第48話 雨音

 雨音。それはしとしと、と鳴り響き、次第に音を変えていく。激しくなっていく。しとしと、と鳴り響く霧雨は、ボタボタ、と音を変え、やがて驟雨に変わった。


 黒よりも薄く、灰色よりも濃い空は雷光に空を輝かせ、大地に雷鳴を轟かす。


 天を駆ける暴風は、青天を隠す暗雲を吹き飛ばそうと躍起になっているが、暗澹たる雲は増殖を繰り返し、消える事は無い。


 どこまでも暗くなっていく世界。時折、見せる雷光はすぐに消えてしまって太陽の光とは、程遠い明るさだ。


 このまま雨と湿気が世界を包みこみ、世界を湿気の渦に飲み込んで、全ての生物を窒息死させるのではないか、と少し心配になる。


 そのせいか、雨の中を駆け抜けていると、足も腕も呼吸も、少し苦しくなる。息切れが早くなり、足が痛む速度も嫌に早い。


 それは雨のせいなのか、それともただの運動不足なのか。加齢による身体能力の低下か。などと下らない事を考えてはみても、答えは分かり切っていた。


 全てだ。雨を吸って重くなった衣服と体。普段から運動している訳ではない体。年齢と共に落ちる体力、肺活量。


 その全てが、ナチを苦しめる。子供と遊ぶ為に久し振りに運動した父親の様に、息を切らし、回らない足を必死に回転させる。


 前を走る薄いオレンジ色の髪をした少女に必死に追い縋ろうと、全身を使って速度を上げようとするが、現実はそう上手くはいかない。


 いや、とナチは考える。ナチが遅いのではなく、目の前を走る少女が速すぎるだけなのでは、と。実際、彼女の走力は同年代の少女と比べても、十分に高いと言える。


 それに加えて、目の前の少女は身体能力が高い。純粋な身体能力だけならば、ナチを上回っていると思う事も多い。


 これで全てが繋がった。ナチが遅いのではないのだ。マオが速すぎるのだ、と。


 ならば、無理に速度を上げなくてもいいはずだ。ナチは全速力で走っているし、手を抜いている訳ではない。この速度を保つ事こそが、ナチの役割。使命。


 そうに違いない、と一人頷いていると、マオの肩に乗った小さな黒い兎の様な生物が、ナチを見ていた。雨に濡れた小さな黒い獣は怠そうに、マオの肩の上で伸びている。


 そして、体と同じく気怠そうな、鮮血の様な鮮やかな赤い双眸はナチを見て、いきなり鋭い目つきに変わる。


「もっと気合を入れて走らんか、馬鹿者!」


「え? あ、ごめん」


 いきなり怒鳴られ、恐縮です、とばかりにナチは小さな黒い獣に対して頭を下げた。


「イズさん、気にしないでいいよ。お兄さん、足遅いから。仕方ないよ」


 ちらり、とオレンジ色の髪の少女がナチを見る。雨に濡れた髪を顔に纏わりつかせ、それを手で払うと、盛大に溜息を吐いた。


「まあ、マオが良いというのなら我は構わぬが」


 マオとイズはそれきり、ナチには視線を向けず、林道を走り続けた。雨に濡れた土をマオが強く踏んだ事で、跳ね上がる土が後方を走るナチに勢いよく飛んでくる。


 それを、体を捻って躱しながら、ナチは息を大きく吸い、走る速度を上げた。前を走るマオに追い縋る。彼女の横に並ぶと、ナチは必死に余裕だ、と言わんばかりに笑顔を作る。


「お兄さん、無理しない方が」


「無理なんてしてないよ。これ……くらい……」


 とは言いつつも、呼吸が覚束ないのは事実だった。すぐに、ペースダウンするナチ。それを見て、マオは苦笑し速度を落とす。


「お兄さんは意外と体力無いよね」


「多分、数百年何もしてなかったから」


 白の監獄内に居た数百年。ナチは術を使用したり、猛ったりしていただけで、運動という行為をしていなかった。だからか、体力、筋力は白の監獄に入る前に比べると、かなり落ちている。


 それでもこの世界に降り立ち、実戦や特訓などを繰り返し、体力なども戻ってはきてはいるが、それでも全盛期の頃に比べると程遠い。


「そう言えば、変な世界に閉じ込められてたんだっけ?」


「うん。全部が白くて何もない世界に数百年の間、閉じ込められていたんだ。だから、体力が落ちてる、というか持久力が落ちてる気がする」


「じゃあ、体力が戻ったらサリスにも勝てるね」


「それはどうだろ」


 体力が戻ったからと言ってサリスに勝てるか、と言われると、それはまた別の問題だ。サリスに勝利するには、体力や筋力を養いつつ、実力を底上げする必要がある。


 今の符術に革新的な何かを足す。もしくは、全く別の何かを取り入れる。といった、今のナチには全く持って非現実的な事をしなくてはならなかった。


 そんな方法はすぐには見つからない。そんな簡単に見つかれば、誰も地道な研鑽と特訓を積んだりしない。それに、馴染みの無い異世界でそんな方法を見つける事が出来る確率は限りなく低い。


 そしてナチもマオもサリスも、今までに培ってきた力と技術が今の戦い方に繋がっている。強さの根幹になっている物は、今までの経験から弾き出された物。


 ならば、簡単に強くなれる便利な力や道具を求めるのではなく、今持っている力を地道に旅の中で鍛えていくのが、最も現実的だという事だ。


 というよりは、ナチはそのやり方しか出来ないのだと思う。


「そこは嘘でもいいから、勝てるとか言ってよ。まあお兄さんらしいとは思うけど」


「ナチは真面目だからな。下手な嘘を吐き続ける軽薄な男よりはマシだろう?」


 マシって、とぼやきながらもナチは口を挟む事はしなかった。その代わりに勢いを増し続ける雨音に意識を集中させる。


「それはそうだよ。甘いだけの言葉なんていらないよ。欲しいのは甘い言葉を、より甘くしてくれる誠意ある行動だよ」


「甘い言葉だけならば、誰でも言える。誰でも言える陳腐な言葉ではなく、誰にでも真似できる誠意ある行動と姿勢。それが欲しいのだ我等は」


 そう言って、ナチを見るイズとマオ。「気を付けるよ」とだけ言い渡し、ナチは前を見続けた。誰にでも真似できる誠意ある姿勢と行動とは、どういう行動なのだろうか。


 ナチには皆目見当もつかない。分からなくてもいいだろう、とも思う。どうせ、ナチはナチの思った通りの行動しかできない。


 慎重に臆病に。ナチには、そう生き方しか出来ない。


「それにしても、この世界とは異なる世界が存在するというのは、未だに信じられぬな」


 ブラスブルックを出てすぐに、イズには異世界と世界樹の情報。そして、無数の異世界が置かれている今の状況を説明していた。


 それを聞いたイズの反応は、物凄く冷静だった。物静かに「そうか」とだけ答え、欠伸を掻いていた。


 どうでも良さそうに、マオの肩の上で耳を掻いていたのが印象的だったが、実は興味があったのかもしれない。興味が無ければ、異世界の事を口に出したりはしない。


 本当に素直じゃないなあ、と思ってイズを見ていると、「何だ?」とイズがナチへと顔を向けながら言った。「何でもないよ」と言い返しながら、ナチは少しだけ口角を上げる。


「私もイズさんと同じだよ。実際に世界樹とか異世界とか見た事ないし。本当に存在するんだよね、お兄さん?」


「うん。存在するよ。この世界と、もう一つの世界だけ」


「他の世界はどうなっているのだ?」


「さあ? 消えちゃったから良く分からないんだ」


「さあって、気にならないの?」


「だって、確かめる方法もないし。あまり、気にしない様にしてるんだ。気にしてもしょうがない事はね」


 マオが目を見開き、ナチから不意に目を逸らした。視線を落とし、少しだけ表情が翳った様な気がしたが、きっと気のせいではないだろう。それを横目に見ながら、ナチは頬を掻いた。


 マオが気を落とした原因は分からないが、雨でぬかるんだ道を走り続ける三人の間に生まれる沈黙。バシャバシャと音を立てる足音が少しだけ大きく聞こえだす。


 雨音に混じって聞こえてくるそれは、林道を進む度に大きくなっていく気がした。


 そして、沈黙のまま、しばらく歩いていると、前方に小さな家屋が見えた。木造の小屋。長方形の小屋の周りには雑草が伸び放題になっており、木から伸びた蔓が小屋の側面に巻き付いている。


 年季は入っている様だが、それでも雨宿りには使えるはずだ。ナチは小屋を指差しながら、マオの肩を叩いた。ゆっくりと、申し訳なさそうにマオの視線がナチへと向く。


「あの小屋で雨宿りできるかもしれない」


「え、あ、うん」


 完全に心ここにあらずのマオに、苦笑しながらも、ナチ達は走るペースを上げながら、小屋へと近付いて行った。





 小屋に近付くと、余計に年季の入り具合が顕著に見えた。小屋に備え付けられた唯一の扉は、立て掛けられているだけで、既に扉としての役目は果たしてはいない。


 獣が付けたのか、小屋の壁には引っ掻き傷の様な跡が無数に刻まれていた。とは言え、雨宿りをするには十分な小屋ではある。


 雨風を凌げて、短時間でも足を伸ばせるのならば儲け物だ。


「中に誰も居ないと良いんだけどね」


 ナチがおどけた様子で言った。それに曖昧に返事をしながら、マオは笑みを浮かべ、首を縦に振る。


 すると、ナチは僅かに口角を上げ、目尻を下げた。穏やかな笑みだと思う。それに、気を遣ってくれているという事も分かる。


 ナチが小屋に立て掛けられている扉に手を伸ばす。その光景をナチから少し離れた場所で見ていると、マオの右肩に乗っているイズが、弱い力でマオの頬に触れた。


 そして二回、優しく叩くと、イズはマオの肩の上で体を伸ばした。


「どうした?」


 柔和な響きで紡がれたイズの声。その声に安心感を覚えるのは、何故なのか。彼女が母親だからか。もしくは、積み重ねて来た威厳だったりするのだろうか。


 それとも、イズだから、こんなにも安心するのか。気が付けば、マオは口を開いていた。


「世界が二つしか残ってないって事は、お兄さんが生まれた世界も消えちゃったかもしれないんだよね?」


「それが気落ちしていた理由か?」


 マオは素直に「うん」と頷いた。


 大量に吐息を漏らすイズ。もう一度、息を大きく吐いたイズは、マオの頬を数回叩いた。あまり、痛くは無かった。力を弱めてくれているのだろう。


「世界を救う旅をしておるのだろう? ならば、問題はない。消えた異世界をお前達が救えば、ナチの故郷も助けられる」


「……そっか。そうだね」


「そうだ。それに世界を救えなければ、この世界も消える、という事になる。もう、我等に残された選択肢は二つしかないのだ。世界を救えるか、救えないか。その二択だけだ。だから、今はあまり難しく考えすぎるな。難しく考えるのは、情報が集まったその時でいい」


「……うん。そうする。ありがとう、イズさん」


 マオは笑顔を浮かべながら、イズの頭を撫でた。ふん、と鼻を鳴らしながら、イズは耳を二回程小さく動かし、小さな手を小屋へと向ける。


「さあ、小屋に入ろう。このままでは体調を悪くする」


「うん!」


 扉を小屋の壁に立て、小屋の前で立ち尽くしているナチの下に、マオとイズは駆け寄っていく。組んでいた腕を崩し、マオの顔を見ると、ナチは朗らかな笑みを浮かべた。


 マオも微笑みを返す。正直、ナチが自身の故郷の事をどう思っているのかは分からない。助けたいと思っているのか、思っていないのか。それはマオには分からない。


 けれど、マオは自分が住むこの世界が消える事は望まない。だから、世界を救いたいと思う。ついでに、ナチの世界も救ってやろうと思う。それでいいのだろう。


 世界を救う可能性を持っていようが、持たなかろうが、それは関係ない。大事な家族が住むこの世界を助けたいと思うのは、自然な事なのだから。


「私がお兄さんの故郷も救ってあげるからね」


「え?」


 ナチが目を大きく見開き、瞬きを数回、繰り返した。


「マオが落ち込んでた理由ってまさか……」


「そのまさかだ」


 ナチが声を上げて笑う。そういう事ね、とナチは雨に打たれながら白い歯を覗かせた。


「別に僕の故郷の事は気にしなくていいのに。もう僕の両親も友達も、誰も生きてないんだから。思い入れも無いよ」


 ナチは笑いながら言って、小屋へと向かって行く。


 最初何を言われたのか、分からなかった。だが、すぐに理解する。そうだった。ナチは数百年の間、閉じ込められていた。それは恐らく事実だ。


 その世界に居たナチは歳を取らず、食事や睡眠を取らなくても、死ぬことは無い。けれどもそれは、その世界に足を踏み入れた人間だけが得られる恩恵。


 無数の異世界は、ナチがその世界に閉じ込められていた間も、時を進めていたはずなのだ。普通に歳を取り、食事をし、眠る。その繰り返しの生活をしていたはずなのだ。


 数百年。百年なのか、二百年なのか、マオにそれを証明する術は無い。が、どちらにしても、ナチの生まれ故郷の知り合いは殆ど命を落としていると思っていいだろう。


 寿命か、病死か、殺人か、自殺か。どんな死因にせよ、人は必ず死ぬ。一部の例外を除けば、これは逃れられない運命。永久不変の縮図。人が人である証明。


 そうなると、亡くなったのはナチの生まれ故郷の人間だけではない。全ての異世界が対象になる。ナチが異世界を行き来し、知り合った全ての人間は既に命を落としているという事になる。


 それを、ナチは知っているのだ。もう、どの世界にも友が居ない事を。家族が居ない事を。それを全て知った上で、彼は笑っているのだ。世界を救おうとしているのだ。


 寂しくは無いのだろうか。悲しくは無いのだろうか。怖くないのだろうか。たった一人で生きていく事に対して。


「行くぞ、マオ」


「……うん」


 マオは小さく頷き、ナチの後を遅れて追った。

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