視しているのか。一度、外に出て接触して見ない事には分からぬ」


「それは止めた方がいい。僕達が出て行けば、この小屋に人がいるって証明になる。向こうに接触してくる気が無いなら無視するべきだよ」


「だが、先手を打たれたらどうする? 危険な存在が我等を見ているのかもしれぬのだぞ」


「大丈夫。イズの耳があれば後手に回る事は無いよ。向こうはイズの存在を知らないし、僕達が気付いている事を知らない。もし、イズが言う様に危険な存在だとしても、僕達は常に相手の動きに合わせて動ける。この状況は僕達に有利だよ」


「……慎重なのか、大胆なのか。だがまあ、お前がそう言うのならば、我は信じる事にしよう。いつでも迎撃できる準備だけはしておけ」


「分かった」


 ナチはポケットに入った大量の符に触れた。ブラスブルックでネル達に貰った布の切れ端や、道端で拾った葉。当分は簡単に符切れを起こさない程の量が六つのポケットには入っている。


 後は属性を込めて、敵に向けて放り投げるだけ。迎撃の準備は常に出来ている。


 ナチとイズが外に意識を集中させていると、談笑しているマオが一度だけ、視線をナチ達へと向けた気がした。しかも、普段より声量が大きい気がする。


 注意を引き付けている様な、何かを誤魔化そうとしている様な、不自然な声量の大きさ。ナチが訝しんでいると、イズが欠伸を漏らしながら、小声で言った。


「我がマオに頼んだのだ。雨音が強いとはいえ、こんな小さなボロ小屋の中では、いくら声を絞ったとしても声は耳に届く。だから、イサナ達の注意を引き付けておいてほしい、と」


「そういう事……」


 マオが不自然な声量を出している理由に納得しながら、ナチは目を閉じ、意識を外へと傾けた。視覚が遮断された事による、聴覚の鋭敏化。


 それは微細な変化でしかない。気休め程度の代物だが、それでも僅かな音でも拾える事が出来れば良い。


 音を待つ。雨音に意識が集中しない様に、聴覚を研ぎ澄ます。機械ではない以上、全ての雑音を除去する事は不可能。だが、それでも多少はマシになる。


 ナチは一度、深呼吸。その音すらも聞こえない位には集中している。集中できている。ゆったりとした心音すらも、耳は無視する。良い調子だ。


 集中力が最高に高まっていく。 

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アヴェリアム・コード ~消えゆく世界と世界を渡る符術使い~ @bojojojo

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